008_旅だちの朝
いつも本作をお読みいただき、ありがとうございます。
おかげさまで、7月21日から7月25日までの5日間「[週間]総合-連載中」ランキングで1位を獲得することができました。
ここまで来られたのも、読んでくださる皆さまの応援のおかげです。本当にありがとうございます。
まだ正式にお知らせできる段階ではありませんが、実は皆さまにお伝えしたい、嬉しい(少なくとも作者にとっては)ご報告があります。
お知らせできる時期になりましたら、改めてご報告いたしますので、もう少しだけお待ちいただけますと幸いです。
今後とも、本作をどうぞよろしくお願いいたします。
私は鶏が鳴く前に目を覚ました。
本当は、ほとんど寝ていなかったのだ。
目を閉じると、銀色の歯車やゼンマイが頭の中で回り始める。
羊を数えれば眠れるかと思ったが、そんなことはなかった。
そして気が付いたら窓の外がうっすらと明るくなっていた。
新しい朝が来た、今日から時計職人として働くのだ。
見習いではあるけれど、給金も貰う。
プロとしての自覚は必要だ。
寝台から起き上がり、枕元に用意しておいた服へ着替える。
紺色の地味なワンピースは、もともとリーゼ姉様のお下がりだった。
それをお母様とマルタ姉様が、昨日一日かけて私のサイズに合うように縫い直してくれたのだ。
何度も洗われて少し色褪せているけれど、ほつれは一つもない。
とても綺麗で、可愛い服だ。
その上から、ハンナ姉様からもらった白い前掛けを腰に付ける。
左右には、少し大きめのポケットが付いている。
『時計職人なら、細かい道具をたくさん使うでしょう』
まだこのポケットには何も入っていない。
この白い前掛けが汚れて、ポケットがいっぱいになる頃、私はどれくらい成長できているのだろうか。
数年後の少し大人になった姿を想像して、自然と頬が緩んだ。
姿見の代わりに窓へ映った自分を確認して、少し前髪を整える。
そっと部屋を出る。
ところが、音を立てずに階段を下りはずなのに、食堂から明かりが漏れていた。
「おはよう、エルナ。ずいぶん早いのね」
「おはようございます。お母様こそどうしたのですか?」
「娘の初仕事の日に、寝坊する母親にはなりたくなかったのよ」
お母様は小さく咳をして、私に微笑みかけてくれる。
テーブルの上には、見慣れた布の包みが置いてある。
お弁当だ。
中にはきっと私が好きな物が入っているのだろう。
見なくても分かってしまう。
いつもそうだ。
体調だって良くないのに、私のことを一番に考えてくれる。
私はお母様に何も返せていない。
「そんな顔をしないの」
「え?」
「あなたは昔から、考えていることがすぐ顔に出るもの。何も返せていない、なんて考えていたでしょう?」
心を読まれてしまった。
「母親が娘にお弁当を作るのに、見返りなんていらないのよ。元気に帰ってきて、今日あったことを聞かせてくれれば、それで十分」
「では、帰ったら一から十まで詳しくお話しします」
「時計の話は、半分くらいでお願いね」
「なぜ先に釘を刺すのですか」
「あなた、時計の話を始めると長いでしょう?」
否定できない。
私は弁当の包みをそっと手に取った。
「そうですけど……お母様、何だかこのお弁当とてつもなく重いんですけど……」
「実は私も気になって眠れなかったのよ。それで、つい作りすぎちゃった! それに緊張するとお腹が空くかもしれないじゃない!」
お母様は、てへ、とでも言いたげに小首を傾げた。
七人の子持ちがするには少々痛い仕草だが、お母様だから許す。
「緊張で食欲がなくなる話なら聞いたことはありますが、緊張で大食いになるとは聞いたことがないですね」
「エルナなら楽勝でしょ」
「はい、楽勝です」
「なら問題ないわね。それと朝食も作っちゃうから食べちゃいなさい」
「はい、そちらも楽勝です」
◇◇◇
朝食を食べ終えた頃には、屋敷の中もすっかり騒がしくなってきた。
