048_ お泊り会③
時刻は午後8時くらいだったと思う。
そして場所は、メガネをしていたら曇ってしまう湯気の濃いところ。
つまり――
「ばばんば、ばんばんばん……♪」
思わず口ずさんでしまった。
あの懐かしくも、日本人の心に刻み込まれている歌だ。
が、この世界ではもちろん定番になっていないリズム。
隣を見るとカレン先輩と目が合った。
お湯に浸からないように髪を結い上げている。
急いで口を閉じるが、もう遅かった。
「ご機嫌だね」
「恥ずかしいので忘れてください……」
「なんの歌? 愉快そうな曲だったけど?」
「心の故郷で流行った曲です。いい湯に入ると歌いたくなります」
私たちは公衆浴場に来ていた。
王都には水道橋がかかっており、山の水源から水を引いていた。
地下には下水施設もあるため、こうした贅沢もできるのだった。
我が家にも浴場はあるが、掃除やらお湯の準備やら懐事情やらで出番はかなり少ない。
だからこうして大きな浴槽で身体を癒せるのはなんとも極楽だ。
「そっか……私の故郷では雪ごもりの歌がよく歌われてたかな……なんだか懐かしくなってきちゃった」
カレン先輩が、片手を少し丸めてお湯を掬い上げる。
「どんな歌なんですか?」
「いっぱいご飯を食べて、温かい場所で眠って、春が訪れるのを待ちましょうって歌だよ」
「私のためにあるような歌ですね。時計があれば文句なしです」
「熊の歌なんだけどね」
「なんと、情報の後出しはずるいです」
「あはは。私も大好きな歌だよ……いいよね、歌の中の熊は幸せそうで」
カレン先輩は、短く口ずさんだ。
私が歌った曲とは違い、穏やかで優しいリズム。
目を閉じて聞き入っていると、途中で声が止まる。
カレン先輩は少し目を伏せ、それから笑った。
「昔は、寝ちゃうから最後まで聞けなかったんだよね……いまくらいのところで……ね」
魔石の灯りが湯気の向こうで淡くにじんでいた。
奥の洗い場では、水を汲む音が聞こえる。
誰かの笑い声と、子供のはしゃぐ声が石造りの高い天井にまで響いていた。
みんなとても楽しそうだ。
それを見て私も笑顔になる。
けれど、カレン先輩の顔には、なんだか少し悲しさが見え隠れしているように感じた。
そう思っていると、私がまとめ上げていた髪が一房落ちてきた。
お湯に浸からないように持ち上げる。
直そうとしたが、何度も落ちてきた。
「私にやらせて?」
私の後ろにまわって、カレン先輩が私の髪を結い上げてくれる。
「ありがとうございます。お上手ですね」
「あはは。そう? 昔はこんなこと自分じゃできなかったんだけどね」
「お母様に、結んでいただいていたのですか?」
「うん、お母様にも」
カレン先輩の指が、結び目を押さえて形を整える。
「私もお姉様たちによくやっていただいています」
「姉妹か〜私は一人っ子だから憧れちゃうな」
「私の髪ならいつでも結んでいただいていいですよ?」
「本当!? じゃあ泊まっている間の一週間は私がやってあげよう……はい。完成!」
肩をポンと叩き、終わったことを知らせてくれる。
髪を触ると綺麗なお団子になっていた。
これならちょっと動いただけで、ほどけることはなさそうだ。
「ありがとうございます……雪ごもりの歌があるということは、カレン先輩は雪が多い地域の出身なのですか?」
「うん。だからお風呂とか大好きなんだよね。ついつい長風呂しちゃう」
「その気持ちは分かります」
「あはは。冬のときは窓が凍って開かなくなるくらい、寒いよ〜」
「我が家もよく窓が開かなくなるので一緒ですね」
「雪で?」
「いえ、建て付けが悪くて」
「そっちも直す必要があるんだね」
実は窓だけでなく、扉の建て付けも悪かったりする。
そのせいで、一度自分の部屋に閉じ込められたことがある。
懐かしい、そのときはルークス兄様が助けてくれたのだ。
我が家の長男は今はどこにいるのだろうか。
いい加減、放浪癖を直してほしいものだ。
もう数年くらい顔を見ていない気がする。
「カレン先輩は故郷に帰ったりしないのですか?」
「……帰らないよ」
その返事に迷いのようなものはない。
けれど、帰りたくないようには感じなかった。
