第十九話 帳簿の山
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新予定です。
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部屋に戻ってから、アイリーンは財務棟で確認したことを紙にまとめた。
帳簿の状況——年号別整理なし、費目別分類なし、複数人が異なる方式で記録している。最も古い帳簿は十年以上前。最近の記録は去年まで。半年間の空白がある。
問題の優先順位を頭の中で組み立てた。
まず整理。年度別に並べ直し、費目の分類を統一する。現状の帳簿を一冊ずつ読み直して、既存の記録を正しい分類に落とし直す作業が必要になる。それだけで数週間かかるだろう。
次に補完。半年間の空白をどこまで埋められるか。記録がなければ推計するしかない部分もある。推計の根拠を明示しておかなければ後で問題になる。
そして設計。これが本来の仕事だった。「正しく動く財務の仕組み」を作ること。侯爵家でやってきたことを、辺境特有の条件に合わせて再設計する。越境商人への課税方式も、その中の一部になる。
(やることは、見えている。)
問題が多いことは知っていた。しかし「見えていること」と「途方に暮れること」は違う。アイリーンは途方に暮れていなかった。問題の構造が見えていれば、解く順番が決まる。解く順番が決まれば、仕事が始まる。
公爵との面会が近づいていた。
何を話すか。提案を持って行くことにした。「問題はこういう状態で、こういう順番で解決できます」という見通し。具体的な数字はまだ出せないが、方針の骨格は伝えられる。
覚書を取り出した。
第一案——地域固定型の課税方式。越境商人の居住地を課税の根拠地として固定する方法。安定しているが、居住地と取引場所が乖離する場合に抜け穴ができる。
第二案——取引ベース型。取引が行われた場所を根拠とする方法。現場での把握が難しく、記録の精度に依存する。
第三案——複合型。居住地と取引場所の両方を記録し、一定比率で按分する方法。最も精密だが、管理が複雑になる。
(複合型が、辺境には合う。)
覚書を書きながら、そう思っていた。管理が複雑でも、管理できるだけの仕組みがあれば問題ない。そしてそれを作るのが自分の仕事だった。
「明日の面会で何を話すか」が、少しずつ形を持ってきた。
窓の外の光が動いた。十時に近づいていた。
アイリーンは紙と覚書を書類入れに入れた。財務棟の帳簿は今の状態を把握した。提案の方針は頭の中にある。あとは公爵がどういう人物で、どういう話し方をするかを見てから判断する。
(会ってから、考えよう。)
落ち着いていた。緊張がないとは言えなかったが、「できることを準備した」という感触があった。準備が終われば、後は動くだけだった。
ノックがした。
「ローウェン様、そろそろでございます」
リンデの声だった。
「はい、すぐに参ります」
アイリーンは立ち上がった。書類入れを持った。衣服を一度確認した。地味だが整っている。これでいい。「地味すぎる」と言われた場所もあった。しかしここは仕事で呼ばれた場所だった。
扉を開けた。リンデが廊下に立っていた。
「公爵様のご準備が整いました」
「では参りましょう」
廊下を歩き始めた。足音が二つ、石畳の廊下に響いた。
執務室に向かう廊下の窓から、朝の光が入っていた。庭の木の影が壁に映っていた。アイリーンは前を向いたまま歩き続けた。
この仕事が始まる。その確信が、静かにあった。
*
執務室の扉の前で、リンデが一度止まった。
「公爵様は言葉が少ない方です。驚かれないよう」
アイリーンは少し意外に思った。家令がそういう言い方をするということは、初対面で戸惑う人間が多いのかもしれなかった。
「わかりました。ありがとうございます」
リンデが扉をノックした。「ローウェン様をお連れしました」と言うと、中から短い「入れ」という声がした。
扉が開いた。
執務室は大きかった。机が一つ、窓側に置かれていた。壁に棚があり、書類が並んでいた。部屋の隅に地図が広げられていた。
机の前に、人が立っていた。
黒髪。長身。灰色の目がアイリーンを見た。表情がなかった。険しいのではなく、ただ表情がない。感情が見えない顔だった。
年齢は三十代前半だろうか。衣服は実用的で、装飾がなかった。邸宅の雰囲気と一致していた。
アイリーンは一礼した。
「ローウェン伯爵令嬢のアイリーンと申します。お招きいただきありがとうございます」
公爵が椅子を引かなかった。立ったまま、アイリーンを見ていた。
間があった。
リンデの言う「言葉が少ない」というのはこういうことか、とアイリーンは思った。しかし不快ではなかった。ただ待っていた。
公爵がアイリーンの手元の書類入れを見た。
「財務棟を見たか」
最初の言葉がそれだった。挨拶も、名乗りも、なかった。
「昨夜と今朝、拝見しました」
「どう見た」
問いが短かった。しかし「どう思ったか」ではなく「どう見たか」という言い方が、評価を求めているのではなく事実を求めているということを示していた。
「整理が必要ですが、記録はあります。着手できる状態です」
「時間はどのくらいかかる」
「基本的な整理は一ヶ月。仕組みの設計には三ヶ月以上。状態によって変わります」
公爵が少しの間、黙っていた。アイリーンを見たまま、何かを考えている様子だった。
「覚書を書いたのはあなたか」
「はい」
「辺境の課税方式について」
「はい。越境商人への対応を中心に考えておりました」
公爵がゆっくり椅子に腰かけた。机の引き出しを開けて、紙を一枚取り出した。アイリーンには見えなかったが、それが覚書の一枚であることは想像がついた。
「座れ」
言葉少なく言われた。アイリーンは向かいの椅子に座った。
公爵が覚書を手に持ったまま、一言だけ言った。
「いい仕事だ」
室内が静かだった。
アイリーンは一瞬、何も返せなかった。「いい仕事だ」という言葉が、飾りのない確認として届いた。感謝でも称賛でも、過剰な言葉でもなかった。「これは良い」という評価がそのまま出てきた、それだけの言葉だった。
しかしその四文字が、八年分の何かに静かに触れた気がした。
(この人は、仕事で判断している。)
それだけを確認した。声には出なかった。
「……ありがとうございます」
短く答えた。




