001_プロローグ_前半
短編で公開していた
『前世は時計職人でしたが、今世は時計すら買えない貧乏令嬢です』
の連載版です。
短編は連載版の1話と2話が該当します。
加筆、修正しているので短編を読んでいる方でも読むのを推奨いたします。
「つまり、君はこの時計を直せると言うのかね?」
「たぶん」
「たぶん?」
「絶対とは言えません」
目の前の立派な髭をした紳士が、なんとも言えない顔をした。
なにごとにも絶対はない。
とくに、持ち主がどう見ても大金持ちで、預かった品が恐らく我が家のどんな物よりも高そうな場合は、軽々しく断言するのは危険だ。
私は紳士の顔を横目にしながら、テーブルに置かれた懐中時計を持ち上げた。
銀製だ、ひと目で分かってしまうほど高価な時計。
表面には蔦を思わせる細かな模様が描かれて、その上には長年使われてきた細かい傷がいくつもあった。
蓋を開くと、内側には若い女性の肖像画が収められていた。
優しそうに微笑む女性だ。肖像画の縁だけがわずかに擦れて剥げている。
きっと、何度も蓋を開いて眺めたのだろう。
どう見ても高級品。
私の家なら、これ一個で半年くらいは肉料理が食べられるかもしれない。
いや、半年は言い過ぎかもしれない。
少なくも、三ヶ月以上は間違いない。
急に手の中の時計が重くなった。
「分解しても?」
「……壊さないかね?」
「もう壊れてるじゃないですか」
「それはそうなのだが」
紳士は困ったように眉を下げた。
正論が必ずしも、人を安心させる訳ではないらしい。
隣では、私をここに連れてきた青年が肩を震わせて、必死に笑いを堪えている。
腹が立つ。
この男にだけは笑われたくはない。
そもそも、こんなことになったのは全部この男のせいなのだ。
私の名は、エルナ・バルシュミット。
十二歳。
地方の貧乏騎士爵家に生まれた四女だ。
騎士爵家という肩書から、それなりの立派な家を想像するかもしれない。
だが、我が家にあるのは小さな土地と、雨漏りする古い屋敷と、あまり人の言うことを聞かない鶏くらいだった。
私は前世記憶を持っていた。
東京都内の小さな時計修理店で働いていた、四十六歳の独身女性だった。
時計職人。
そう名乗ると、薄暗い工房で高級時計を黙々と修理する、少し地味なイメージ持つかもしれない。
安心して欲しい、実際はもっと地味だ。
腕時計の電池を交換し、バンドの長さを調整し、メーカーからの部品が届かないと頭を抱える。
だいたい、そんな毎日だ。
たまに何十年も前の機械式時計を預かると、一日中機嫌がよかった。
仕事は好きだったと思う。
あまり、お金にはならなかったけど。
好きな仕事と、儲かる仕事は、別の歯車で動いているらしい。
結婚する機会は何度かあったような気がする。
相手が本当にいたのか、周囲から薦められていただけなのかは、今となっては少し曖昧だ。
気がついたら四十六歳になっていた。
そして、東京では珍しく雪の降った日。
店の前を雪かきをしている最中に足を滑らせ、運悪く頭を打った。
そのまま、私の人生は呆気なく終わった。
そうして転生したこの世界には、魔法がある。
空を飛ぶ船や、炎を出す杖もある。
小さな魔石一つで、夜通し部屋を照らすことさえできる。
だというのに、時計の技術は中途半端だった。
王都には大きな時計塔が存在するが、地方の庶民は、教会や街の鐘で時間を知る。
裕福な商人や貴族になると置き時計を持ち、さらに権力を握ると懐中時計を持つ。
ただし、非常に高価。
それでいて、よく壊れるのだという。
魔石で空を飛べる技術があるのに、駅馬車の出発時刻は半刻遅れることは珍しくない。
魔法によって、技術の発展が順番通りには進んでいないらしい。
私から見ると、この世界の時計は、前世の古い機械式時計と構造そのものは大きく変わらない。
ゼンマイのほどける力で歯車が回り、脱進機がその動きを一定に刻み、針が時刻を示す。
違うところといえば、動力の補助や精度の安定に、小さな魔石が使われていることくらいだ。
その部分は、私にもよく分からない。
つまり何が言いたいのかというと。
