第二十三話 財務棟での日々
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新予定です。
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三日目から、財務棟が「アイリーンの場所」になった。
毎朝リンデに鍵を受け取る必要はなくなった。常時預けてあるとアルドリックが言った通り、自分で開けられるようになった。机を使いやすい位置に固定して、窓の光が正面から当たるように調整した。書類入れは毎日同じ場所に置く。道具は机の右端に並べる。小さな習慣が、仕事の速さを決める。
帳簿の整理は三日かけて基本的な部分を終えた。
年度別に並べ直した。費目の表記を統一するための「変換表」を一枚作った——「商業収入」と「取引収益」が同じものだという記録を残すために。今後は両方の表記が出てきても混乱しないように。この種の「当たり前の一歩」が、後で大きく効いてくる。
リンデが三日目の午後に来た。
「何かご入り用ですか」という言い方が、最初の日より少し柔らかくなっていた。様子を確認しに来た、ではなく、「用事があれば」という言い方になっていた。
「今のところ大丈夫です。一つだけ聞いてもいいですか」
「はい」
「越境商人との取引記録が『その他』の箱に入っていました。これは以前から同じ扱いだったのでしょうか」
リンデが少し考えた。「……おそらく、そうだと思います。前任者は越境商人への対応方法がよくわからなかったと言っていました」
「いつ頃からですか」
「私が来た頃には、すでにそういう扱いでした。十年以上前から、ということになりますね」
十年以上。
(長い問題だ。)
覚書に書いてきた問題が、十年以上続いてきた問題として実在していた。七年前の書類の中に課税なしの取引記録があったのも、これと同じ構造だった。
「わかりました。ありがとうございます」
「……何かわかりましたか」
リンデが少し興味深そうに聞いた。最初の日の「様子を見ている」という観察の仕方とは、少し違う聞き方だった。
「問題の根が深いとわかりました。それだけです」
「根が深い、というのは難しいということですか」
「難しいというより、長い仕事だということです」
リンデが黙った。何かを考えている様子だった。
「長い仕事でも、始められますか」
「始めるつもりで来ました」
リンデがそれを聞いて、一瞬何かをこらえる様子があった。感情的な反応ではなく、「確認できた」という安堵に近い表情だった。
「……そうですか」とだけ言って、扉のそばに戻った。
*
四日目の朝、アルドリックが財務棟に来た。
アイリーンは帳簿に向かっていた。扉の音がして振り返ると、アルドリックが立っていた。
「状況を聞いたか」と最初に言った。
「はい。昨日リンデ様からお伝えしました。提案書は今週中に準備できます」
「今週中でいい。急がなくていい」
アルドリックが部屋の中を見渡した。帳簿が年度順に並び直されている。床の箱が整理されている。整理前と整理後の写真があれば一目でわかる変化だったが、そういうものはない。見比べた人間でなければ変化はわかりにくかった。
しかしアルドリックは少しの間、棚を見ていた。
「並んでいる」
「年度別に直しました。費目の変換表もここに」
机の上の一枚を示した。アルドリックがそれを手に取って読んだ。一分ほど読んでから机に戻した。
「変換表が必要だったのか」
「以前の担当者が年度によって表記を変えていたので。同じ費目でも、読む人間によって別物に見えます」
「なるほど」
短く言った。棚をもう一度見て、それから扉の方へ向いた。
「続けてくれ」と言って出ていった。
アイリーンは帳簿に向かい直した。
(来た。)
公爵が財務棟に来ることは「以前はあった」とリンデが言っていた。今も、来た。帳簿の状況を確認しに来た。自分で。
それが何を意味するかは、まだわからなかった。ただ「仕事を確認する人間」であることが、今日も示された。
作業を続けた。午前の光が棚の背表紙を明るく照らしていた。
*
五日目。提案書の草稿を書き始めた。
問題点リストを横に広げて、最も急ぐ問題から順番に対策を書いた。費目の統一、記録の補完、越境商人の処理方式——三つの柱を立てて、それぞれに必要な手順と、完了までの目安期間を書いた。
数字を根拠に置くことが重要だった。「こうすべきだ」という主張では不十分だった。「この数字がこうなっているから、この対策でここまで改善できる」という論理で書く。それが財務の仕事だった。
昨日アルドリックが来て、帳簿の整理を確認していった。「続けてくれ」という言葉があった。それだけだったが、それで十分だった。確認しに来て、状況を見て、「続けてくれ」と言う。指示が明確で、評価が仕事の中にある。
(この場所は、仕事が仕事として動いている。)
そう実感するようになっていた。侯爵家では「婚約者様が財務を手伝ってくださっている」という形で、仕事が仕事として成立していなかった。ここでは「財務顧問として迎え入れた」という形で、仕事が正式に存在している。
違う。
どこが違うかをうまく言葉にするのは難しかったが、毎朝財務棟に来て鍵を開けるとき、「自分がここを管理している」という感触があった。侯爵家の財務室は「自分の場所」ではなかった。ここは違う。正式に任された場所だった。
提案書を書き続けた。
昼頃、リンデが来た。
「ご昼食を食堂に用意しています」
「あと一時間ほど続けたいのですが」
「……一時間後にお持ちします」
そう言ってリンデが去った。「食堂まで来なくていい」という意味で持ってきてくれるという判断だった。アイリーンは少しだけ、その判断の速さに「仕事のできる人だ」と思った。
提案書の第一稿が夕方に完成した。
机の上に五枚の紙が並んだ。まだ荒い部分がある。明日読み返して、数字を補いながら整える。それが終われば、公爵への報告ができる。
窓の外が夕暮れになっていた。橙色の光が帳簿の背表紙を染めた。財務棟の一日が終わる時間だった。