「エルナ、これを持って行きなさい」
リーゼ姉様から渡されたのは、小さなノートと削りたての鉛筆だった。
「仕事のメモに使う感じでしょうか」
「それもあるわ。でも、必ず書いておくべきなのは、もらったお金と使ったお金よ。本当は帳簿をつけるのが一番だけれど、見習いのうちは簡単な収支の記録だけでも十分だわ。そうしないと、マルタ姉様みたいに破産するわよ」
「いつの間に私、破産していたのかしら〜」
「ほら見なさい。破産したことにすら気づいていないわ。ああなっては駄目よ!」
一応、マルタ姉様の名誉のために補足しておくと、リーゼ姉様の言う破産とは、姉妹から借りたお金をまだ返していない、という意味である。
外の金貸しから借金をしているわけではない。
少なくとも、私の知る限りでは。
「そこがマルタ姉様の良さでもありますが……真似はしたくありません」
「良さではないわ。欠点であり、最大の弱点よ」
さすがは金勘定が大好きなリーゼ姉様。
お金のことになると、いつにも増して厳しい。
私は帳面を前掛けの右ポケットに大切にしまった。
工具でなかったのは少し残念だけれど、職人として働く以上、お金の管理も大切だ。
それは分かっている。分かってはいるのだが、前世では年末調整の書類を書くだけで疲労困憊していたのだ。
確定申告なんて、私にできるわけがない。
貸借対照表に損益計算書……ああ、想像しただけで吐き気がしてきた。
もし自分の店を持つことになったら、絶対に顧問税理士を雇おう。
もっとも、この世界に税理士がいればの話だけれど。
「エルナ〜、私からはこれをあげるわ」
マルタ姉様が差し出したのは、小さな白い花が飾られた紺色の髪留めだった。
「仕事中は髪をきちんとまとめた方がいいでしょう? でも、ただ結ぶだけでは可愛くないもの〜」
「時計を直すのに、可愛さは必要でしょうか」
「何を言っているの〜、女の子に可愛さはいつだって必要なのよ〜」
マルタ姉様は慣れた手つきで髪をまとめ、髪留めをつけてくれた。
「うん。とっても可愛いわ〜」
「その『可愛い』のために、いくら借金したと思っているの?」
リーゼ姉様が冷たい声で尋ねる。
「可愛いものは仕方がないのよ〜」
「仕方なくないわ。今すぐ返しなさい」
時計を直す腕には、何の影響もない贈り物だ。
けれど、初仕事へ向かう勇気は、ほんの少しだけ増えた気がした。
可愛いも、重要な気がしてきた。
「嫌な職人がいたら俺に言えよ」
今度はゲオルク兄様が、胸の前で拳を握って見せる。
「どうするのです」
「話をつけに行く」
「拳で、ですか?」
「相手が話の分かるやつなら、拳は必要ない。それは正義ではなく、暴力だ」
「ゲオルク兄様より話の分からない人は、そう多くないと思います」
「それはどういうことだ?」
「そういうところです……でも、ありがとうございます」
「気にすんな」
ぶっきらぼうではあるけれど、なんだかんだ優しいゲオルク兄様である。
「エルナちゃん。パパからはキスをあげよう」
お父様は唇をタコのように突き出し、こちらへ顔を近づけてきた。
「いりません」
私はお父様の顔を手のひらで押し返した。
朝から妙に静かだったので、少し嫌な予感はしていた。
やはり最後にとんでもない化け物が待ち構えていた。
ちなみに、我が家の天使エミールは、熟睡中だ。
「どうしてだね! 歯はちゃんと磨いてきたよ?」
問題が歯だけだと思っていることに寒気がした。
「お父様であること自体が問題です」
「禁断の恋ほど、熱く燃え上がるものはないぞ」
「ゲオルク兄様、出番です! 今こそ拳で話をつけてください。この人にはまったく話が通じません!」
「任せろ」
ゲオルク兄様は拳を鳴らしながら、お父様へ一歩近づいた。
「待ちたまえ! 父親に拳を向けるとは何事だね!」
「敵が強いほど、熱く燃え上がるよ」
「敵ではない、妹を愛し合う味方同士だ!」