この世界に生まれて十二年。
私は、とてもフラストレーションが溜まっていた。
この世界の時計を分解したい。仕組みを理解したい。磨耗した部品を見つけて、歯車の噛み合わせを調整したい。
しかし困ったことに我が家には、時計がない。
理由は単純、貧乏だからだ。
朝は鶏が鳴けば起きる。
昼は太陽の位置で、時間を把握する。
夜は暗くなったら寝る。
健康的ではあるけど、退屈だった。
正確な時刻が分からずに不満を抱いているのは、家族で私だけだ。
家族なら苦しみを分かち合うべきなのに、困っているのは私だけ。
そんな私が今日、なぜ王都でも有数な高級喫茶店で、大金持ちの懐中時計を分解しようとしているのか。
話は三日前に遡る。
◇◇◇
「エルナ、頼みがある」
近隣の領地を治める、クライン子爵家の次男坊。
背が高く、金髪で、青い目をしている。顔立ちも非常に整っており、黙って立っていれば立派な貴公子にみえる。
実は性格は少々残念だったりする。
私とは遠い親戚にあたり、昔から時々我が家へ遊びに来る。
大体の目的は、兄たちと狩りへ行くことである。
「嫌です」
「まだ何も言ってないだろう」
「アル兄様の頼み事は、大体ろくでもないので」
「酷くないか?」
「今までの積み重ねでは?」
アル兄様は黙ってしまった。
どうやら反論できないらしい。
私は気にせず、縫い物を続けた。
今直しているは、兄のシャツだ。
また肘が破けている。
同じ場所を直すのは、これで三回目だった。
元の布がほとんど残っていないので、着られなくなった別の服から布を切り取り、継ぎ当てにしている。
我が家では服が家族間を旅をするのだ。
服は長兄から次兄へ、次兄から弟へと受け継がれる。
最後まで着られなくなったら、雑巾になる。
悲しいことに服を隠居させる程の余裕がない。
「実は3日後に、王都へ行く予定があるんだ」
「お気をつけて、いってらっしゃい」
「君も一緒に来ないか? 道中、一人では退屈なんだ」
「成人男性ですよね? 一人旅に少しは慣れたらどうです」
「慣れてはいるよ、でも好きではないんだ。私はもっと会話をして楽しく過ごしたいんだ」
「そうですか、私は落ち着いて縫い物がしたいです。話し相手が欲しいのでしたら、姉様たちを誘ってください」
針を布へ通す。
あと少しで完成だ。
「君の姉上たちは、俺を見ると結婚相手を紹介しようとしてくるから嫌だ。王都に着く頃には縁談が三つくらい決まりかねない」
それは分かる。
我が家の姉様たちは、揃って大変世話好きである。
世話好きというか、他人の人生に手を出したがる。
特に長姉、近所の独身男性と独身女性を片っ端から結びつけようとしている。
最近ではそれが、村の仲人婆さんから警戒されている。
どうやら商売敵だと思われているらしい。
「消去法で私ですか、全く嬉しくないですね」
「そう言わないでくれ、王都で昼食を奢るならどうだ?」
針を持つ手が止まった。
昼食ですって……?
「何が食べられますか? 具体的にお願いします」
「急に食いついてきたな」
「いいから、何を食べさせてくれるんですか?」
「肉料理かな。王都に美味い店があるんだ」
「具体的に」
「牛肉を香草と赤葡萄酒で、柔らかくなるまで煮込んだもの」
「ほかには?」
「焼きたての白パン。煮込みの汁につけて食べると美味いらしい」
「デザートは?」
「蜂蜜と木の実をたっぷり使った焼き菓子」
私は針を置いて立ち上がった。
「お母様に許可をいただいてきます!」
「君は本当に分かりやすいな……」
うちは貧乏だ。
騎士爵といっても、小さな土地と古い屋敷を持っているだけで、実態は農家に近い。
もちろん畑も鶏もあるから、飢えてはいない。
ただ、砂糖や牛肉は高価だ。
甘いお菓子に至っては、祝い事でもなければ食べられない贅沢品である。
それに、柔らかい白パンは最高だ。
普段食べているのは、色の濃い硬いパンだ。
スープに浸せば美味しいが、そのまま食べると顎が疲れる。
だから私は、王都へ行く話に乗った。
決して、簡単に食べ物で釣られたわけではない!
