第二十話 初対面の夜
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新予定です。
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部屋に戻ったのは、午後になっていた。
公爵との面会は一時間ほど続いた。覚書の内容について、いくつかの問いが来た。答えた。公爵はそのたびに「なるほど」か「そうか」か、それだけ言った。感想を述べることはなかった。追加の質問が来るだけだった。
「いつから始められるか」と聞かれた。「明日からでも」と答えると、「では明日から財務棟を任せる。わからないことはリンデに聞け」と言われた。それで面会が終わった。
部屋の机に座って、今日のことを振り返った。
「いい仕事だ」という言葉が、まだ頭の中にあった。
八年間で、そう言われたことがなかった。侯爵家では「帳簿を整えてくれている令嬢」という認識だった。「いい仕事だ」という評価は、ただの一度もなかった。正式な立場もなく、報酬もなく、評価の言葉もなかった。
今日、はじめて「いい仕事だ」という言葉を聞いた。
(嬉しいのか、自分は。)
確かめるように思った。嬉しい、という感情が自分の中にあるかどうかを。
あった、と思う。ただそれが「嬉しい」という形をしているかどうか、うまく確認できなかった。感情に名前をつける習慣がなかった。仕事が終われば十分だった。数字が合えば十分だった。「仕事が認められれば嬉しい」という感情の形を、アイリーンはうまく知らなかった。
でも今日の面会の後、何かが少し違った。
体の中の、どこか固かった部分が少しだけ緩んだ気がした。何が緩んだのかはわからない。ただ、「いい仕事だ」という言葉の後、アイリーンの返事が「ありがとうございます」だったことに、後から少し驚いた。あの言葉を、素直に受け取れた。
(この場所は、仕事で判断してくれる。)
それだけは確かだった。まだ一日目で、これからどうなるかはわからない。うまくいかない可能性もある。しかし少なくとも今日、「いい仕事だ」という言葉が来た。それは事実だった。
机に紙を広げた。
明日から財務棟の整理を始める。まず何から手をつけるかを書き出した。一番先は年度別の並べ直し——全体像を把握するために。次は費目の分類設計——どういう分類を使うかを先に決める。それから記録の照合作業——現状の帳簿が何を記録しているかを確認する。
書きながら、少しずつ「次の仕事」が具体的な形を持ち始めた。
夜の静けさが部屋に満ちていた。燭台の光が紙に当たっている。辺境の夜は都より暗かった。星が多かった。窓を少し開けると、山からの冷たい空気が入ってきた。
明日の朝、リンデを通じて財務棟の鍵を借りる。帳簿を一冊ずつ確認する作業が始まる。最初の一週間は全体像を把握することだけを目標にする。問題を解くのはその後だ。
(なぜかここは、違う気がした。)
旅の途中でそう思っていた。「また評価されない場所かもしれない」という警戒が、どこかで「でもここは違う」という予感に打ち消されていた。その予感が、今日少し裏付けになった。
裏付けになった——と思っていいのかどうか、まだわからなかった。一日目だ。これからの方が長い。しかし「仕事で判断してくれる人物がいる」という確認は、今日できた。
筆を置いた。
窓の外の空に星が見えた。辺境の夜は深く静かだった。父の屋敷の星より、さらに多く見えた。建物が少ないから、あるいは山に近いから。空が広かった。
「ここは違う」という感触が、星を見ながらまた静かに来た。
アイリーンは窓を閉めた。
*
明日が来る。仕事が始まる。
しかし眠りにつく前に、もう少しだけ今日のことを考えた。
公爵——アルドリック・ヴァン・シュヴァルツという人物が、どういう人間かについて。
面会の間、彼の言葉は一貫して短かった。挨拶の言葉がなかった。感想を長く述べることがなかった。しかし問いは鋭かった。「覚書の課税方式の第三案について、管理コストの試算はあるか」という問いが来たとき、アイリーンは「覚書には入れていませんが、概算では——」と答えた。公爵が「では試算してみろ」と言った。それだけだった。
「いい仕事だ」と言った時と同じ質感の言葉だった。評価でも命令でもなく、事実の確認と指示が一直線につながっている言い方だった。
(仕事の話ができる人物だ。)
それがアイリーンの判断だった。感情的な評価でも、格式に基づく判断でもない。仕事の内容で話ができる。それだけで、アイリーンには十分だった。
ただ、一つ気になることがあった。
面会の終わりに公爵が立ち上がったとき、「よく来た」と言った。最初の一言が「財務棟を見たか」で、最後が「よく来た」だった。順番が逆だろう、と思った。しかしその順番が、逆に正直さを感じさせた。仕事の確認が先で、歓迎の言葉が後。それが彼の優先順位の表れだった。
(悪い人物ではない。)
感情的な確信ではなく、今日の観察からの判断だった。
燭台の火を吹き消した。暗くなった部屋の中で、窓の隙間から外の光が少しだけ入ってきた。辺境の夜の、静かな冷たい光だった。
明日からここで仕事をする。それだけが確かだった。そして「いい仕事だ」という言葉が、眠りにつく前にもう一度だけ頭の中に浮かんだ。それで十分だった、と思った。




