第二十八話 商人との準備
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新予定です。
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水曜日の朝、財務棟に帳簿を一冊持って執務室の応接間に向かった。
ベルク商会の主人——ルーカス・ベルクという名の五十代の商人が、すでに来ていた。リンデが引き合わせた。がっしりした体格で、日焼けした顔に深い皺があった。「辺境を二十年歩いた」という顔だった。
「ローウェン様がシュヴァルツ家の財務顧問になられたと聞きました」
「はい。よろしくお願いいたします」
「女性の顧問は珍しい」
率直な言葉だった。批判ではなく、事実として言った様子だった。
「お時間をいただきありがとうございます。越境商人への課税方式について確認したいことがあって」
「帳簿をお持ちですね」
「はい。今の記録方式の問題点をいくつか確認させてください」
ベルクが「構いません」と言って向かいに座った。
アイリーンは帳簿を開いた。越境取引の記録が「その他」に入っている場所を開いた。
「この記録方式だと、どういう問題が生じますか。実際の取引の側から見て」
ベルクが帳簿を見た。少し眉を寄せた。
「これは確かに混乱しますね。私たちはどこで取引したかを記録していますが、こちらの帳簿では居住地と取引場所が混在しています」
「居住地と取引場所の違いは大きいですか」
「大きい。私の商会は王都に登録していますが、実際の仕入れと売りはほぼ辺境です。王都の課税基準で計算されると——」
「実態と合わない部分が出る」
「そうです。それが毎年申告のときに問題になる。でも記録の方式が変わらないので、ずっと曖昧なまま続いてきた」
アイリーンは聞きながら、覚書に書いてきた問題の構造が確認されていくのを感じていた。理論として書いていたことが、実際の商人の経験として語られている。
「例えばこの数字は——」
帳簿の一行を指した。「この取引は居住地ベースで記録されていますが、実際の取引場所はどちらでしたか」
ベルクが数字を見た。年号を確認した。「この時期は辺境で仕入れて辺境で売りました。王都は関係ない」と言った。
「そうすると、課税根拠は辺境側になる」
「そうなるべきです。しかし記録方式がないから、結果的にどちらでも処理されてきた」
アイリーンは別の紙に書き留めた。実地の確認ができた。
「新しい記録方式を導入する予定です。居住地と取引場所を別々に記録して、品目ごとに課税根拠を設定する方法です。商人の方々への負担はどのくらいになりますか」
「記録の項目が増えますか」
「五項目です。今より三項目多い」
ベルクが少し考えた。
「三項目なら問題ないと思いますが、書き方を明確にしてもらわないと。商人によって書き方が違うと、また混乱する」
「記録の書式を統一します。実際に書くサンプルを用意します」
「それがあれば、うちは対応できます」
「ありがとうございます」
話は一時間続いた。ベルクが辺境の商取引の実態を、細かく話してくれた。季節ごとの動き方の違い、どの商品が国境をまたぎやすいか、記録に誤りが出やすい場面はどこか——帳簿からは見えない情報が出てきた。
会議が終わったとき、ベルクが立ち上がりながら言った。
「前の担当者は一度も話しかけてきませんでした」
「……そうですか」
「帳簿だけ見て、実際に何をしているか聞きに来なかった。だから記録が合わないままで」
「帳簿は現実の後を追うものですから」
ベルクが少し頷いた。「なるほど」と言ってから「よい顧問を雇いましたね」とリンデに言った。
アイリーンは礼をして部屋を出た。
廊下で少し立ち止まった。
(帳簿だけ見ていては、現実は見えない。)
今日の確認で、覚書の理論が一段階具体的になった。数字と現場の両方を知る。それが仕事の基本だった。
財務棟に戻って、今日聞いたことを書き留めた。記録が積み上がっていく。
*
夕方、リンデが財務棟に来た。
「今日の商人との会合はいかがでしたか」
「有益でした。帳簿からは見えなかった情報がいくつか確認できました」
「ベルク様は話してくれましたか」
「はい。よく話してくださいました。記録方式の変更についても、対応できると言ってくれました」
リンデがほっとした様子だった。
「実はベルク様は少し頑固な方で、方式の変更を嫌がることが多いんです。前の担当者のときも、新しい申請様式を断られたことがあって」
「今回は話し合って決めましたので。一方的に変更を告げるのではなく」
「……なるほど」
リンデが少し考えた。「そういう違いが出るのですね」という顔をした。
「他の商人も同じ方法で進めると思います。まず実情を聞いてから、一緒に設計する」
「公爵様はそのやり方をお好みになると思います」
アイリーンは少し首を傾けた。
「公爵様が商人との関係でどうされているか、教えていただけますか」
「公爵様は商人を信頼されています。契約を守る方、守らない方をきちんと区別されていて、守る方には長く取引を続けられます。強引な交渉はされません」
「それは——仕事のやり方として共通していますね」
「公爵様と、ですか」
「はい。一方的に決めるのではなく、相手の立場を確認してから決める」
リンデが少しの間、黙っていた。「そういう見方をするのか」という表情だった。
「ご存じなかったですか」
「……公爵様を評価した言葉を、そのような形で聞いたことがなかったので」
「仕事の観察から言ったまでです」
リンデが何かを噛み締めるように頷いた。
「では、また来週、残り二名の商人との会合を設けましょうか」
「お願いします」
リンデが出ていった。
夜、財務棟の作業を続けながら、「公爵様を評価した言葉」という言い方が少し頭に残っていた。評価したつもりではなかった。仕事の観察として言ったことが、評価として聞こえた。
(そういうことになるのか。)
観察と評価は別のものと思っていたが、「仕事のやり方を正確に見ること」が評価の形になることもある。アルドリックの仕事の形を、アイリーンは「見やすかった」と思っていた。一貫していたから。
燭台の光の中で書き続けた。