断じて!
◇◇◇
そして三日後。
私はアル兄の馬車に乗り、王都にやってきた。
大通りには、服屋、本屋、菓子屋、道具屋など、たくさんの店が並んでいた。
見たこともない商品ばかりで、眺めているだけでも楽しい。
時計店の前では、少し長く立ち止まった。
「エルナ。昼食の予約に遅れるぞ」
「この時計をもう少し見てから行きます」
「牛肉の煮込みが冷めてもいいのか?」
「すぐに行きましょう!」
許してくれ時計たちよ。
今は知識欲よりも食欲を満たしたい気分だったのだ。
そして、約束どおり牛肉の煮込みを食べた。
匙を入れただけで、肉がほろりと崩れた。
「……これは、本当にお肉ですか?」
「勿論だよ。君の家で食べているものと同じだ」
「同じとは思えません。家の肉は、もっと抵抗してきます」
「抵抗?」
「噛んでも噛んでも、なかなか飲み込ませてくれません」
我が家では、噛めば噛むほど味が出るということになっている。
単純に固いだけだと思うけど。
焼きたての白パンで煮込みの汁まで綺麗に拭い、食後にはデザートも食べた。
もう、この世に思い残すことはない。
そう思いながら最後の一口を飲み込んだところで、アル兄様が口を開いた。
「腹が満たされたところで悪いんだが、帰る前にもう一か所だけ付き合ってくれ。王都で商談の約束があるんだ。」
「そんな話は聞いていませんが」
「言ってなかったからな。君は隣でお茶でも飲んで待っていてくれればいいさ」
◇◇◇
連れてこられたのは、王都でも有数の高級喫茶店だった。
その奥にある個室で待っていたのが、立派な髭を蓄えた紳士。
紳士の名は、ヘルマン・ディートリヒ伯爵。
王都で複数の商会を経営している、非常に有名な商人貴族とのこと。
アル兄様はクライン子爵家で育てている馬を、伯爵の商会へ売り込みたいのだ。
つまり、本当に私はまったく関係のない話しである。
言われた通り、私はテーブルの隅で静かにお茶を飲んでいよう。
そう思っていた。
ところが、伯爵が懐中時計を取り出した瞬間、私の目はそこに吸い寄せられた。
美しい時計だ。
銀のケースには細かい傷があり、決して新しい物ではない。それでも蔦模様の溝には汚れがなく、蝶番の動きも滑らかだった。
長い間、大切に使われてきたことが一目で分かる。
伯爵は商談の途中で何度か蓋を開き、時刻を確認していた。
そして、そのたびに小さく首を傾げている。
私は我慢した。
他人の時計だ、頼まれていないのに口を出すべきではない。
だから我慢した……五分ほど。
「伯爵様。失礼ですがその時計、少し遅れてませんか?」
言ってしまった。
伯爵が驚いたように私を見る。
アル兄様まで商談を止めて、こちらを見た。
「分かるのかね?」
「このお店に入ったとき、中央広場の時計塔が二時十五分を示していました。いま、伯爵様の時計は二時八分ですから、少なくとも七分以上は確実に遅れています」
「……ずいぶんよく見ているな」
「気になったので」
伯爵はしばらく懐中時計へ目を落とし、考え込んだ。
「実は最近、どうにも遅れるようになってね。修理工房へ二度出したのだが、しばらくするとまた遅れてしまうんだよ」
「少し見せていただいてもいいですか?」
また勢いに任せて余計なことを言ってしまった。だけど口に出してしまった言葉は取り消せない。
時計のことになると、私は、どうにも遠慮がなくなるらしい。
私は伯爵から受け取った時計を裏返し、耳元へ近づけた。
カチ、カチ、カチとテンプの動きに合わせて脱進機が鳴っている。
しかしその音は一定ではない……わずかに乱れている。
前世の機械式時計では、テンプと呼ばる部品が規則正しく往復し、それを基準に歯車の進む速さを整えていた。
この世界のテンプには魔石が使われている。
魔石は一定の間隔で魔力の波を放つ。
その波が脱進機に伝わり、歯車を一歯ずつ進めていく。
