028_テセウスの時計
私は、ティアの半歩後ろを歩き、宮殿の中を進んでいた。
キーエルト殿下の部屋へ近づくにつれて、さっきまでの喧騒が嘘のように静かになっていく。
そしてティアは足を止める。
「ここがキールの部屋ですわ……」
私の顔を見ることなく、前を向いてそう言った。
なるほどこの重厚な扉がキーエルト殿下とティアとの壁そのものだ。
ティアは真鍮の取っ手を握ることが出来ないでいる。
ここで背中を押すのが私の役割。
「何かあったら私を見てください……何ができるかは分かりませんが、必ず近くにいるということはお約束いたします」
大丈夫だよとか、守るよとかそういうことは言えない。
そんな無責任なことは言いたくなかった。
だから事実を言った。
あとはティアが勇気を振り絞れるかどうか。
「そうですわね」
ティアは一度息をのみ、重厚な扉を三度、控えめに叩いた。
しばらく沈黙が続く。
ティアがもう一度ノックをしようと手を上げた時、返事が返ってきた。
「誰だ」
低めでかすれた声。
「ユースティアですわ……」
「……」
またしても沈黙だった。
「一目だけでも、お顔をみることはできませんでしょうか……」
「……入ってくれ」
ティアに続いて、私も中に入る。
豪華ではあるが薄暗い部屋。
消毒液なのか薬品の匂いが鼻につく。
窓には薄いカーテンが引かれ、部屋には天蓋付きの大きなベッドが置かれていた。
そのベッド上で上体を起こして、こちらに顔を向ける男の子が一人。
おそらく彼がキーエルト殿下。
目には包帯が巻かれている。
頬はこけており、手首の骨が浮きでていた。
「キール……お久しぶりですわ……それとお誕生日おめでとうございます」
最初は沈んでいた声だったが、それではいけないと思ったのか最後の方は明るい口調になっていた。
ティアはどんな表情でさっきのセリフを言ったのだろう。
笑顔だろうか、悲しい顔だろうか。
私の位置からは見ることはできない。
「……わざわざ、ありがとう……これでも今日は割と体調は良い方でね……」
弱々しく笑う殿下。
「そうなんですの? ……ならきっとここからどんどん良くなりますわよ!」
「そうだね……でも、今日はもう、帰った方がいいよ」
ティアは首を振った。
拒絶されて傷ついているというのに、ティアは声を荒げない。
「帰りませんわ……キール。私に少しお話をさせてください」
ティアはキーエルト殿下の主治医から、病気の詳細を聞いたという。
悪魔憑き――そう言われている。
明確な治療方法は、一つだけ。
いや、これを治療と言ってよいのだろうか……
その方法は、病巣となっている個所を取り除くというものだった。
「治療を受けるおつもりはありませんの……」
ティアはそう尋ねる。
残酷なことだと思うが、それでもティアはそう口にすることを選んだ。
それは殿下に生きて欲しいから。
「取り出そうとすると、まるで逃げるみたいに、別の場所へ移ることがあるんだ……まるで病気が生きているみたいに……」
自嘲の混じった返答。
患者の身体を嘲笑うかのように少しずつ蝕むその症状は、まさに悪魔のようだ。
殿下は続ける。
「次の転移先がどこになるかは誰にも分からない……最初が目だったのは、まだ運がよかったのかもしれない」
キーエルト殿下がティアに顔を向ける。
けれど、ティアの姿は見ることができない。
目で運が良かったと口にしなければならない状況自体が痛ましい。
「一度の手術で完全に取り除けた方もいると伺いましたわ」
「でも私がそうとも限らない」
それに、と言葉を足すキーエルト殿下。
「視力を補うには、魔導義眼が必要になる……」
「それでまた見えるようになるのでしたら……」
そこまで言いかけて、言葉を止める。
自分の気持ちを優先し過ぎたことに気が付いたのだろう。
「見えれば……それだけでいいと思えたら、楽で良かったのにな」
「……」
「私は、自分の目で、ティア……君のことを見たかった」
「……」
「君が成長して可愛くなる姿も、君の笑った顔も……その先のことも、ずっと」
「でしたら……」
「次は目だけじゃ済まないかもしれない。そのたびに何かを失って、別のものに変えて……最後に残るのは、本当に私なのかな」
「……」
ティアは手を伸ばしかけて、そっと引っ込めた。
そんなことはないと、言いたいのだろう。
否定する言葉が見つからないのか、そのまま俯いてしまう。
そして、首元にぶら下がった懐中時計を握り締めているのが分かった。
キーエルト殿下からもらった時計。
針は動いているのに、二人の時間はまだ止まったままだ。
古くなった部品を交換し、修理して動かすのが私の仕事。
「……少しだけ、口を挟んでもよろしいでしょうか」
私は見ているだけで、一言も発する気は無かった。
けれど、どうしても話をしたい気持ちを抑えられなかった。
「誰だね?」
静かな声の感じから怒ったようには感じられない。
「この方は私の……友達ですわ」
「エルナ・バルシュミットと申します。王都で時計職人として働いています」
