第二十九話 数字が合う瞬間
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新予定です。
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三週間目の半ば、何かが見えた。
越境商人との三回の聞き取りが終わり、実地データが揃い始めていた。帳簿の整理も七割が終わって、数字の全体像が少しずつ見えてきた。
その日の午後、帳簿を二冊並べて照合作業をしていた。片方は越境商人の取引記録。もう片方は税収の月次集計。二つを並べると——数字の動きに連動があるはずだった。特定の月に越境取引が集中し、その翌月に税収が跳ね上がる、というパターンがあると予測していた。
照合を続けた。一年分、二年分、三年分——。
「……あ、ここだ」
声に出ていた。
越境商人の動きが集中する月は「春の収穫前」だった。農産物の先物取引に近い動きで、この時期に大量の取引が発生する。しかしその月の税収記録には、その分が入っていない。翌月に入っているわけでもない。どこにも入っていないか——「その他」の箱に入っている。
(ここに、消えていた数字がある。)
三年分の数字を確認した。毎年、春の収穫前に同じパターンが出ている。消えている額を概算した。大きかった。想定していた倍近い数字になった。
「数字が合う瞬間が好きなんですよ」
独り言だった。声に出してから、また少し驚いた。
しかし今度は財務棟の中に誰もいないはずだった。リンデは午前中に来て、もう下がっていた。
計算を確認した。三年分、四年分——さらに遡ると、同じパターンが五年以上続いていた。これは確認できた事実だ。この数字を根拠に、課税方式の改革案を一段階精密化できる。
夕方まで作業を続けた。
翌日、財務棟の廊下でリンデに会った。
「昨日、廊下を通ったとき——少し聞こえてしまいました」
リンデが少し申し訳なさそうに言った。
「……何が」
「数字が合う瞬間が好き、とおっしゃっていたので」
アイリーンは一瞬、何を答えるか迷った。恥ずかしいというより、「また独り言を聞かれた」という既視感があった。
「……聞こえてしまいましたか」
「はい。すみません、立ち聞きするつもりではなかったのですが」
「いいえ、大丈夫です」
リンデが少し口元を動かした。微笑みに近い何かだった。
「よかったです。数字が合うのが好きな財務の方というのは、初めて聞きました」
「好きでないと続かない仕事ですから」
「……そうですね」
リンデが穏やかな声で言った。「好きでないと続かない」という言葉が何かに触れた様子だった。
「昨日は何が合いましたか」
「越境商人の動きと税収の連動が、五年以上続いていることが確認できました。消えていた数字の場所がわかりました」
「消えていた数字、というのは」
「課税されていなかった取引です。記録方式の問題で、帳簿に入っていなかった。それが五年分見つかりました」
リンデが少し間を置いた。「それは——大きな発見ですね」と静かに言った。
「はい。改革案の精度が一段階上がります」
「公爵様にはお伝えになりましたか」
「今週の報告で話します」
リンデが頷いた。「楽しみにしています」と言って歩き出した。
アイリーンは財務棟に向かった。
(楽しみにしている。)
その言葉が、少し新鮮だった。リンデが「アイリーンの仕事の結果を」楽しみにしている。侯爵家では、誰かが自分の仕事の結果を楽しみにしているという経験がなかった。
財務棟に入って、昨日の続きを始めた。
数字が合う瞬間が好きだ。それは今も変わらない。しかし今日は、その「好き」を誰かが「楽しみにしている」という新しい感触がついてきた。
窓から光が入っている。今日も、いい場所で仕事ができた。
*
その日の午後遅く、アルドリックが財務棟に来た。
最近、頻度が増していた。最初の週は一度だったが、今週はすでに三度目だった。
「今週の報告を聞いた。数字の話があると言っていたな」
「はい」
アイリーンは昨日見つけたデータを出した。越境商人の動きと税収の連動のパターン、消えていた数字の場所と規模の概算。
アルドリックが数字を見た。静かに見ていた。しばらくして顔を上げた。
「これが毎年続いていたのか」
「五年分確認しました。それ以前は記録が不十分で確認できませんでしたが、同じパターンが続いていた可能性が高いです」
「概算で、どのくらいの数字になる」
「五年分の合計で、税収の年平均のおよそ十五パーセント相当です」
アルドリックが少しの間、黙っていた。
「……十五パーセント」
「推計ですが、記録が整えば精度が上がります」
「改革案で回収できるか」
「新しい記録方式を導入すれば、今後は漏れを防げます。過去分の遡及は——難しい部分もありますが、証拠が残っている部分については確認できます」
「遡及は商人の同意が必要だな」
「はい。ベルク様は協力的でした。他の商人も同様であれば、可能です」
アルドリックが提案書の表紙を手に取った。少しの間見てから机に戻した。
「数字通りだ」
短い言葉だった。評価の言葉だと理解した。
「予測と実態が一致した、ということですか」
「提案書に書いた問題の規模と、今日の数字が合っている。それだけだ」
「ありがとうございます」
アルドリックが立ち上がった。「続けてくれ」と言って出ていった。
扉が閉まった。
「数字通りだ」という言葉が頭に残った。提案書に書いた内容が、実地の確認によって裏付けられた——それを「数字通りだ」という一言で表した。
今日は、三つの「数字が合う」があった。帳簿の中での発見と、リンデへの報告と、アルドリックの「数字通りだ」という確認。全部が、同じ種類の喜びだった。
財務棟の窓が夕暮れの光を受けて橙色に染まっていた。