正常な魔石が放つ波は、常に一定。
それなのに音が乱れているということは、その波を受けて動く機械部分にある可能性が高い。
もし魔石の方に不具合がある場合は、私にはお手上げだ。
前世には魔石なんてものはなかったから。
「道具はありますか?」
「道具?」
「時計を開けるための」
「いや、さすがに商談へ時計の修理道具までは持ってきてはいないな」
それはそうだ。
頭では分かっているけど、原因がそこにあるかもしれないのに、金属の蓋一枚に邪魔されるのは非常に落ち着かない。
せっかく触らせてもらえるのに、このままでは蓋の外から眺める事しかできないなんて。
私が未練がましく時計を見つめていると、アル兄様が店員を呼んだ。
「厨房に、小さい工具はないか聞いてくれ」
「アル兄様」
「なんだ?」
「今日だけは尊敬します」
「なんだか、君が僕をどんな風に見ていたのか分かった気がするよ……」
しばらくして、店員が小さな工具箱を持って戻ってきた。
中に入っていたのは、細いねじ回しや小さなやっとこなど。
厨房の器具や店内の調度品を手入れするためのものらしい。
本格的な時計修理の道具ではないが、ないよりはずっといい。
「では、分解します」
伯爵が心配そうに息を呑むのが分かった。
私は時計を自分が持っていたハンカチの上に置いた。
銀ケースを傷つけないよう、工具の先を慎重に裏蓋の隙間に差し込む。
手元が滑れば傷をつけるし、力を入れすぎれば蓋が歪んでしまう。
少しずつ力を加えると、やがて小さな音を立てて裏蓋が開いた。
「おお……」
思わず声が出た。
金色の歯車がいくつも重なり、その間を細い軸や金具がつないでいる。
古い時計だが、部品の一つ一つが丁寧に作られていて、職人の腕の良さがひと目で分かった。
歯車の歯は細く均一に削られ、表面には蔦を思わせる繊細な模様まで彫り込まれている。
時刻を知るための道具、しかも目に見えない内側にここまでの手間をかける必要はない。
けれど、だからこそ美しい
できることなら、一度すべて分解して、部品を並べて眺めたい。
もちろん、いまはそんなことをしている場合はないので修理のため手を動かす。
工具の先の先で歯車をゆっくりと動かし、引っかかる場所がないかを確かめていく。
時計の向きを変えながら何度か繰り返すうちに、脱進機の近くで歯車の動きがわずかに重くなった。
顔を近づけて細部を見る。
前世だったら間違いなく老眼鏡が必要な作業だ、十二歳の身体に感謝。
「ここですね」
「分かったのかね?」
「たぶん」
「また、たぶんか」
私は脱進機を支えている細い金具を指した。
「この部品が、ほんの少し曲がっています。それから、軸の周りに残っている油も古くなって固まっています」
伯爵は目を細め、私の指先を覗き込んだ。
「修理工房では、そんなことを言われなかった」
「おそらく、工房では時計を机の上に寝かせたまま調べたのだと思います」
「それが何か関係するのかね?」
私は時計をハンカチの上に寝かせ、工具の先で歯車をゆっくり動かした。
この向きなら、引っかかることなく回る。
次に、時計をポケットへ入れるとの同じように、少しずつ縦へ起こしていく。
カチ……カチ。
先ほどと同じ場所で、歯車が動きがわずかに鈍った。
「この金具は、横に寝かせていると歯車へ触れません。でも、縦にすると軸が歪んだ側によって、何度かに一度だけ引っかかります」
前世の機械式時計なら、向きを変えながら進み方を確かめるのは珍しくなかった。
しかし、この世界では、どの向きでも一定の波を放つ魔石がテンプの代わりをしている。
そのため、時計の向きによって進み方が変わるとは考えない職人が多いのだろう。
「工房では問題なく動いたのに、持ち帰ってしばらくポケットに入れると、また遅れ始めたのではありませんか?」
