023_初めての依頼
しばらくの間、ユースティアさんは泣き続けていたが、やがて嗚咽は少しずつ収まってきた。
ひとつ大きめな息を吐く。
扇子を開き、泣き腫らして赤くなった目元を隠すようしている。
そして、ユースティアさんは立ち上がった。
「……決めましたわ」
その言葉は私に言っているようで、自分に言い聞かせているようでもあった。
何を、と尋ねる前に続きを話し始める。
「この時計を動かすのですわ!」
どうやら吹っ切れたようだ。
「いいのですか……その時計は壊れているわけではありませんよ?」
「分かっていますわ」
視線が懐中時計に落ちる。
大切な物を見る時の優しい目だった。
「キールが決めた時間まで、待っているだけなのでしょう?」
「はい」
「だったら、なおさらですわ」
ユースティアさんは、涙の跡を残したまま不敵に笑った。
「入学式までなんて、待ってあげませんわよ! そもそも待つ必要もありませんわ!」
空元気ではない、心の底からの言葉のように感じる。
「待てないの間違いではないですか?」
「それもあるかもしれないわ!」
私の軽口なんてものともしない。
覚悟を決めた公爵令嬢というのは、ここまで強くなるのだろうか。
いや、恋する乙女と言い換えた方が良いかもしれない。
「それにしても、キールは馬鹿ですわ! 大馬鹿者ですわ! 勝手に私を遠ざけて、この時計を止めて……動き出す時まで決めるなんて……それで一人で格好をつけたつもりなんでしょうね」
言葉を重ねるごとに、ユースティアさんの声がいつもの調子に戻っていく。
ユースティアさん自身がキーエルト殿下のことを馬鹿と言うのは、セーフらしい。
私が言ったら、とんでもないことになりそうだ。
「元気が出てきましたね……ユースティア様には、今のように自信に満ち溢れたお姿が似合っています」
「エルナ……あなたのおかげよ……おかげでキーエルト殿下の気持ちに気づけたわ」
運命という言葉では片付けたくないけど、私が銀の歯車で働くことになった経緯は、偶然というには出来過ぎていた。
あの時、アル兄様が気まぐれに私を王都へ誘ってくれたから。
そして、勇気を出して伯爵様の時計を直したから。
いろいろな偶然が重なり合って、私は今、ユースティアさんに出会い、キーエルト殿下が時計に込めたメッセージに気づくことができた。
それは奇跡的な巡り合わせだと思う。
「いいえ、ユースティア様が時計を大切にしていたからです……もちろん、キーエルト殿下のことも」
「ティアでいいですわ……」
「え?」
「ユースティアでは長くて面倒ですわ……だから、ティアって呼び捨てでいいですわ……」
呼び捨てにするには、さすがに身分の差があり過ぎる。
「せめてティア様ではダメでしょうか?」
「ダメではありませんが……距離を感じますわ」
唇を尖らせて、少し拗ねた様子だ。
「もしかしてティア様は、私と友達になりたいのですか?」
「それ以外の意味があるんですの!」
驚いてしまった。
前世も含めて、私には友達と呼べる関係の人があまり多くない。
それは小さい頃から時計をいじるのが趣味だったというのもあるが、私自身があまり社交的ではなかったのだ。
一人で遊ぶことの方が多かったし、みんなで集まるよりも、そちらの方が好きだった。
それが寂しいことだとは思わなかった。
でも、私は別に人間嫌いということではない。
だから、友達になりたいと言われて、胸が少し跳ねてしまった。
こっちの世界では、同年代で同性の友達は初めてだ。
思わず口角が上がってしまう。
「うふふ、ありがとうございます。ティア……とっても嬉しいです」
「エルナって、結構表情が硬いけど、笑った顔の方が素敵ですわよ」
友達からのありがたい忠告だ。
これからは、できるだけ笑顔を心がけてみよう。
私は話題を変えるため、咳払いをしてからティアに視線を向ける。
「それで、本当にこの時計を動かしてしまってよろしいのでしょうか?」
「当然ですわ! キールは私のことを、大人しく待っているだけの女だと思っているのかしら」
「そう思っていたからこそ、この時計をプレゼントしたとも考えられますね」
もしくは、この仕掛けに最後の最後まで気づかないと予想していたのかもしれない。
いや、ティアはキーエルト殿下の前では猫を被っていた可能性もあるか。
「だったらキールは、私のことを甘く見過ぎね。私は諦めの悪い女なんですわよ」
「本当にキーエルト殿下のことが大好きなんですね……」
「キール以外の男性を、この先好きになることはありませんわ! 誰になんと言われても、キールに会いに行くんですの! たとえ追い返されたとしても、何度でも会いに行って差し上げますわ!」
羨ましいくらいに真っ直ぐな恋心だった。
「そして、エルナに直してもらった時計の音を、キールと一緒に聞きますの」
今、ティアは音を聞くと言った。
見るのではなく、聞くだ。
懐中時計は、確かに音でも楽しむことができる。
でも、やはり懐中時計は見て、時間を知るための道具だ。
もしかしたら、殿下のご病気は目に関するものなのかもしれない。
やめよう。ここから先は無粋だ。
「私たちの時間は、入学式の日からではありません。今からまた一緒の時間を過ごすのだと、キールに伝えますわ」
ティアは懐中時計を見つめた。
「私とキールの時間なんですもの。それをいつ動かすのか、キール一人に決める権利はありませんわ」
少々強引な理屈ではあるけれど、間違っているとは思わない。
むしろ今のキーエルト殿下には、それくらい強引な方が良いのかもしれない。
そしてティアは、深呼吸をした後に居住まいを正して、私に向き直った。
「エルナ……いえ、時計職人のエルナ・バルシュミットさん」
落ち着いていて、穏やかな声だ。
『時計職人』と言ったということは、これから話すのは、友達に向けての言葉ではないということだろう。
だから、わざわざフルネームで、しかも『さん』までつけたのだ。
「初めにお会いした時は、命令するような頼み方をしてしまい、申し訳ございませんでした」
ティアが私に向かって、深く頭を下げる。
「改めて、時計職人であるあなたにお願いいたします。壊れていない時計を直してほしいなんて、おかしな依頼かもしれません。それでも……」
顔を上げたティアは、微笑んだ。
「この懐中時計を、もう一度、時を刻めるようにしていただけませんでしょうか?」
強引な命令ではない。
公爵令嬢の気まぐれでもない。
大切な人と、もう一度同じ時間を歩みたいと願う恋する乙女からの、心からの依頼だった。
「おかしな依頼ではありませんよ」
私はスカートの両端をつまみ、右足を斜め後ろに引いた。
背筋を伸ばしたまま膝を折り、丁寧に頭を下げる。
「止まった時計を、もう一度動かす。それが時計職人の仕事ですから」
そして、顔を上げる。
「承知いたしました、ユースティア・フォン・ランドベール様」
差し出された懐中時計を、両手で受け取った。
「そのご依頼、エルナ・バルシュミットが、謹んでお引き受けいたします」
それが、この世界の私――時計職人エルナ・バルシュミットが受けた、初めての依頼だった。




