002_プロローグ_後半
「これは、亡くなった妻から贈られた物なのだ」
「奥様から?」
「ああ。まだ私たちが婚約していた頃に、妻が初めて贈ってくれた物でね」
伯爵は蓋の内側をこちらへ向けた。
描かれているのは、穏やかに微笑む若い女性だった。
銀のケースに残った無数の細かな傷は、伯爵がこの時計と過ごしてきた年月そのものなのかもしれない。
なるほど。
だから修理工房で直らなくても、新しい時計を買わなかったのだ。
「ずっと、大切にされてきたんですね」
「ああ。三十年以上、毎日持ち歩いている。妻が亡くなってからも、それだけは変わらなかった」
伯爵はそう言って、銀のケースに残った傷を親指でそっとなぞった。
「それは、時計も幸せですね」
伯爵が顔を上げ、少し不思議そうに私を見た。
「時計が幸せ?」
「使われるために作られた物ですから。箱の中で綺麗なまま保存されるより、たとえ傷だらけになっても、毎日持ち主と一緒に出かけるほうが、たぶん幸せです」
「傷がついてもかね?」
「傷がつくのは、使われてきた証拠です。壊れたら、また直せばいいですし」
少なくとも、前世の私はそう思っていた。
何百万円もする高級時計を買い、傷がつくのが怖いからと金庫へしまい込んでしまう人もいた。
もちろん、時計をどう扱うかは持ち主の自由である。
ただ、何年も暗い金庫の中で眠り続ける時計を見るたびに、少しもったいないと思っていた。
伯爵は返事をせず、手の中の懐中時計へ目を落とした。
やがて蓋を閉じると、今度は私の顔をじっと見つめた。
「エルナ嬢」
「はい」
「君は、時計が好きなのか?」
「はい」
即答した。
「とても」
「それは見ていれば分かる。時計を開けた瞬間から目が輝いていたからな」
少し恥ずかしい姿を見せてしまった。
だけど、好きだという気持ちは否定はできなかった。
「その知識は、どこで学んだのかね? 君の年齢で、時計の内部を見ただけで故障の原因まで見つける者は、そうはいないだろう」
困った。
前世で四十六年ほど生き、そのうち長い時間を時計修理店で過ごしました、とは言えない。
「本を読んだり、話を聞いたりして覚えました」
「誰かに習ったわけではないのか?」
「ほとんどは自分で調べました」
半分くらいは本当である。
伯爵は感心したようにうなずいた。
「それほど時計が好きなら、家にも何台か持っているのかね?」
「ありません」
「……ないのか?」
「一台もありません」
「これほど好きなのに?」
「時計が好きなことと、時計を買えることは別の問題です」
「つまり?」
「貧乏なのです」
隣に座っていたアル兄様が、さっと横を向いた。
肩が震えている。
だから笑うな。
伯爵は目を丸くしたまま、私と懐中時計を交互に見た。
しばらくして、堪えきれなくなったように大声で笑い始めた。
何がそれほど面白いのか。
こちらは真剣である。
「時計を一つも持っていない時計好きか!」
「買えないものは仕方ありません」
「なるほど、なるほど! それであれほど夢中になっていたのか!」
伯爵はまだ笑っている。
失礼だ。
私は少し腹が立ったので、皿に残っていた焼き菓子へ手を伸ばした。
一個。
もう一個。
笑われた分は、菓子で取り返すことにする。
ここの支払いは伯爵が持つらしいので、遠慮する理由もなかった。
「エルナ嬢」
「はい」
返事をしながら、三個目を取る。
「私の商会が、時計を扱っているのは知っているかね?」
「……いいえ」
「王都に三軒、時計店を持っている」
口へ運びかけていた焼き菓子が止まった。
「三軒?」
「そうだ」
「時計がたくさんあるんですか?」
「もちろん。店だからな」
「置き時計も?」
「ある」
「懐中時計も?」
「ある」
「壊れた時計も?」
「それはもう、倉庫が一つ埋まるほどある」
私は焼き菓子を皿へ戻し、椅子へ座り直した。
いまは食べている場合ではない。
伯爵を見る。
伯爵も、面白そうに私を見ている。
「見たいです」
「まだ誘っていないが」
「では、誘ってください」
「ずいぶん強引だな」
