第十八話 リンデとの対面
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新予定です。
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翌朝、リンデが部屋を訪ねてきた。
「おはようございます」という声は昨夜と同じ調子だった。丁寧で、落ち着いていて、「様子を見ている」という空気も同じだった。アイリーンが扉を開けると、リンデが一礼した。
「朝食の用意ができています。それから、公爵様とのお目通りの前に、少しお時間がありますので財務棟をご案内できます」
「ありがとうございます。昨夜も少し見ました」
「……存じております」
リンデが短く言った。使用人から報告が入っていたのだろう。表情は変わらなかったが、「やはりそうか」という空気があった。
「参りましょう」
廊下を並んで歩いた。アイリーンはリンデの歩き方を見た。速すぎず遅すぎず、迷いがない。邸宅の構造を完全に把握している歩き方だった。この家の管理をしている人間の歩き方だ、と思った。
「リンデ様は、お幾つ頃からここで」
「二十年以上でございます」
「ではこの邸宅をよくご存じで」
「ある程度は」
短い答えだった。「ある程度」という言葉に、謙遜ではなく正確さがあった。知っていることの範囲を正確に示す言い方だった。
(この方は正確な人だ。)
アイリーンはそう思った。あいまいなことをあいまいに言わない。「よく存じております」ではなく「ある程度は」と言う。それは仕事の精度が高い人間の言い方だった。
「財務棟についても」
「……財務の中身については、私は担当外でございます。管理の仕組みは把握していますが、帳簿の内容は専門家に任せております」
「担当の方は」
「半年前に辞められました。それ以来、暫定で誰かが対応しているのですが、うまくいっていないのが正直なところです」
それが昨夜の「問題が多くて申し訳ありません」の意味だった。半年間、専門の担当者なしで放置されていた帳簿ということか。それなら昨夜見た状態も理解できた。
「なるほど」
アイリーンは静かに言った。それ以上は聞かなかった。「なぜ辞めたのか」「誰が何をしていたか」は今聞くことではなかった。帳簿を見れば大体わかる。推測より、数字の方が正確だった。
食堂に着いた。朝食は一人分だった。パンとチーズと茶。
「リンデ様は」
「私はすでに済ませております」
「では失礼します」
アイリーンは食事を始めた。リンデが扉の近くに立っていた。下がらなかった。
(見ている。)
わかっていた。リンデが「観察中」であることは、昨夜から明らかだった。公爵の判断で来た人間を、家令として評価する義務がある。それは当然のことだった。観察されることへの抵抗はなかった。
「リンデ様は、前の財務担当の方を知っていましたか」
「はい」
「どのような方でしたか」
少し間があった。
「……数字に不正確な方でした」
短い評価だった。それだけで十分だった。「数字に不正確」という一言が、前の担当者の問題を全部説明していた。リンデがその言葉を使う精度が、この人物の判断の確かさを示していた。
「わかりました」
アイリーンは答えた。
「一つだけ確認させてください。財務棟の帳簿は、最終的に公爵様が確認されることになっているのでしょうか」
「……以前は、そうでした。今は——少し滞っているようです」
「そうですか」
「以前は」という言葉が、少し気になった。「公爵が自分で帳簿を確認していた」ということだ。それは珍しいことだった。財務官に任せきりにせず、自分でも目を通す。
(どういう人物なのか。)
会ってみなければわからない。しかし「帳簿を自分で見る公爵」という情報は、仕事で判断する人物であることを少し示していた。
「ご案内します」
リンデが財務棟へ向かった。アイリーンはその後についた。廊下を歩きながら、「今日の面会で何を話すか」を静かに整理した。
問題点は昨夜確認した。提案の骨格は覚書にある。あとは、公爵がどういう話し方をする人物かを見てから判断する。
(仕事の話なら、できる。)
財務棟の扉が、朝の光の中で見えた。
*
財務棟の中を、昨夜よりも明るい光の中で改めて見た。
窓から差し込む朝の光が、棚に並んだ帳簿の背表紙を照らした。昨夜は燭台の光で全体の把握しかできなかった。今は細部が見えた。
「帳簿の年号を確認させていただいてもよいでしょうか」
「もちろんです」
リンデが頷いた。アイリーンは棚に沿って歩き、一冊ずつ背表紙の年号を確認した。最も古いものは十年以上前のものだった。最近のものは去年のものまであった。しかし順番がばらばらだった。同じ棚に十年前と去年のものが混在している。
「費目の分類で整理されていたのか、それとも年度別だったのか」
アイリーンは独り言のように言った。リンデが少し戸惑った様子だった。
「……どちらも、されていなかったと思います。前の担当者は自分の頭の中でわかっていたようで」
「なるほど」
それが最も厄介なパターンだった。担当者個人の記憶に依存する管理は、その人間が去った瞬間に完全に崩壊する。残された帳簿は数字があっても読めない状態になる。
「公爵様が帳簿を確認されていたとのことでしたが、問題は指摘されていましたか」
「……される前に、担当者が辞めました」
短い答えだった。その短さの中に、何か言いにくいことが入っているような気もした。しかし今は深く聞かなかった。
棚の一角に、他と少し違う帳簿があった。表紙が新しい——最近補充されたものだろう。しかし、開いてみると筆跡が複数あった。一冊の帳簿に、三人以上の人間が書いている形跡があった。「暫定で誰かが対応している」という言葉の通り、複数の手が入っていた。
「帳簿への記入は、今は誰が担当されていますか」
「執事と、私です。しかし私たちは財務の専門家ではないため、記録の方式が……」
「わかりました」
アイリーンは静かに答えた。リンデが「申し訳ありません」という顔をしていた。謝罪する必要はないと思ったが、今は言わなかった。
(整理すれば、必ず形になる。)
問題の全体像が見えた気がした。半年間、専門家なしで走ってきた帳簿は混乱しているが、記録がゼロではない。記録があれば、整理できる。整理できれば、数字が動き始める。
リンデが「公爵様のお目通りまで、あと一時間です」と言った。
「戻りましょう」
アイリーンは帳簿を棚に戻し、財務棟を出た。
リンデが後についた。廊下を歩きながら、リンデが一言だけ言った。
「ご質問の仕方が、前の方とは違います」
アイリーンは少し振り返った。
「どのように」
「……前の方は、聞かれませんでした」
それだけだった。リンデの声に、何かが変わった気配があった。完全に信頼した、という変化ではない。ただ「少し違う」という評価の修正が始まった、という程度の変化だった。
アイリーンは前を向いて歩き続けた。




