第十六話 四日間の旅
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新予定です。
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一日目、都が遠くなった。
馬車の窓から見える景色が、石畳から土の道に変わり、建物の密度が落ち始めた。王都の郊外だった。麦畑が広がる平野に出ると、空が急に大きくなった。都の中では建物に囲まれて空が細長く見えていたが、ここでは全方位が空だった。
アイリーンは窓の外を見ながら、改革案の覚書を膝に置いた。読み返そうとして、少しの間だけ風景を眺めた。
(春の平野というのは、こういう形をしているのか。)
侯爵家への行き来は王都の中が中心で、こういう景色を長く見た記憶がなかった。平野の向こうに丘が見えた。空に雲が流れていた。速い風が吹いているらしかった。雲の影が畑の上を動いた。
しばらくして、覚書を開いた。
*
二日目、山が見え始めた。
宿で一晩過ごして、翌朝また出発した。道が少し傾斜を帯び始め、両側に木が増えてきた。馬車が丘を越えると、遠くに稜線が見えた。父が「山が大きい」と言っていた。
まだ、それが大きいかどうかはわからなかった。王都の丘陵より高い、ということはわかった。雪が残っている部分があった。春でも山の上はまだ冬なのだろう。
宿での夕食は、王都と少し違う料理だった。野菜の煮物に、見慣れない香辛料がかかっていた。一口食べると、思ったより辛くなかった。むしろ深い味がした。
翌朝は覚書を一時間ほど読み直した。越境商人への課税方式の問題を、もう一度最初から追い直した。書いてある内容の骨格は変わっていない。しかし今、「これを実際に使う場面で提案する」という意識で読むと、補足が必要な部分がいくつか見えた。余白に書き加えた。
*
三日目、道の雰囲気が変わった。
通りすぎる村の様子が違ってきた。建物の作りが、都のものより頑丈だった。装飾が少ない。窓が小さい。壁が厚い。雨が多い地域か、あるいは冬が厳しい地域の建て方だろうと思った。
すれ違う馬車や荷車が増えてきた。商人が多かった。荷物の量が多く、それを積んだ荷車が街道を行き来している。行き先と来た方向が様々だった。王都から来たものもあれば、山の向こうから来たものもあるだろう。
(越境の商人というのは、こういう道を通ってくるのか。)
覚書に書いた「越境商人」の実態が、少しずつ具体的な形を持ち始めた気がした。概念として書いていたものに、景色が加わった。
宿の主人が「どちらまで」と聞いた。「シュヴァルツ公爵家まで」と答えると、「ああ、公爵様の」と短く言って頷いた。それ以上は何も言わなかった。名前を聞いただけで通じる場所というのは、この地域での存在感を表していた。
*
四日目、空気が変わった。
朝から靄がかかっていた。山から降りてくる冷たい空気だろう。馬車の中でも、外の気温が下がったことがわかった。アイリーンは荷物から上着を出して羽織った。
昼を過ぎた頃、城壁が見えてきた。
都の城壁とは違った。王都の城壁は装飾があり、白く仕上げられている。こちらの城壁は石の色がそのままで、高く厚かった。守るために作られた形をしていた。
「シュヴァルツ公爵領の城塞都市です」
御者が声をかけてきた。
アイリーンは窓から城壁を見た。大きかった。父が「山が大きい」と言ったのと同じ意味で、これも大きかった。王都の建物の基準では測れなかった。
(着いた。)
静かにそう思った。緊張と、それより少し大きい集中感があった。都を出てから四日。景色が変わり、道が変わり、人が変わった。自分がいた場所からずいぶん遠くに来た。
馬車が城壁の門をくぐった。
城の中の街並みが見えた。建物が機能的だった。道が整っていた。人が動き回っている。商人、兵士、職人——様々な人間が同じ道を使っていた。華やかさはなかったが、雑然ともしていなかった。
(これは、管理が行き届いている街だ。)
そう思ったのは、財務の目から見た感想だった。整然とした人の動きは、都市計画と物流管理が機能しているということを示していた。こういう街を維持する財務は、かなり精密でなければ保てないはずだった。
その財務が、今どういう状態にあるのか。
アイリーンは窓から見える街並みを静かに観察しながら、明日の仕事の始まりを思った。
道の幅が広い。荷車が擦れ違える幅がある。計算された道幅だった。橋を渡ったとき、橋の石の積み方を見た。補修の跡がある。定期的に手入れをしている証拠だった。街の入り口に交易品の検問があった。一台ずつ止めて確認している。それは記録を取っているということだろう——課税のためか、管理のためか、あるいはその両方か。
(見るべきことが多い。)
それが楽しかった。侯爵家の財務棟で帳簿を一冊ずつ確認していたときと同じ感触が、街を通りながらあった。問題を探しているのではなく、構造を読んでいる。どういう仕組みで動いているか、数字の前に目で見て理解しておきたかった。
馬車が大通りの奥へと入っていった。建物の奥に、大きな屋敷が見えてきた。
シュヴァルツ公爵家の邸宅だろう。石造りで、飾り気がなかった。塔が一つある。窓が多い。贅沢ではないが、手入れが行き届いていた。ここも「守り」ではなく「管理」のために作られたような建物だった。
アイリーンは一度だけ、深く息を吸った。
これからここで、仕事をする。それだけのことだった。うまくいくかどうかはわからない。しかし仕事があれば、対応できる。今までもそうしてきた。
馬車が邸宅の門の前で止まった。