殿下は顎に手をあてて、考える仕草を見せた。
そして何か自分の中で納得した結論をだしたようだった。
「時計職人か……なるほど……それで君は私に何を話したいのかね?」
私はティアから懐中時計を預かり、キーエルト殿下の手にそっと持たせる。
時計の姿は見られなくとも、重さや形は触れて確かめることができるはずだ。
「時計の話です」
「説得しようというのかね?」
「どうでしょうか……私には殿下を説得できるだけの力はありません」
本当に殿下の心を変えることができるのは私ではない。
チラりとティアを見る。
「まぁ、いい。時計屋……話をしてみてくれないか」
私は一礼して、話を始める。
「殿下とティアにご質問をいたします。例えば大切にしている時計の歯車が、一つ欠けてしまいました。新しい歯車に替えたら、それは前と同じ時計でしょうか」
二人とも、同じだと答える。
「では、ゼンマイや魔石、その時計の一番大切な部分も、新しくしたらどうでしょうか」
殿下は首を振る。
「一番大事なものを替えたら、それはもう違う時計じゃないか」
対してティアは。
「でも、手に取るのは同じ時計ですわ。たとえ中身が変わってもそれは大切な時計のままだと思いますわ」
「では最後の質問です。それからも長く使って、傷んだ針も、文字盤も、ケースも、一つずつ替えていきました。最初の部品が、とうとう一つも残らなくなったらどうでしょうか?」
殿下は当然、違うと答えた。
そして、ティアはすぐには答えず、少し考えてから首を横に振った。
「殿下は、時間を刻む仕組みを。ティアは時計との思い出を大切に考えているのですね」
二人も否定はしない。
どうやら大きく外してはいないらしい。
この質問に正解はない。
途中で二人の答えが分かれたことは、間違いではない。
そしてそう言う私は、二人と違う答えを持っていた。
すべての部品を交換された時計は私なのだ。
私には前世の記憶がある。
前世の倉敷綾子としての身体をすべて失い、今はエルナ・バルシュミットとして生きている。
けれど、私は私で、私は私なのだ。
それだけは断言できる。
だから――。
「私は、同じ時計だと思います」
殿下もティアも、私が話を続けるのを静かに待ってくれていた。
「時計を修理してお返しするとき、『こちらは、お預かりしたものによく似た時計です』とは申しません」
キーエルト殿下が、手元の懐中時計の感触を確かめるように手を動かす。
彼がもっている時計は、何度も修理した形跡が残っていた。
きっと殿下も修理から戻った時計を、前の時計と同じではないと思ったことがないはずだ。
でないと自分の代わりとして、ティアに贈る訳が無い。
「部品が変わるたびに、持ち主の方と過ごした時間まで無くなってしまうのでしょうか」
心臓や脳が変わっても、私は私であったことを忘れていない。
「それでは時計職人は、お客様の大切な思い出を少しずつ切り取る、随分と怖い仕事になってしまいます」
動かない時計だったとしても、それはきっと変わらない。
「その時計として大切にされてきた時間まで、私たちは取り替えることはできません」
「そうですわね……」
ティアがポツリと呟く。
その視線は、キーエルト殿下が手にしている時計に向いていた。
「もちろん、人と時計は違います。目を失うことが、何でもないとは言えません」
言える訳が無い。
「でも、目が替わったからといって、この時計をティアに贈った殿下まで、いなくなってしまうとは思えないんです」
「……」
殿下は無言のままだった。
けれど、時計を握る手が、少しだけ緩んだように感じた。
ティアが殿下に近づく。
自分の白く細い手を、殿下の手に重ねた。
「時計のことは、うまく答えることはできませんわ。でも、私がキールと交わした約束まで、別のものになるわけではありませんわ……どんな目でご覧になっても、私を見たいと思ってくださるのは……キールでしょ?」
心は変わらない。
少しだけ震える声で、でもはっきりとそう言った。
「私は、今の私を見ていただきたいですわ……これからの私も、ずっと」
少しだけいつもの調子を取り戻し、未来の話をする。
「結婚式で、私の花嫁姿を見なくてもよろしいんですの?」
この部屋に入って、私が見た初めてのティアの笑顔だった。
けれど、ティアの手は震えていた。
キーエルト殿下はそっと、ティアの手を包み返した。
「……怖かった訳じゃないよ……」
「分かっていますわ……」
「……だから」
静寂が部屋の中を支配する。
でもこの静寂は、先ほどまでの暗い雰囲気のものではなかった。
「君のその姿を、私は見たい」
「――」
ティアは大きく目を見開いた。
キーエルト殿下の顔も赤らんでいる。
「目が見えるようになったら、最初に、ティアに会いたい」
「もちろんですわ。いちばん綺麗な姿で、お待ちしております」
殿下は、小指をティアの前に差し出した。
ティアもその小指を絡める。
その約束を見届けながら、私は思った。
二人の時間は今、再び動き出したのだと。