「壊れた時計が倉庫一つ分あると聞かされたあとで、黙っていられるほど人間ができていません」
「十二歳の令嬢が言うことではないな」
「時計を見たいことに、年齢は関係ありません」
「分かった、分かった。そこまで言うなら、一度店を見せてやろう」
「本当ですか?」
「ああ。ただし、条件がある」
伯爵の声が少し変わった。
先ほどまでの楽しそうな笑みは残っているが、その目は私の反応を確かめるように細められている。
商人の顔だ。
「条件とは?」
「今日直した時計が、一週間後まで正しい時刻を刻んでいたら、店の中を見せよう。作業場と倉庫も含めてな」
「分かりました」
「ずいぶん返事が早いな」
「断る理由がありませんので」
「それから、もう一つ課題を出す」
伯爵は指を一本立てた。
「店の倉庫には、職人たちが修理不能と判断した時計がいくつも保管されている。その中から一つを選び、君に預けよう」
「私が自由に分解してもいいんですか?」
「構わん。ただし、部品をなくさずに返すこと」
「壊してしまった場合は?」
「もともと壊れている」
「それはそうですね」
先ほど伯爵が言われた言葉を、今度は私が言われてしまった。
「それで、直せたら?」
伯爵はすぐには答えなかった。
椅子へ深く座り直し、私の顔をじっと見る。
時計を見せて喜ぶ子供ではなく、商会にとって役に立つ人間かどうかを見定めているようだった。
「買い取ろう」
「時計をですか?」
「違う」
伯爵は、はっきりと言った。
「君の技術を、だ」
話が急すぎて、よく分からなかった。
私が首を傾げていると、伯爵はアルベルトへ顔を向けた。
「クライン君、この子の父親は、確か王都へ出仕しているのだったな?」
「ええ。財務局で下級官吏をしています。今日も役所にいるはずです」
「なら話は早い。次に来るときは、父上も連れてきたまえ。未成年者を見習いとして雇うなら、保護者の許可と正式な契約が必要だ」
「見習い?」
思わず聞き返した。
「もちろん、課題の時計を直せたらの話だがね」
伯爵は私へ向き直った。
「君は、店に並んでいる時計を見るだけで満足かね?」
「……いいえ」
「実際に手へ取りたい?」
「はい」
「中を開けて、分解したい?」
「はい」
「壊れた時計を、自分の手で直したい?」
「とても」
答えるたびに、伯爵の笑みが深くなっていく。
時計という餌を目の前に並べられ、私は一歩ずつ自分から近づいていたらしい。
なんだろう、少し怖い。
「なら、私の店へ来るといい。まずは週に一日、店の仕事を手伝いながら、職人たちの作業を見せてやろう」
「本当ですか?」
「ああ。ただし、勝手に商品を分解してはいかんぞ」
「分かっています」
「いま、少し残念そうな顔をしなかったかね?」
「していません」
商品でなければ分解してもいいのだろうか。
あとで確認しよう。
「最初は工具の手入れや部品の整理、修理に持ち込まれた時計の記録などを任せる。君の腕が本物だと分かれば、実際の修理もさせよう」
「はい」
「見学させるだけなら、こちらが礼をもらいたいくらいだ。しかし、君が商会の役に立つなら、働いた分の給金も払う」
給金。
その二文字に、胸が大きく跳ねた。
給金があれば、弟の靴を買い替えられる。
母が毎晩、瓶を傾けて残りを確かめている薬も、量を減らさずに済む。
冬が来る前に、毛布をもう一枚用意できるかもしれない。
それから、もし少しだけ余ったなら。
小さなねじ回し。先の細いピンセット。油差し。裏蓋を開けるための工具。
欲しいものが次々と頭に浮かんだ。
「……頑張ります」
「目の色が変わったな」
「お金は大事です」
「十二歳とは思えない発言だなあ」
「我が家の家訓ですから」
アル兄様がまた横を向いた。
だから笑うな。
◇◇◇
帰りの馬車の中でも、アルベルトは何度も思い出したように笑っていた。
夕方の王都を走る馬車の中で、向かいに座った成人男性が一人で笑い続けている。
少し気味が悪い。
「何がそんなに面白いんですか?」
