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侯爵家の「なくても困らない令嬢」が本当にいなくなったら、困った人たちがいたそうです  作者: ヲワ・おわり


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1/7

第一話 深夜の帳簿

本作は全70話で完結予定です。

本日から毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新予定です。

面白いと思っていただけましたら、ブックマーク・評価で応援いただけると嬉しいです。

 深夜、アイリーンは燭台を一本だけ灯して、帳簿を積み上げていた。今夜の夜会で、婚約者のロラン・クロウリーに「婚約を解消する」と告げられた、その夜のことだった。


 炎が揺れるたびに、数字と文字で埋め尽くされた羊皮紙が影を落とす。年号が刻まれた背表紙——八年前から今年まで、一冊も欠けていない。積み上がった帳簿の塔は、燭台の光を受けてどこか墓標めいて見えた。高さは、もう膝を超えていた。


 八年分というのは、こういうことだ、とアイリーンは思った。重さと体積を持って、そこに存在している。


 アイリーンの手は迷わなかった。


 どの帳簿がどこにあるか、体が知っていた。収穫期の集計はこちらの棚の、左から三番目の束。家臣への給与支払い記録はあの綴り。年次予算の草案は年ごとに色を変えて紐で束ねてある。農業税の変動記録、商業税の月次推移、臨時費用の支出一覧——八年分の記憶が指先に染みついていた。目を閉じてでも動けるくらいに。


 外は静まり返っていた。侯爵家の使用人たちはとっくに自室へ引いている。廊下を行き来する足音さえない。春の夜気が窓の隙間から忍び込んでくる。広い屋敷の中で、アイリーンだけがまだ起きていた。


 羽ペンを握る指先には、染みついたインクの跡があった。どれだけ洗っても薄く残る、仕事の痕跡。八年分の帳簿を書き続けてきた証拠が、自分の手の中にある。アイリーンはそれを特に気にしたことがなかった。慣れてしまっていた。


 今夜でここが終わる。


 そう思った瞬間も、感情らしい感情は不思議なほどなかった。怒りでも悲しみでも、ましてや後悔でもない。ただ「やっと終わる」という静かな感覚が、帳簿を一冊手に取るたびに胸の底に沈んでいく。


(次を引き継ぐ人間が迷わないように。それだけ。)


 アイリーンは机の前に腰を落ち着け、白紙の羊皮紙を手に取った。


 今夜やるべきことは決まっていた。帳簿を年ごとに整理し直し、引継書を仕上げる。索引を付ける。管理の仕組みを言語化する。どの数字がどの書類に紐づいているか、季節ごとにどんな注意が必要か、年によって変動しやすい費目はどれか——すべてを書き残す。この部屋を出たあとに誰が来ても、最初の一週間で途方に暮れないですむように。


 それがアイリーン・ローウェンという人間の、この八年間の最後の仕事だった。


 羽ペンを走らせながら、アイリーンは机上の帳簿をひとつ手に取り、背表紙の年号を確かめた。


 八年前。侯爵家の嫡男ロラン・クロウリーとの婚約が成立したとき、アイリーンは十六歳だった。婚約者の家へ挨拶に出向くたびに、帳簿が少し乱れているのが気になった。ただそれだけだった。整理をすると申し出たのも、仕事を手伝いたいからではなく、目の前の数字が雑然としているのが耐えられなかっただけだ。


 しかしそれは、じわじわと広がっていった。


 十七歳のときには月次の集計をつけるようになっていた。十八歳のときには翌月の予算見通しを出すようになっていた。二十歳を過ぎた頃には年次の徴収計画を立て、家臣の人件費の最適化まで担うようになっていた。農繁期の収穫量と翌年の見込み税収を合わせて試算し、不足が出そうな年は前もって支出の調整を提案した。誰でもできる仕事ではなかった。しかし誰もそれを「誰でもできる仕事ではない」とは言わなかった。


「アイリーンさんがいてくれると助かります」


 そう言ったのは誰だっただろう。覚えていない。いつのまにか、なくてはならない仕組みになっていた。それでも正式な役職はなかった。報酬もなかった。


 あったのは、仕事だけだった。


 帳簿は嘘をつかない。そのことを、アイリーンは父の書斎で帳簿の読み方を覚えた幼い頃から知っていた。どんな言葉より、正しく積まれた数字の方が確かだと思っていた。感謝されなくても、認められなくても、続けられた。数字の中に、自分の仕事の証拠がある。帳簿の一冊一冊に、確かにあった。それで十分だと思っていた。


 十分だと思い続けていた、八年間。


 いつかこの仕事が正式に認められる日が来るかもしれない、と思っていたこともある。しかしそういった考えは、いつのまにか静かに遠のいていった。認められることより、仕事そのものに集中する方が、ずっと楽だった。数字が合う瞬間が好きだった。試算が現実と一致したとき、小さな満足感があった。「これは正しい」と数字が教えてくれる感覚。それだけで、十分だと思っていた。


 蝋が少し溶けた。炎が揺れる。


 ふと、机の端に目が止まった。他の書類とは少し違う、薄い束。昨年の冬から書き始めた覚書——辺境の領地が抱える独特の税制問題を整理したくて、考えを書き付けていたらいつのまにか十数枚になっていたものだ。辺境では越境商人が多く、通常の領地と同じ徴収方式では収入が安定しない。その問題を解くのが純粋に楽しくて、余暇に書いていた。誰かに見せるつもりはなかった。ただ数字と仮説を並べていくのが、楽しかっただけだ。


 これは持ち帰ればいい。返す必要はない。別にしておかなければ、引継書の束に混ざってしまう。


 そう思ったアイリーンは手を伸ばしかけて——帳簿の山が目に入り、引継書の続きへと意識を引き戻してしまった。書かなければならないことが、まだたくさんある。


(覚書は、明朝持ち帰ればいい。後で必ず。)


 しかし手は動かなかった。引継書の続きが呼んでいた。気づいたときには、もう視線が帳簿に戻っていた。机の端の覚書は、誰にも気づかれないまま、静かに引継書の束の中に紛れ込んでいた。それがどこへ辿り着くか——まだ誰も知らなかった。

「……今夜中に終わらせましょう」


 静かな独り言が、暗い部屋に溶けた。


 窓の向こうはまだ暗いままだ。夜明けまで、まだある。


 帳簿の山は、まだ半分以上残っていた。そして机の端の覚書は、誰にも気づかれないまま、引継書の束の中に静かに紛れ込んでいた。

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