第二十一話 財務棟、初日
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新予定です。
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翌朝、財務棟の鍵はリンデから受け取った。
「ご不明な点があれば、いつでも」とリンデが言った。アイリーンは「ありがとうございます」と受け取った。それだけだった。
財務棟の扉を開けて、中に入った。
昨日見たのは夜だった。今は朝の光が窓から入っていた。帳簿が壁一面に並んでいる。昨夜の燭台の光より、ずっと多くのものが見えた。棚の全容、床に積まれた書類の高さ、埃の具合——状態が具体的に把握できた。
(相当、積み上がっていますね。)
独り言だった。声に出してから、少し驚いた。自分でもそう思ったというより、思ったことが口に出た。その感覚が少し珍しかった。
机を一つ確保した。財務棟の中央にあった机を少し動かして、窓の光が当たる位置にした。日当たりがいい場所で仕事をするのが好きだった。侯爵家の財務室には日当たりの良い席がなかった。ここはある。
書類入れを置いた。覚書を横に出した。白紙を十枚用意した。
まず全体把握から始める。一冊ずつ読み込むのではなく、最初に「何がどこにあるか」の地図を作る。それが最初の仕事だった。
棚を端から確認した。帳簿を一冊手に取り、背表紙の年号と表紙の内容を確認して、紙に書き記す。次の帳簿。また次。それを繰り返した。
三冊目で、問題の形が見え始めた。
同じ費目が、二つの帳簿に別々の名前で記録されている。「商業収入」と「取引収益」——おそらく同じものだが、年度によって表記が変わっていた。担当者が変わるたびに表記も変わったのだろう。記録が継続していない。
(これは分類の統一から始めなければ。)
紙に書いた。「問題一:費目の表記統一が必要」。
続けた。年号ごとに並べ直しながら、問題点を一つずつ書き留めた。問題が出るたびに番号を振る。二、三、四、五——。
午前中が過ぎた。
リンデが扉を少し開けた。「何かご入り用ですか」という声がした。アイリーンは振り返らずに「いいえ、大丈夫です」と答えた。足音が遠ざかった。
午後になった。
問題点のリストが四枚になっていた。整理の問題、記録の欠落、誤分類、過去の未処理項目——それらが項目ごとに並んでいた。優先度も横に書き加えた。すぐに対処が必要なもの、後でよいもの、確認が必要なもの。
午後の遅い時間、リンデがもう一度来た。
今度は少し止まった様子だった。アイリーンの手元に並んだ四枚の紙を見た。
「……それは」
「問題点のリストです。今日だけで把握できた分です。明日もう少し確認すれば、全体が見えると思います」
リンデが何も言わなかった。四枚の紙を見たまま立っていた。何が書いてあるかまでは読まなかったが、枚数だけで何かを感じた様子だった。
「夕食の時間をお知らせするつもりでした」
「ありがとうございます。あと一つだけ確認を終えたら参ります」
リンデが頷いて、扉を閉めた。
アイリーンは最後の一冊を開いた。今年度の帳簿だった。去年の下半期から記録が止まっている。前任者が辞めたのが半年前だと言っていた。それと一致した。半年間の空白がここにある。
(推計するしかない部分もある。)
しかし推計の根拠を明示すれば問題にはならない。過去のデータから推計できる。侯爵家でもそういう作業を何度もした。
リストの最後に一行書いた。「問題十七:直近半年間の記録空白——推計作業が必要」。
窓の外が夕暮れに変わっていた。
アイリーンは紙を揃えて書類入れに入れた。
初日が終わった。一日で全体の七割を把握できた。明日、残りの三割を確認すれば、提案書の下準備が始められる。
財務棟の扉を閉めて、廊下に出た。
仕事が動いている。それだけで、今日は十分だった。
*
夕食の後、部屋に戻って今日のリストを読み直した。
十七の問題点。一日でこれだけ把握できたのは、侯爵家の八年間があったからだと思った。侯爵家でも最初は似たような状態だった。乱れた帳簿を整理して、分類を統一して、記録の欠落を埋めて——その経験が、今日の確認作業を速くした。
「侯爵家での財務管理の経験」が、ここに来るための直接の原因ではなかった。しかし来てから初めての一日で、「八年間があったから今日ができた」と静かに思えた。
八年間は、無駄ではなかった。
そう思うことが、今日初めてできた気がした。婚約破棄を告げられたあの夜も、引継書を書いた長い夜も、馬車の中で何も決まらないまま考え続けた三日間も——全部が今日の仕事につながっていた。
(八年分の仕事が、ここにある。)
感傷ではなかった。ただの確認だった。
窓の外は暗かった。星がある。辺境の夜は深かった。
明日も財務棟に入る。残り三割の確認が終われば、提案書の準備を始められる。提案書ができれば、公爵への報告ができる。そこからが本当の仕事の始まりだった。
覚書を手に取って、一ページ開いた。越境商人への課税方式の第三案——複合型。これが辺境の実情に最も合う方法だという確信は変わっていなかった。しかし、今日帳簿を見て新しいことに気づいた。複合型を実装するためには、まず基礎的な記録の整理が先だった。今の状態では、越境商人の取引データすら正確に把握できていない。
順番がある。
まず整理。次に設計。それから実装。急がなくていい。順番通りに進めば、必ず形になる。
アイリーンは覚書を閉じた。今夜はここまでだ。
横になってから、「今日はよく働いた」と思った。それだけだった。しかしその感触が、最後の侯爵家での夜とは少し違っていた。あのときは「終わった」という感触だった。今夜は「続く」という感触がある。