「こっちの生活も楽しいからね。何より……」
ニコッとこっちを向いて笑った。
「エルナちゃんに会えなくなるのが寂しいからね!」
そして私をギュッと抱きしめてきた。
「一週間、お世話になります」
「うん! いっぱいご飯食べて、いっぱい寝ようね」
「仕事が抜けてますよ」
「ぐぬぬ、今だけは忘れたい!」
◇◇◇
浴場から出て、脱衣所で着替えをしていた。
全ての服を着終わると、カレン先輩は最後に懐中時計をポケットにしまおうとする。
真鍮製のシンプルな時計。
ところどころに傷がついていたが、よく磨かれていた。
「とても良い時計ですね」
「ありがとう。見習いのときから少しずつ貯金して買ったんだ。中古だし、壊れていたけどね」
「カレン先輩が修理したんですね」
カレン先輩は頷き、少し照れたように笑う。
秒針が動いているのを確認し、蓋を優しく閉じてからしまった。
「そういえばエルナちゃんは、明日はどんなことをするの? 確かいろいろ道具とかも借りてたよね」
「もらった銀糸は天然モノなので、形や厚さが均一じゃありません。なのでそれを揃える作業をしようと思います」
「なるほどね……でもどうやって揃えるの?」
さすが、カレン先輩。
家族は絶対に時計に関しては深掘りしてこないので、思わず嬉しくなってしまう。
なんでも知りたがるあのマルタ姉様ですら、時計の話をすると逃げようとするのだ。
時計を嫌いな人はいないと思うので、私の話術の問題なのだろう。
「たとえば、同じ種類のパンだったとしても、カレン先輩のパンだけ大きかったら困りますよね」
「嬉しいかな」
……これは例えが悪かった。
「えっと、ですので、大きさを揃えるために小さい穴にそのパンを無理やり突っ込むんです。そうすると出てきたパンの大きさは一緒になりますよね」
「結構強引だね」
「はい、でもさらにいじめます。その後に薄く平たくします。生地をローラーで伸ばす感じですね」
「私のパンが、無惨な姿に……」
「時計の部品になるためには致し方ない犠牲です。あとは形を渦巻き状にするだけです」
「そして焼き上げると」
「美味しいパンの出来上がりです」
「ノリがいいね!」
「乗せられました」
パンというのは冗談ですが、形を渦巻きに固定するためには加熱する必要がある。
けれど、工程でいったらパンを作るのに似ているのかもしれない。
「あはは。じゃあ明日の朝はパンだね」
「下がパン屋だと焼きたてが食べられていいですね」
◇◇◇
湯冷めをしないように急いで、カレン先輩の家に戻る。
歯を磨き、髪の毛を乾かし終わると、あとはもう寝るだけだった。
けれど寝るにはなんだか惜しい気がしている。
「もう少しお話ししませんか?」
「うん、もちろんいいよ。なんだか私も話し足りなかったし……」
カレン先輩は食卓にある椅子を引いてくれた。
そしてコップに水を注いでくれる。
夜更かしの準備は万全だ。
「先ほど見せていただいた時計が、カレン先輩にとっての初めての時計なんですか?」
何を話そうかと悩む前に、自然と口が動いた。
お決まりというかなんというか、私の話したいことというのは時計なのだ。
「自分で買ったのはあれが初めてかな」
「となると、誰からいただいたのですか?」
「昔だけどね……お父様から」
カレン先輩の視線が戸棚に向かう。
少し考えるようなそぶりを見せてから私に視線を戻した。
「見たい?」
「もちろんです!」
「あはは。エルナちゃんならそう言うと思ったよ。ちょっと待っててね」
時計のことを話すのも好きだが、見るのはもっと好きだ。
本当は見るだけではなく、触るのが一番だがそこは自重する。
カレン先輩は立ち上がり、戸棚から小さな木箱を取り出した。
木箱を食卓の上に置き、蓋をそっと開ける。
すると中には白い布に包まれた懐中時計が収められていた。
とても綺麗だった。
真鍮ではなく、より高価な銀製のケース。
傷もほとんどなく、状態はかなり良かった。
昔にもらった時計と言っていたので、もう少し使用感のあるモノが出てくると思っていた。
こちらはあまり持ち歩いたりはしなかったのだろう。
きっとカレン先輩にとってこの懐中時計は、時間を確認するための道具ではない。
