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侯爵家の「なくても困らない令嬢」が本当にいなくなったら、困った人たちがいたそうです  作者: ヲワ・おわり


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2/70

第二話 婚約破棄の夜

本作は全70話で完結予定です。

本日から毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新予定です。

面白いと思っていただけましたら、ブックマーク・評価で応援いただけると嬉しいです。

 夜会の喧騒は、アイリーンには少し遠かった。


 王都の大広間。連なる燭台が天井まで光を届かせている。音楽が隅々まで満ちていて、招待客の笑い声と混ざり合う。ドレスの裾が床を滑る音、グラスが触れ合う音、華やかな世界の断片がどこを向いても飛び込んでくる。艶やかなドレスを纏った令嬢たちが談笑する輪、威風堂々とした貴族の男性たちが語らう隅——どこを見ても、王都社交界の賑わいがあった。


 アイリーンは壁際に立っていた。


 ローウェン伯爵家の令嬢として最低限の礼をこなした後は、壁の近くで静かに過ごすのがいつものことだった。地味な茶の髪を丁寧に結い上げてはいるが、会場のどこを見ても華やかさでは見劣りする。今夜のドレスは薄い緑色で、悪くはないはずだが特別目を引くものでもない。侯爵家の婚約者として招かれながら、どこか居場所のない感覚があった。


 今夜は何時になれば帰れるだろうか。


 頭の隅に、帳簿の数字がまだ浮かんでいた。農業税の先月分の集計が少し合わない。どこかに計算違いがあるはずで、早く確認したかった。夜会よりもそちらの方が、アイリーンには気になっていた。


「アイリーン。少し話がある」


 声をかけられたとき、アイリーンは視線を向けた。


 ロラン・クロウリーが近づいてくる。二十五歳の、見栄えのよい青年貴族だった。笑顔だった。いつもの、社交に慣れた笑顔だった。


 アイリーンの婚約者だった。八年前から、ずっと。その八年間で、二人がじっくりと話したことは——何度あっただろう。アイリーンは侯爵家に頻繁に出向いていたが、ロランと顔を合わせたとしても、挨拶を交わして終わることが多かった。「忙しいのだろう」とアイリーンは思っていた。婚約者の家の帳簿を整えながら、そう思っていた。


「ええ」とアイリーンは答えた。「何でしょう」


 ロランが少し周囲を見回した。近くに人がいる。それでも気にするふうではなく、軽い口調で続けた。


「婚約を解消しようと思う」


 アイリーンは、グラスを持ったまま、ロランの顔を見た。


「あなたは地味すぎる。侯爵家には、もっと華やかな令嬢の方が相応しい。相手もすでに決まっている。今夜、両家で話をまとめるつもりだ」


 穏やかな声だった。悪意はなかった。天気の話をするくらいの気軽さだった。


 周囲がわずかにざわめいた。近くに立っていた令嬢たちが、そっと視線を向けてくる。息をのむ気配があった。


 アイリーンは、自分の胸の中を探してみた。怒りがあるかどうか。悲しみがあるかどうか。


(……ないな。)


 それが正直なところだった。


 驚きすら、あまりなかった。「いつかこういうことになるかもしれない」という感覚が、どこかにずっとあったような気がした。ロランが侯爵家の財務の中身をどこまで理解していたか、アイリーンはよく知っていた。予算計画を立てた日も、税収の試算を出した日も、家臣の給与を調整した日も——ロランが帳簿を開いたことは、おそらく一度もなかった。「帳簿を少し手伝ってくれている」という程度の認識だったのだろう。


 そしてそれを、特に伝えようともしなかった自分にも、責はある。認めてもらうためにやっていたわけでは、なかったのだから。仕事が正しく動いている。それで十分だったのだから。


「わかりました」


 自分の声が、意外なほど静かだった。


 ロランはほんの少し眉を上げた。謝罪を予期していたのか。あるいは涙を予期していたのか。どちらでもなかった。アイリーンはただそれだけ言い、グラスをそっとテーブルに置いた。それから、ロランに向かって静かに礼をした。


「どうか侯爵家がよい形になりますように」


 それだけ言って、アイリーンは広間の出口へ歩き始めた。誰も止めなかった。音楽は背後でそのまま続いていた。


   *


 侯爵家の馬車の中、アイリーンは窓の外を流れる街灯を見ていた。


 夜の王都。石畳の上を蹄の音が響く。白い月明かりが建物の輪郭を縁取っている。


 「地味すぎる」という言葉を、アイリーンはもう一度頭の中で転がしてみた。やはり怒りは来なかった。来ないことが、自分でも少し不思議だった。もっと傷つくはずだと思っていた。八年間、誠実に仕事をしてきたのに、という気持ちが来ると思っていた。


 でも来なかった。


 きっと、「いつかこうなる」とどこかで知っていたからだ、とアイリーンは思った。仕事の外では、ずっとすれ違ってきた。それを変えようとしなかったのは、自分も同じだった。帳簿の中だけを見ていた。「侯爵家の財務が正しく動いている」ことが重要で、婚約者と親しくなることは後回しにし続けていた。それは正直なことだった。


 ただ、それはロランも同じだったのだろう。社交界での立場が重要で、財務管理は誰でもできる作業の一つに見えていた。どちらも悪意はなかった。ただ最初から、そこに噛み合うものがなかっただけだ。


 終わったのだ。怒りの代わりに、静かな実感があった。そして奇妙なことに、少しだけ——気持ちが軽かった。


 今夜から始めなければならない、とも思った。帳簿を返すこと。引継書を書くこと。誰が来ても困らないように整えること。それが、アイリーンにできる最後の仕事だった。


 馬車が侯爵家の門をくぐった。石畳の響きが、滑らかな街路のそれとは少し変わった。


 屋敷に戻ったら、すぐに帳簿室へ行こう。今夜中に、できるところまで。


 ——アイリーンは、そのことだけを考えていた。

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