052_幸せな未来《カレン視点》②
「スカーレット……もう、少しよ」
「……はい」
足を怪我した私は、母に支えられてなんとか進んでいた。
雨で体力を奪われている。
それでも私たちは足を止めることはなかった。
が、世界は残酷だ。
「がぅる! ぐるるるぅぅぅ!」
前に現れたのは、狼型の魔物だ。
それは麦畑を駆け抜けるような、神聖な金狼ではなく。
血と肉に飢えた、ただの獣だった。
「がぅう!」
口を大きく開けて、私たちに襲いかかってきた。
目を閉じる。
けれど、その牙が私たちに届くことはなかった。
――ゴッ。
硬い何かを殴ったような音。
目を開けるとそこには、一人の筋骨隆々の男性が立っていた。
彼が素手で、狼を殴ったのだ。
「助けが遅くなってすまない。もう大丈夫だ」
「あ、ありがとう……ございます……あなたは?」
母はなんとか言葉を絞り出した。
「ああっ! すまねぇ。名前がまだだったな! 俺の名前はジョセフだ。ディートリヒ伯爵から、あなたたちを王国に連れてくるように言われている」
私たちを窮地から救ってくれたのは、《銀の歯車》の工房長だった。
森の外にある小屋に待機していたところ、一頭の馬が駆けてきたのを目撃したらしい。
不審に思って外に出ると、森の上空に信号弾が打ち上がった。
それを頼りに森に入り、私たちを見つけた。
つまりは、巡り巡って父が呼び寄せてくれたのだ。
私はジョセフ工房長におんぶをされて、小屋に向かったのだった。
◇◇◇
「以上が、国境を渡るための手筈だ。悪いが、商人の格好になるために、持ってきた服に着替えて欲しい」
ジョセフ工房長は一度小屋から出ていき、私たちが着替え終わるのを外で待っていた。
私は着替え終わると、ジョセフ工房長の下に向かった。
「そちらは崖が近くて危ないですよ?」
「……ありがとな嬢ちゃん。えっと……スカーレットだよな?」
「いえ、カレンです。カレン・ルンドバーグ。伯爵が用意した偽の通行証には、そう書かれていました」
「そうか……お父さんを助けることができなくて、すまないな」
「……ジョセフさんが悪い訳ではありません」
私は父からもらった懐中時計を胸に抱いた。
「その時計だが……」
「分かっています。このままでは、向こうには持っていくことができないのですよね……」
この時計には、フランソワーズ家の紋章が刻まれている。
国境の検問で見つかれば、私たちの正体が知られてしまうかもしれない。
「少しでも成功の確率を上げるにはな……」
「はい……ですので私はここに来ました」
蓋を開く。
そこには私の赤ちゃんの時の姿が描かれている。
いつも恥ずかしさを感じていたが、今回は何故だか胸が熱くなった。
けれど、お別れの時間だ。
ここから先は、スカーレットではなくカレンとして生きる必要がある。
二度目の人生。
今の自分とは区切りをつける必要がある。
私はそう思って、蓋を逆の方向へ倒した。
すると、時計はあっけなく蓋と本体に分かれてしまう。
私は崖に近づく。
下には川が流れており、落ちたら間違いなく助からない。
それでも私は歩みを進めた。
――そして。
「さようなら」
銀製の蓋は、崖の底に落ちていくのであった。
それはフランソワーズ家に生まれた、私との決別だった。
風が吹いて髪が揺れた。
リボンをほどき、結び直す。
ツインテールではなく、左側に髪を寄せたサイドテールだ。
これからはこの髪型でカレンとして生きていく。
蓋の無くなった時計を持ってそう決意した。
◇◇◇
王国に渡った私たちは、ディートリヒ伯爵の屋敷でしばらくは落ち着いて過ごすことができた。
けれど、そんな平穏は長くは続かない。
伯爵の下に一通の手紙が届いたのだ。
そこに記されていたのは、父の死だった。
本当なのか、嘘なのかは分からない。
けれどそれを知った次の日に、父からもらった時計が動かなくなった。
