018_動かない時計②
ユースティアさんの白い顔から、さらに血の気が引いていく。
手に握られていた扇子が床に落ち、乾いた音が工房内に響いた。
けれど、ユースティアさんは拾い上げることも、見ることもしなかった。
「なんでなんですの……」
やっと絞り出したかのような、かすかな声。
「なんで、たかだか時計職人がそのことを知っているんですの! 公にもなっていないことですわよ!」
その取り乱しようが、キーエルト殿下の深刻さを示していた。
私は視線を落とす。
どうして、悪い勘に限って当たってしまうのだろうか。
「ユースティア様の時計が教えてくれました」
「冗談を言わないで! 時計を見ただけで、持ち主が病気かどうか分かるはずがありませんわ!」
「時計だけでは分かりません。ユースティア様からお話を伺ったからです」
「私がいつ、病気のことを話したというんですの!」
「話してはいません。ですが、キーエルト殿下が、動かない状態の時計をユースティア様に贈ったと伺いました」
時計が動かない原因は、歯車の間に挟まった魔石だ。
そして、おそらくその魔石を仕込んだのは、キーエルト殿下本人。
「婚約者にご自分の大切な時計を贈るなら、動くかどうかは確認すると思います。ですが、この時計はいただいた時から一度も動いていない。キーエルト殿下は、動かないことを承知の上で贈ったのです」
「それと病気が、どう結びつくんですの?」
「それだけで病気だと判断したわけではありません。キーエルト殿下が、意地悪でそうした可能性もありますし」
「キーエルト殿下への侮辱は許しませんわよ!」
「あくまでも可能性の話です。ですが、ユースティア様がキーエルト殿下のことをお話しになるときは、表情がとても和らいでいました。それは、殿下を信頼し、安心している証拠です。ですから、キーエルト殿下はお優しい方なのだと想像しました。ならば、動かない時計を贈ったことにも、何か別の理由があるはずです」
丁寧に手入れされた時計からも、キーエルト殿下の性格は読み取れた。
几帳面で、真面目な方。
そんな方が、何の理由もなく動かない時計を贈るとは思えない。
直接言葉にする代わりに、時計で何かを伝えようとしたのではないだろうか。
「キーエルト殿下は、いつ頃から体調を崩されているのですか?」
「……二年前からよ。すぐに良くなるとおっしゃっていたのに……。最後にお会いしたのは三か月前、私の誕生日ですわ。その時に、この時計もいただきましたの」
「ユースティア様とキーエルト殿下は現在、王立学院の初等部に通われているのですよね?」
この国の上級貴族の子女は、全員が王立学院に通うことになっている。
そこで魔法や基礎学問を学ぶのだ。
下級貴族である私は、通っていない。
「そうですわ。来年からは中等部ですので、より本格的な学問に打ち込めますの」
「その中等部の入学式は、何時から始まりますか?」
「朝の九時ですわ。王立学院の式典は、昔から九時と決まっていますのよ。それが時計の修理と何か関係がありますの?」
「いえ、少し気になっただけです」
その答えで十分だった。
私は、緑色の石に視線を落とす。
これは、おそらく魔石だ。
私に分かるのは、ゼンマイや歯車のことだけ。
この石がどのようなものなのかは、魔石に詳しい人に聞くしかない。
「カレン先輩、少しいいでしょうか?」
「どうしたの?」
「この緑色の石は、魔石でしょうか?」
カレン先輩は私の隣に立ち、ルーペを片目に当てた。
そして、その目を大きく見開いた。
「これ……いや、でも……」
「魔石ではないでしょうか?」
「ええ、魔石で間違いないわ。でも、どうしてこの魔石が時計の中に……」
「カレン先輩、少し奥でお話しできますか?」
「ええ、大丈夫よ」
ユースティアさんには、まだ聞かせたくなかった。
少し離れたところへ移動し、私はカレン先輩にいくつか質問をした。
その答えはすべて、私が想像していたとおりのものだった。
「そうなると、あとはそれがいつなのか、だね。エルナちゃんには、もう目星がついているんでしょ?」
「どうでしょうか。私はキーエルト殿下ではないので、あくまで想像にすぎません」
キーエルト殿下とは、一度も話したことがない。
どんなふうに笑うのか。
どんな声なのか。
どんな食べ物が好きなのか。
何一つ知らない。
でも、ユースティアさんを好きだということと、時計が好きだということは分かる。
この二つが分かれば、十分だ。
もし私がキーエルト殿下なら、この時計に託したいことは一つしかない。
自分の時計を、大切な人に贈るのなら。
きっと――。
「エルナちゃん、顔色がよくないわよ……無理しないでね」
「大丈夫です。キーエルト殿下の思いに比べれば、これくらい……」
誰かを思う気持ちに、優劣なんてない。
それでも、キーエルト殿下が抱えた痛みは、私が今感じているものより、ずっと深いはずだ。
そう思うと、胸の奥に針が刺さったように痛んだ。
キーエルト殿下は、どんな気持ちで魔石を入れたのだろう。
そして、どんな気持ちで自分の分身とも呼べる時計を止めたのだろうか。
私は、ユースティアさんの待つ作業台へ戻った。
今からすることは、時計職人として失格なのかもしれない。
それでも、やらなくてはならない。
私は分解した時とは逆の手順で、時計を元に戻していった。
「ちょっと、どうして元に戻していますの? 故障の原因は分かったのでしょう?」
「はい、分かりました」
「なら、修理をしてくださいな」
修理の方法は簡単だ。
魔石を取り除けば、それで終わる。
でも、それだけはしてはいけない。
この時計は、壊れているから止まっているのではない。
止まっていることに意味があるのだ。
だから、この時計を修理することは、この時計を壊すことにつながる。
私は時計を壊したくない。
直すために、時計職人になったのだから。
「申し訳ございません、ユースティア様」
元どおりに組み直した懐中時計を両手に持ち、姿勢を正す。
ユースティアさんの目を真っすぐに見つめた。
そして――。
「この時計は、私には修理できません」
私は深く頭を下げた。