伯爵の眉が動いた。
「……その通りだ。二度とも、工房では正常に動いていると言われた。だが、翌日になると少し遅れていた」
「なら、これが原因である可能性は高いです。実際に修理して一日持ち歩いて確かめてみないと、正確なことは分かりませんが」
「自信がないのか」
「十二歳ですから」
アル兄様が隣で笑った。
「昔から都合がいいときだけ子供になるな、君は」
うるさい。私は使えるものは何でも使うんです。
それは年齢も例外ではない。
私はアル兄様を無視して曲がった金具を確認してから、伯爵へ尋ねた。
「この時計に、何か強い衝撃を与えませんでしたか?」
「強い衝撃……?」
「自然に傷んだというより、外から力が加わって曲がったように見えます」
伯爵は腕を組み、少し考え込んだ。
「そういえば三ヶ月ほど前、乗っていた馬車が脱輪してね。その拍子に、時計を落としたことがあったな」
「時計が遅れたのは、その頃からですか?」
「……おそらくは」
なら、ほぼ間違いない。
古くなった油のせいで動きが鈍くなっていたところへ、落とした衝撃で金具が歪んだのだろう。
それで歯車の動きがさらに悪くなり、少しずつ時間が遅れるようになった。
「衝撃で、ここが歪んだのだと思います。本当なら部品ごと交換したほうがいいです。ただ、いまは替えの部品がありません。できるのは、曲がった部分を戻して、固まった油を取り除くくらいです」
「それで直るのか?」
「少なくとも、いまよりは良くなると思います」
「できるのかね?」
「やってみます」
私は工具を持ち直し、曲がった金具へ先端を当てた。
強くは押さない。
元の位置に戻すように、ほんの少しだけ力を加える。
前世では何度もやった作業だ。
どの程度までなら曲げても折れないか、頭では分かっている。
問題は、いまの私が十二歳だということだ。
手が小さいので細かな場所へ指が届くのはありがたい。
しかし、前世とは指の長さも力の入り方も違う。
頭で思っているより動きが大きくなったり、逆に力が足りなかったりする。
四十六歳の私が覚えている感覚に、十二歳の手がついてこない。
少し緊張してきた。
やはり、やめておけばよかったかもしれない。
食事だけして帰ればよかった。
牛肉は美味しかった。
白パンも美味しかった。
蜂蜜の菓子まで食べたのだから、人生はそれで十分だったのではないか。
そんなことを考えながら、私は少しずつ金具の歪みを戻していく。
固まった油も、針の先と布を使って可能な範囲で取り除いた。
本当なら部品をすべて外して洗浄したいところだが、ここには道具も新しい油もない。
あくまで応急処置である。
最後に歯車を動かし、引っかかりがなくなったことを確かめる。
うん、たぶん大丈夫。
私は外した部品を元へ戻し、小さなねじを一本ずつ締めていった。
幸い、組み終わったあとに余っている部品はなかった。
それだけで安心するのは時計職人としてどうかと思うが、いまは安心しておく。
裏蓋を閉じ、時計を耳元へ近づける。
先ほどまで混じっていた音の乱れは消えている。
「終わりました」
「直ったのかね?」
「分かりません」
「分からないのか?」
「はい。少なくとも、今のところ音は揃っています。ただ、本当に遅れなくなったかどうかは、しばらく動かしてみないと分かりません」
「すぐには分からないのか」
「時計ですから。正しく動くかを確かめるには、時間をかけるしかありません」
「なるほど。それは道理だ」
それから蓋を開き、文字盤ではなく、その内側に収められた肖像画へ目を落とした。
先ほどまで馬の値段について話していたときの、陽気な商人らしい顔ではなかった。
時計を包む指先にも、壊れ物を扱うような慎重さがあった。
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