そして、その日を境に母は眠れなくなった。
夜中に飛び起きて、扉を確かめる。
そして、私を抱き寄せてクローゼットに隠そうとするのだ。
「声を出してはだめだよ」
母の時間は、逃げていたあの時から止まってしまったのだ。
私は母の手を握った。
「大丈夫。ここは王国だから」
何度かそう言うと、頷いてベッドに戻ってくれた。
が、視線は扉に向けたままだ。
医者に診てもらい、薬を飲んでもなかなか回復はしなかった。
食事も取らなくなり、痩せ細っていく母を見るのは辛かった。
「私の領地にここよりも自然が豊かで綺麗な場所がある。どうだろうか、そちらでお母さんの心身を休めるのは」
母の治療は長引くだろう。
ディートリヒ伯爵はそう言った。
「君はここに残るのでも、お母さんと一緒に行くのでも構わない」
「……母についていきます」
考えるまでもない。
父はもういないのだ。
私が離れてしまったら、母は一人になってしまうではないか。
「そうか……では、そのように手配しよう」
「ありがとうございます」
「君のお父さんには恩がある。だから、遠慮することはないよ」
それ以上は語ろうとせずに、部屋を出ていった。
母の療養先に移る前日。
伯爵は私に、ある人物と会わせてくれた。
その男性は私の顔を見るなり、少し眉を寄せた。
「……なんだ、前会った時よりも更に辛気臭い顔になったな」
「ジョセフよ。そんな言い方はないのでは無いか」
「構いません。おっしゃる通りですので」
ジョセフ工房長が、膝を折って私と視線を合わせる。
「カレン。父さんからもらった時計は大事にしているか?」
「……肌身離さず持っています。壊れて動かなくなってしまいましたが」
懐から時計をとりだして見せる。
「直したいとは思わないか?」
「思いますが、お金がありません」
「なら自分で直せばいい」
「私には出来ません」
「なら、覚えればいい」
「……そんなの無理です」
「俺の店に来い」
「……っえ?」
「俺は王都で時計職人をやっている。だから、その時計を直すための知識も技術も教えられる。もちろん金を払ってくれれば、俺が責任をもって直すがな」
私はすっと、時計を後ろに隠す。
父の時計は自分で直したかった。
「……その気持ちを大切にするんだな。お前はまだ若い、自分まで時間を止める必要はねぇよ」
「……過去を大切にすることはダメなことですか?」
「ダメじゃねぇよ。ただ時計は未来にしか進まない。前を向いた方が、幸せに生きられるぞ」
――幸せになれ。
それは父の言葉と重なった。
「……どうすれば幸せになれますか?」
「そんなのまず、笑顔だろ!」
少年のような笑顔を私に向けた。
その時、私の心臓が大きな音をたてた。
顔は赤くなり、どんどん体温が上がっていく。
リュシアンよりも更に歳上の男性だ。
リュシアンに、ここまで胸が高鳴ったことは無い。
そう、私の初恋相手はジョセフ工房長だったのだ。
◇◇◇
その日の夜。
私は荷造りをしていた。
「今日はなんだか機嫌が良いわね……良いことでもあったのかしら?」
「……あ、ありませんよ、お母様。さぁ、もう眠りましょう。明日は早起きです」
「……嘘ね」
「……」
「私はあなたの母なのよ」
母はやせ細った手で、私の頬に触れた。
「スカーレット……あなたは自分のしたい事をしなさい……」
母は私の事を絶対にカレンとは言わない。
それは病気によるものなのか。
それとも母にとっては、私はいつまでもスカーレットのままだからだろうか。
私には分からない。
「私は、お母様を一人にできません」
「心配しないで……カレン」
「……えっ?」
聞き間違いだと思った。
母が私をカレンと呼んだ。
「離れていても、名前が変わってもずっと一緒よ……あなたは自分の幸せを掴みなさい」
そう言って母は微笑んだ。
久しぶりに見る、母の笑顔だった。
「……お母様」