「あなたたち、いつまで遊んでいるの。エルナが遅刻してしまうでしょう」
お母様のひと言で、二人の動きがぴたりと止まった。
確かに、そろそろ出発しなければならない。
「エルナ」
お父様は咳払いをすると、乱れた襟元を整え、急に真面目な顔になった。
「初日だからといって、気負いすぎる必要はない。失敗しても、嫌なことがあっても、いつでも帰ってきなさい。お前の帰る場所は、ここにあるのだから」
「……はい。ありがとうございます、お父様」
普段からこうしていれば、格好いいお父様なのに。
「それでは、行ってらっしゃいのキスを――」
「ゲオルク兄様」
「任せろ」
「待ちたまえ!」
二人が騒ぎ始めたところで、背後から呆れ混じりの声がかかった。
「君の家は本当に賑やかだね……」
振り返ると、迎えに来てくれたアル兄様が苦笑しながら立っていた。
アル兄様はお父様たちの騒ぎを慣れた様子で受け流すと、私が持っていた弁当の包みを受け取ってくれた。
「ずいぶん重いね。工具でも入っているのかい?」
「お昼ご飯です」
「君は伯爵家に何泊する予定なんだ?」
「夕方には戻ります」
「なるほど。お母上は、君の食欲を正しく理解しているようだ」
「普通の量です」
出されたものを残さず食べているだけなので、誤解しないでもらいたい。
◇◇◇
馬車の中は、驚くほど静かだった。
つい先ほどまで家族全員の声が飛び交っていたせいで、車輪の音だけが響く空間に少し落ち着かない。
「ずいぶんと賑やかな見送りだったね」
向かいに座ったアル兄様が、窓の外を眺めながら言った。
「来週からは、誰にも気づかれないように出発します」
「難しいと思うよ」
「なぜですか?」
「君の家族なら、君より先に起きて玄関で待っているだろうからね」
否定できない。
私は前掛けの右ポケットに手を当て、ノートが入っていることを確かめた。
「緊張しているのかい?」
「していません」
「馬車に乗ってから、そのノートを確認するのは四回目だよ」
「落としていないか確認しているだけです」
アル兄様が小さく笑った。
「大丈夫。君が今日することは、いつもどおり時計と向き合うことだ。違うのは、それが仕事になって、給金をもらえることくらいだよ」
「それは、とても大きな違いです」
「君らしいね」
私は膝の上に置いた弁当の包みを、そっと抱え直した
前世では、何年も時計職人として働いていた。
けれど、この世界では今日が初めての仕事になる。
前世の経験がどれだけあっても、初日は初日だ。
「……少しだけ、緊張しているかもしれません」
「うん。それでいいと思うよ」
右のポケットには、リーゼ姉様からもらったノート。
膝の上には、お母様が作ってくれたお弁当。
髪には、マルタ姉様がつけてくれた髪留め。
そして、耳の奥には、まだ家族の騒がしい声が残っている。
仕事へ向かうのは私一人だけれど、不思議と一人で向かっている気はしなかった。
遠くで、時計塔の鐘が鳴る。
それは、時計職人見習いとしての私の最初の一日を告げる鐘のように聞こえた。
【バルシュミット家の家計簿・リーゼ姉様の小話①】
はじめまして、リーゼよ。今回は、バルシュミット家の領地経営と収入について紹介するわ。
領地から入ってくるのは、主にライ麦や羊毛、薪ね。でも、どれも近隣の領地で手に入るものばかりで、特産品と呼べるほどの品はないの。だから交易をしても、大きな利益にはならないわ。
余った分は市場で売るけれど、輸送費や市場税を差し引けば、手元に残る金貨はほんのわずか。去年なんて途中で荷馬車が壊れて、品物を売った利益より修理代のほうが高くついたのよ。働いた分だけ貧しくなるなんて、なかなかできる経験ではないわ。
土地も食べ物もそれなりにあるけれど、翌年へ回せる金貨がほとんど残らない。不作や屋敷の修繕が重なれば、すぐに家計が傾いてしまうの。
領民のお腹を空かせるほどではないけれど、我が家の金庫は一年中空腹よ。




