第三話 夜会の帰り
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新予定です。
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侯爵家の屋敷に戻ったのは、夜の十時を過ぎた頃だった。
玄関で待っていた使用人が扉を開けた。「お帰りなさいませ」という声が廊下に響く。アイリーンは短く「ただいま」と答えた。夜会用の外套を預けたとき、使用人が少しだけ首を傾けた。夜会はまだ続いているはずの時間だった。夜半まで続くことも珍しくない。そんな早い時間に帰宅した婚約者を、どう思っているのだろう——アイリーンは少し考えて、やめた。考えても仕方がない。
「お疲れ様でした。お部屋にお送りしましょうか」
「いいえ。財務室へ行きます」
そう言ってアイリーンは廊下の奥へ歩き出した。使用人の困惑した視線が背中に当たる気がしたが、振り返らなかった。
侯爵家の屋敷を、アイリーンは隅々まで知っていた。本館から渡り廊下を歩いて財務棟へ入る道。古い木張りの床が、踏む場所によって少し軋む。突き当たりを左に曲がって、二番目の扉。鍵は扉の上の棚に置かれたままだった——そこに置くようにしたのも、アイリーンだった。担当者が誰であれ、いつでも開けられるように。
夜の廊下には誰もいなかった。使用人たちは自室に引いているか、まだ夜会に出ているロランたちのために待機しているかだ。燭台が等間隔に並んで廊下を照らしている。アイリーンの足音だけが、静かな廊下に響いた。
この廊下も、もう何百回と歩いた。帳簿を抱えて、書類を手に持って、季節が変わるごとに。雨の日も、雪の日も、夏の朝早くも。気づけば自分の部屋よりもこの財務棟の方が馴染み深くなっていた。
財務室の扉を開けると、闇と微かな紙のにおいがした。
燭台に火をつけた。炎が揺れながら、室内を照らし出す。
棚が、四方の壁に沿ってぎっしりと並んでいた。帳簿が詰まっている。束で縛られた書類、年号を記した索引カード、分類ごとに色を変えた表紙。八年間かけてアイリーンが整えてきたものが、壁一面に詰まっていた。
しばらく、アイリーンはそのまま立っていた。
量を、改めて確認した。膝丈の棚が三つ。肩の高さまである棚が二つ。足元の床には今年の書類をまとめた箱がある。全部で、どのくらいになるだろう。一冊一冊に、積み上げた時間がある。試算の跡がある。修正の跡がある。誰にも報告しなかったけれど、誰にも認められなかったけれど、確かにここにある。
誰かに「これを全部あなたがやっていたのか」と問われたことは一度もなかった。婚約者にも、侯爵家の家臣にも。ただ「帳簿を整えてくれている令嬢」というくらいの認識だったろう。アイリーンはそれを特に変えようとしなかった。見えなくても、仕事は正しく動いている。それで十分だと思っていた。
今もそう思っている。ただ、これを返す前に、きちんと渡せる形にしなければならない。
(これを、全部返す。)
怒りで去るつもりはなかった。「どうせこんな場所」という気持ちで置いていくつもりもなかった。次にここを担当する者が誰であれ、最初の一週間で途方に暮れないように。引継書を書く。索引をつける。分類の意味を説明する。当たり前のことを、当たり前に終わらせる。それがアイリーンの最後の仕事だった。
「まずは分類から」
独り言を言いながら、最初の帳簿を棚から取り出した。
八年前、最初に手をつけたのもこの棚だった。当時の帳簿は整理されておらず、年号もばらばらで、同じ費目が三種類の書き方で記録されていた。どの数字が何を指しているのか、読み解くだけで一日かかることもあった。それを整理するのに、三ヶ月かかった。ロランは「手伝ってくれているのか」と一度だけ言った。アイリーンは「少しだけ」と答えた。
今は違う。どこに何があるか、一目でわかる。
アイリーンは帳簿を開き、表紙の裏に鉛筆で書き込んだ。「引継用索引・参照資料A」——一から作り直すのではなく、今あるものに説明を加えていく。その方が速いし、正確だ。
作業が始まると、他のことが遠くなった。
婚約破棄も、ロランの顔も、夜会の喧騒も——全部が遠い場所の話になった。あるのは帳簿と、数字と、次にやるべきことだけ。アイリーンにとって、これはいつものことだった。仕事に入ると、感情の余地がなくなる。悪いことではなかった。むしろ、ずっとそれが楽だった。
廊下の向こうで、屋敷の時計が一打ちした。夜がまだ長い。
棚を一つ終わらせれば今夜の分は十分だ——そう思っていたのに、一つ終わるころには次の棚が気になっていた。「ここだけ終わらせてから」という思考が、いつのまにか次の棚へと手を向けさせる。アイリーンは一度目を閉じ、深く息を吸った。
(急がなくていい。今夜は分類だけ。引継書は明朝から。)
順番を決めると、気持ちが落ち着いた。燭台の炎が一度揺れた。隙間風だろう。アイリーンは手で炎を守り、次の帳簿を手に取った。
机の端に、薄い紙の束があるのに気づいた。——辺境の税制について書いた覚書だった。「明日、持ち帰ろう」とアイリーンは思った。返す必要はないが、引継書の束に紛れないようにしなければ。
そう思いながら、また帳簿の続きに集中した。
一冊目の索引を書き終えた。二冊目を手に取る。三冊目。四冊目。手が止まらない。これがアイリーンにとっての「落ち着く」だった。考えなくても手が動く。感情の入る隙間がない。それがいい。燭台の蝋が少し溶けて、炎が小さく揺れた。窓の外はまだ暗い。夜はまだ長かった。