「いや。今日は王都までの話し相手が欲しくて、君を連れてきただけだったんだがな。それが、まさか帰る頃には仕事まで見つけているとは思わなかった」
「私もです」
「しかも、あのディートリヒ伯爵に気に入られるとはな。あの方は、役に立たない相手には菓子一つ出さないことで有名なんだぞ」
私は、先ほど遠慮なく食べた焼き菓子の数を思い出した。
大丈夫だろうか。
あとから代金を請求されたりはしないだろうか。
「私は時計を直しただけです」
「普通、十二歳の令嬢は高級喫茶店で伯爵の懐中時計を分解しないと思うがね」
私は返事をせず、窓の外へ目を向けた。
王都の大通りには、夕方になっても多くの人と馬車が行き交っている。
道の両側には、数え切れないほどの店が並んでいた。
色鮮やかな服を飾った服屋。
窓の向こうまで本棚が続く本屋。
焼きたての匂いを漂わせるパン屋。
砂糖菓子を並べた菓子屋。
大小さまざまな工具を吊るした道具屋。
そして、文字盤や銀色の懐中時計を飾った時計店。
今までの私にとって、それらは眺めるだけの場所だった。
欲しい物はいくらでもある。
この世界には、私の知らない道具も、触れてみたい時計もたくさんある。
けれど、欲しいと願っているだけでは、自分の手には入らない。
前世でも同じだった。
時間がないとか、お金がないとか、もう少し余裕ができてからにしようとか。
今度にしよう、いつかやろう。
そうやって先延ばしにしているうちに、私の人生は思っていたよりもあっさり終わった。
だから今世では、少しだけ違う生き方をしてみたい。
何も、大きなことを成し遂げたいわけではない。
やりたいことがあるなら、最初から諦めずにやってみる。
欲しい物があるなら、自分から手を伸ばしてみる。
食べたい物があるなら――。
「アル兄様」
「なんだ?」
「帰る前に、パン屋へ寄りませんか?」
「昼にも食べただろう」
「今度は家族へのお土産です」
「自分の分は?」
「もちろん必要です」
「結局、君も食べるんじゃないか」
失礼な。
私は一人で食べるために欲しいのではない。
家族全員で食べるために欲しいのだ。
ただし、家族全員の中から自分だけを除く理由もない。
その日の夜。
白パンを持って帰った私は、家族から英雄として迎えられた。
お母様は値段を聞いて少し青ざめたが、アル兄様の奢りだと知ると安心して人数分に切り分けた。
弟は自分の分を両手で持ち、姉様たちは明日の朝まで残しておくか、その場で食べるかを真剣に相談していた。
私の英雄としての地位は、最後の一切れがなくなるまで続いた。
そして一週間後。
ディートリヒ伯爵の商会から、我が家へ大きな木箱が届けられた。
お母様と姉様と弟が見守る中、私は木箱の蓋を開ける。
中には、伯爵の印が押された手紙が一通。
細いねじ回しやピンセット、拡大鏡までそろった小さな工具一式。
それから、布に包まれた置き時計が一台入っていた。
黒い木で作られた、小ぶりな置き時計だった。
外側は綺麗に磨かれているが、針は七時十二分を示したまま止まっている。
ゼンマイを巻いても、動き出す気配はない。
とりあえず、手紙を開いた。
書かれていたのは、短い一文だけだった。
――懐中時計は一週間、正しい時を刻んだ。次はこれで腕前を見せてもらおう。
私は手紙を畳むと、工具箱と置き時計を抱えた。
「お母様少し部屋へ行ってきます」
「夕食の時間までには戻ってきなさいよ」
「努力します」
「戻ってくるとは言わないのね……」
その日から三日間。
家族は夜遅くまで私の部屋から聞こえてくる、奇妙な音に悩まされることになった。
金属同士が触れ合う、小さな音。
机の上を何かが転がる音。
そして、ときどき聞こえる私のうめき声。
一日目は、動かなかった。
二日目もまだ動かない、三日目もダメだった。
そして四日目の早朝。
静まり返った部屋の中に、それまでとは違う音が響いた。
カチ。カチ。カチ。
止まっていた時計が、再び時を刻み始めたのだった。
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