第十五話 出発の朝
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新予定です。
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朝食の時間は、いつもより少し早かった。
出発は朝の六時を予定していた。父の屋敷からは朝の光が差し込む前に馬車が出る。だから朝食も五時に食べることになった。
食堂に降りると、父がすでに席についていた。パンと薄いスープが二人分並んでいた。使用人は下がっていた。
「早くから起きていたのか」
「はい。荷物の最終確認をしていました」
「そうか」
父が席に着くよう示した。アイリーンは向かいに座った。
テーブルには、いつもより少し多く食べ物が並んでいた。パンが厚めに切られている。スープの碗が深い。果物が小皿に入っている。普段の朝食より品数が多かった。
「ちゃんと食べなさい」
父がそれだけ言った。
アイリーンは少しだけ、胸の中が緩む気がした。大したことは言っていない。「ちゃんと食べなさい」という言葉は、特別な言葉ではない。父は感情的な表現が得意ではないから、「辺境は遠い、気をつけて」とも「寂しくなったら帰っておいで」とも言わない。ただ「ちゃんと食べなさい」と言う。
でも、その一言の中に父の気持ちが入っていることを、アイリーンは知っていた。
「いただきます」
パンに手を伸ばした。父も食べ始めた。食堂は静かだった。
窓の外はまだ暗かった。朝の鳥がどこかで一声鳴いた。やがて使用人が一人来て、馬車の準備ができたと告げた。
「ありがとう。もう少しだけ」と父が言った。使用人が下がった。
アイリーンはスープを飲んだ。温かかった。旅の間にこういう温かさを飲む機会は少ないだろう。宿の食事は質が一定しない。四日間の旅だから、着いてからが本番だった。
「公爵家はどのような場所でしょうか」
ふと聞いた。
「辺境というのは、王都とは違う」と父が答えた。「境界に近いから、軍事と交易が混在している。侯爵家のような格式重視の雰囲気はない、と聞く」
「格式より実用、でしょうか」
「そうだろう。公爵が実直な人物だという評判も、そこから来ていると思う」
格式より実用。
アイリーンにとっては、そちらの方が動きやすかった。侯爵家では「婚約者様」という形式の中にいた。仕事をしていても、それが仕事として認識されなかった。形式の外に仕事があった。
辺境では、仕事が仕事として見えるかもしれない。
「父上は、辺境に行かれたことはありますか」
「一度だけ、若い頃に」
父がパンを手に取りながら言った。「遠い。景色が違う。山が大きい」
「山が」
「王都の丘陵とは違う山だ」
それだけの話だったが、何か見えてくるものがあった。遠くて、景色が違って、山が大きい。今まで見たことのない場所だった。
(どんな場所だろう。)
不安より先に、興味があった。それは少し驚きだった。新しい場所への移動が怖いより、行ってみたいと思った。仕事があるから、怖くないのかもしれなかった。
食事が終わった。父がナプキンを置いた。
「行けるか」
確認するような問いだった。「準備はできているか」という意味だった。
「はい。行けます」
「そうか」
父が立ち上がった。アイリーンも立ち上がった。
玄関に向かう廊下を、二人で歩いた。足音が二つ並んで響いた。玄関の扉が開いていて、朝の冷たい空気が入ってきた。夜明け前の空が見えた。紺色の薄い空に、星がいくつか残っていた。
馬車が玄関の前に止まっていた。御者が馬の手綱を持って待っていた。
アイリーンはトランクを御者に渡した。荷物が積み込まれる音がした。
「行ってまいります」
父に向かって言った。父が短く頷いた。
「気をつけて」
それだけだった。それで十分だった。
馬車の扉を開けて、乗り込んだ。扉が閉まった。御者が動き出した。
窓から外を見た。父が玄関の前に立っていた。馬車が動き始めると、遠ざかっていった。父は動かなかった。ずっと立っていた。
父の屋敷の門を出た。
アイリーンは窓の外を見続けた。少し経って、屋敷が見えなくなった。
東の空が、ほんの少し白くなり始めていた。
*
街を抜けると、道が静かになった。
馬の蹄の音と車輪の音だけが続く。朝の光が空の端から伸びてきて、街道の両側の木々を淡く照らし始めた。葉の緑が、光を受けて少し透き通った。
辺境まで四日かかる。今日は最初の宿まで進む。
アイリーンは書類入れを膝の上に置いて、覚書を一枚出した。旅の間、少しずつ読み返して整理するつもりだった。辺境に着いたとき、頭の中が整理されていれば最初の仕事に入りやすい。
一枚目から読み始めた。
越境商人への課税方式の問題。通常の徴収では課税根拠が不安定になる理由。それを解決するための三つの案——地域固定型、取引ベース型、複合型。それぞれの長所と短所。
これを書いたのは去年の冬だった。侯爵家の財務棟で、深夜に燭台の光を頼りに書いていた。誰にも見せるつもりではなかった。ただ問題を解くのが楽しかった。
(今は、誰かに使ってもらえるかもしれない。)
その変化を、静かに面白いと思った。余暇の思考実験が、仕事の場面に届くかもしれない。届かなくても、考えてきたことは自分の財産だった。
馬車が揺れた。道が少し悪い場所を通ったのか、車体が大きく傾いた。アイリーンは覚書を抑えながら身を安定させた。
「山が大きい」と父が言っていた。
辺境の山がどのくらい大きいのか、想像がつかなかった。見たことがない景色というのは、言葉だけではわからない。王都の郊外の丘陵とは違うというのは理解できた。でも「違う」の先が、まだ見えていなかった。
それを見に行く、ということでもある。
アイリーンは覚書から顔を上げた。窓の外の景色を、しばらく見た。畑が広がっている。麦の若い緑が揺れていた。春の朝の、静かな景色だった。
辺境では、何が見えるだろう。
どんな仕事が待っているか、まだわからない。公爵がどんな人物か、まだわからない。しかし「行ってみる」という気持ちが、今は揺れていなかった。
覚書を膝に置き、窓の外を見たまま、アイリーンは四日先の場所を静かに想像した。