明日になれば、また私をスカーレットと呼ぶかもしれない。
それでもいい。
私は決して忘れない。
母が初めてカレンと呼んでくれたこの日の事を。
そして私は《銀の歯車》の扉を開くことになるのだった。
◇◇◇
「なんてことがあったのよ!」
ちょっとうろ覚えな部分もあるけど、これが私の経験した初恋だった。
まぁ、波瀾万丈の昔話かもしれないけれど。
こんな風にお酒を飲んでないとやってられない話だ。
私はジョッキを置いて、エルナちゃんとエスメラルダさんを見る。
「「……」」
「ちょっと! 二人ともなんでそんなに黙ってるの? 私の初恋話よ!?」
「あの……ちょっと質問しても良いでしょうか、カレン先輩」
エルナちゃんがちょこんと手を上げる。
「どうぞ、どうぞ!」
「えっと……いろいろとシリアス度が高かったので、ツッコミづらいですが……初恋は罠にはめた男の人では無いのですよね?」
「うん、そうよ! まぁ最初はいいなーと思っていたけど、好きでは無かったわね!」
「ではやはりジョセフ工房長が、初恋なのですよね……でも、それなら史上最低にならなそうですが……」
さすがエルナちゃん。
鋭いツッコミだ。
「既婚者だったのよ……」
「あちゃー」
エスメラルダさんが、額に手を置いた。
「結婚指輪とかで気が付かなかったのかい?」
「ちょうど無くしてて、指輪をつけてなかったのよ……信じられる!?」
しかも帝国に私たちの救出に向かったのも、新しい指輪を買うためにお金が必要になったからだった。
「もしかして、初日に私が見つけたやつですか?」
「そうよ……」
それを聞くと、エルナちゃんまであちゃーと言った感じで額に手を当てた。
「流石の私でも不倫の経験は無いな……」
「私だって無いわよ! しかもジョセフ工房長は意外とあれで、だらし無いところがあったから幻滅ポイントもあったわ!」
私の理想を返して欲しいと思う。
もっとも勝手に幻想を抱いたのは私だけど……
「そうですか……では、一番聞きたかった質問を聞きます」
「うん! どんどん聞いちゃって!」
「カレン先輩は、今幸せでしょうか?」
「……っえ?」
少し返事が遅れてしまう。
幸せか、だなんて……
父の最後の言葉を思い出す。
そして、母が初めてカレンと呼んだ日のことも。
二人とも私の幸せを願ってくれた。
あの時はたくさんのことが重なって、どうすれば幸せになれるかなんて分からなかった。
今だってそうだ。
……でも。
未来に目を向けてみる。
明日は、ちょっと飲み過ぎたから気怠そうに工房に顔を出すのだろう。
ジョセフ工房長にはそのことで、小言を言われる。
だからジークをからかって気を紛らわす。
大変なところはエルナちゃんに手伝ってもらったりすのだと思う。
帰りに二人分の食材を、買って帰る。
そんな日々が続いていく。
私は自然と笑顔になっていた。
「……うん。幸せだよ」
「そうですか。それなら、よかったです」
エルナちゃんはほっとしたように笑った。
まるで自分のことみたいに。
なんだか、少し悔しい。
このままでは優秀な後輩に泣かされてしまいそうだ。
私の方がお姉さんの筈なのに……
「それじゃあ、カレンの幸せに改めて乾杯といこうか!」
エスメラルダさんが、ジョッキを掲げる。
私もそれに合わせて、持ち上げた。
「あと! 今度は素敵な恋愛ができますようにもお願い!」
彼女が笑った。
「今度は、指輪の確認をするのを忘れずにね」
「無くしている可能性もありますので、本人に聞く必要がありますよ」
「もう! 二人とも私をからかって! こうなったら絶対に幸せな結婚をしてやるわ!」
また、笑い声が響いた。
三つのジョッキが重なって、音を立てる。
私は空いている手で、そっと目元を拭った。
気づかれていたとしても、お酒のせいということにしよう。
お父様、お母様。
私はとっても幸せです。




