第三十話 ヨハンの手紙
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新予定です。
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一ヶ月が過ぎた頃、リンデが財務棟に封書を持ってきた。
「王都から届きました。差出人は——クロウリー侯爵家の執事頭の方から、と書いてあります」
アイリーンは手を止めた。
「ヨハン様から」
「はい」
封書を受け取った。リンデが「後でよろしいですか、少し話があります」と言った。「はい」と答えると、リンデが一礼して出ていった。
封書を開いた。
ヨハンの字だった。丁寧で読みやすい、執事らしい字だった。
「拝啓——ローウェン様が辺境にてお仕事をされているとのこと、遅ればせながら知りました。先日、シュヴァルツ公爵様からのご連絡があり、改革案がお役に立っているとのこと、安堵いたしました。覚書を転送した件、ご承諾をいただかずに進めたことをお詫び申し上げます。ローウェン様のご仕事が正しい場所に届いたことを、誠実な仕事の先には必ず見てくれる人がいると確信しています——」
そこまで読んで、少しの間、手が止まった。
(ヨハン様が。)
公爵家に転送した後、公爵から「役立っている」という返事が来たのだろう。そしてヨハンは、それをアイリーンに知らせようと手紙を書いた。
「誠実な仕事の先には必ず見てくれる人がいると確信しています」という一文が、最後の一行に書いてあった。
手紙を膝の上に置いた。
(あの方が、そう書いた。)
「申し訳ありませんでした」と頭を下げていたヨハンが、今度は「必ず見てくれる人がいる」と書いた。侯爵家での八年間を「見ていた」ヨハンが、こう書いた。
何かが、胸の中で静かに動いた。
感情が外に出そうになる手前で、引き取った。
リンデが少し後に戻ってきた。
「よろしいですか」
「はい」
リンデが椅子に腰かけた。少しの間、言葉を選ぶような間があった。
「実は、改革案の最初の経緯をご存じでしょうか。シュヴァルツ公爵家に改革案が届いた経緯です」
「父から聞きました。侯爵家の執事頭が転送したと」
「はい。それはご存じだと思っていましたが——その手紙にも書いてあった内容を、少し補足できるかと思いまして。公爵様から聞いた話があります」
「どういうことでしょうか」
リンデが続けた。
「公爵様がその覚書を受け取ったとき、まず内容を読みました。数日かけて。それから「作者に会いたい」とおっしゃいました。内容の精度と、問題の把握の深さから、「この人間の仕事は信頼できる」と判断されたのだと思います」
「……最初から、仕事の内容で」
「はい。ローウェン様の身分や性別についての話は、一度も出ませんでした」
アイリーンは少しの間、リンデを見た。
(最初から、仕事で見ていた。)
最初の面会で「これを書いたのか」と言われた日のことを思い出した。仕事の話から始まった。挨拶より先に、「この仕事を書いたのか」という確認が来た。あれは、覚書の内容を先に読んでいたから出た言葉だった。
「ヨハン様の手紙にも、「価値を正確に説明していた」という話がありましたか」
「公爵様は——ヨハン様の手紙の内容が具体的だったとおっしゃっていました。改革案の問題設定の正確さを、執事頭が正確に評価して書いていた、と」
「ヨハン様が評価を書いていた」
「はい。「辺境の役に立つかもしれない」という言葉が、公爵様の読む動機になったのだと思います」
アイリーンは手の中の封書を見た。
(ヨハン様は、わかっていた。)
侯爵家で唯一わかってくれていた人が、「この仕事は辺境の役に立つかもしれない」と書いた。そしてその評価が、今の場所につながった。「申し訳ありませんでした」という謝罪の後ろに、そういう行動があった。
「……あの方が」
声に出た。それだけだった。
リンデが静かにアイリーンを見ていた。何も言わなかった。
アイリーンは封書を書類入れにそっとしまった。今夜、もう一度読もうと思った。「ありがとうございます」と言いたかった言葉を、今度は手紙に書こうと思った。ヨハンへの返事の中に。
窓の外で、夕暮れが来ていた。
公爵家に来てから一ヶ月。ヨハンが手紙を書いてくれた。仕事が正しい場所に届いた、と書いた。その「正しい場所」に今、自分はいる。
財務棟の帳簿が、夕暮れの光を受けて橙色に染まっていた。
*
夜、部屋でヨハンへの返事を書いた。
「ありがとうございました」という書き出しにした。今度は迷わなかった。引継ぎの朝に言えなかった言葉を、一ヶ月越しに書いた。
何に対して感謝するかを書いた。帳簿を受け取ってくれたこと。馬車を手配してくれていたこと。改革案を正しい場所に届けてくれたこと。「誠実な仕事の先には必ず見てくれる人がいる」という言葉が届いたこと。
全部書くと長くなった。しかし全部書いた。
最後に一行付け加えた。「ここでの仕事は順調です。見てくれる人がいました」。
それだけを書いて、封をした。
「見てくれる人がいました」という言葉が、自分でも少し驚くほど素直に出てきた。侯爵家にいるとき、「見てくれる人がいない」という事実を意識したことは少なかった。意識しないことで続けられていた部分があった。
今は——「いる」と書けた。
リンデが「楽しみにしています」と言う。アルドリックが「数字通りだ」と言う。ヨハンが「必ず見てくれる人がいる」と書いた。そういうことが、少しずつ確かになっていた。
燭台の炎が揺れた。
窓の外の辺境の夜は深く静かだった。手紙を机の端に置いた。明日の朝、リンデに頼んで送り出してもらう。
ヨハン様の「誠実な仕事の先には必ず見てくれる人がいる」という言葉を、もう一度頭の中で繰り返した。信じてよかった、と静かに思った。