それ以上に大切にしたい何かが、これには込められているのだ。
そこに込められている思いに少し触れたくなって、私は気になることを口にした。
「蓋はどうしたのでしょうか?」
その懐中時計はオープンフェイスではない。
だというのに文字盤を覆うための蓋はなく、蝶番のところには無残に折られたような跡が残っていた。
「さあ、どこだろう……多分今頃は海の底をさまよってるんじゃないかな」
私は、蓋が無くなった理由を聞いたつもりだった。
が、返ってきたのは蓋の行方だった。
誤魔化されている。
「そうですか……ゼンマイを巻いていいですか?」
「うん、いいよ。でも壊れてるから動かないよ」
伸ばしかけた手を止める。
「直さないのですか?」
「直さない……というより、部品がまだ揃ってなくてね。完成させられないんだ」
大切にしているモノであるはずなのに、この懐中時計を見るときのカレン先輩は少し辛そうだ。
「そうですか……私にお手伝いできることがあれば何でも言ってください。時計のことであれば役に立つかと思います」
「あはは。ありがとう! エルナちゃん」
そう言ってカレン先輩は懐中時計を手に取って、縁をなぞる。
やはりその手つきはとても優しかった。
「エルナちゃんは自分の時計を買わないの?」
「まだお金が足りない状況でして……」
伯爵からいただいた報奨金は、すでに家の修繕やお土産、それに食事代、あとは薬代とかで消えてしまった。
私が時計を持つのはもう少し先になりそうだ。
「でも、欲しいものがあると仕事を頑張ろう! って気になるからいいかもね!」
「そのためにはもっともっと働けるように、王都に家が欲しいです!」
「時計を買うよりも難題だね」
私たちは笑い合った。
ガールズトークと言うには、現実的で色気のない話だ。
「それにしても、なんだか変な感じだな」
「何がでしょうか?」
「家に帰ってきてもこうやって話したりするの」
「なるほどです」
「普段はもっと静かだし、家に帰ったら一言も話さないからね」
「騒がしくして、ごめんなさい」
「違う、違う。嬉しいんだよ」
カレン先輩は微笑みを私に向けてくる。
「今日は来てくれてありがとうね」
そんなストレートな物言いに、私も照れてしまい笑顔になる。
「お礼を言うのは私の方です。ありがとうございます」
「あはは。さてと、そろそろ寝るとしますか……じゃないと明日に――」
ドンドンドン。
扉を叩く音で、カレン先輩の言葉は途中で遮られてしまう。
「カレンちゃん、ごめんね。まだ起きてる?」
下のパン屋の店長さんだ。
カレン先輩は扉を開けると、店長のおばさんは一通の封書を渡してきた。
「遅くにごめんね。これ、さっきカレンちゃんがいないときに預かったの」
「誰からです?」
「知らない男性よ。豪華な馬車に乗ってたから驚いちゃった。その人は渡せば分かるって……」
カレン先輩は手紙を受け取る。
封書の表を見て、その指が止まった。
「カレンちゃん?」
「……あはは、ごめんなさい。大丈夫です。夜遅くにありがとうございます」
カレン先輩はそう笑いかけた。
店長は少し心配そうな顔をしながらも「それじゃ、おやすみ」と言って、階段を下りていった。
扉が閉まる。
カレン先輩はその場から動かなかった。
私は椅子から立ち上がって、傍に近づく。
「仕事の依頼でしょうか?」
「……どうだろうね」
封書を持つカレン先輩の手に、視線を落とす。
宛名が見えた。
――スカーレット・フォン・フランソワーズ様
見間違いかと思ったが、そこには確かにそう書かれていた。
「宛名が間違っていますよ、それ。前にここに住んでいた人のでしょうか?」
「ううん、合ってるよ」
視線は手紙に向けたままで、そう言った。
「ですが……」
「私のことよ……」
「……」
「カレンって名乗る前は、そう呼ばれていたのよ」
カレン先輩の視線が、食卓に置かれた壊れた懐中時計に向いた。
そして封蝋に押された印を、指でそっと撫でた。
「でもね、エルナちゃん」
その声からは、少し前までの明るさは消えていた。
――そして。
「その名前で呼ぶ人には、ここの住所は教えてないの」
震える声でそう言った。




