幕間:あるエルフの記憶
夜は深かった。ミスダクの森は静まり返り、風の音すら遠い。その中に――わずかな違和感。
男は、目を開け、小さく呟く。
「……瘴気か?」
隣では、妻と娘が眠っている。起こさぬよう、静かに身を起こし、――外へ出る。
夜の森。エルフの目でも――見えない。
「……おかしい」
ここは、集落の中心から少し離れた、高台の家。普段なら、灯りや気配で様子が分かる。
だが今は――見えない。輪郭が曖昧だ。木々も、道も、遠くがぼやけている。
「……」
一歩、踏み出しかけて――止まる。
(危険だ)
直感だった。男は、すぐに家へ戻る。
妻の肩に、そっと触れる。目を覚ました彼女に、声は使わない。テレパシーで伝える。
『異常がある。外は危険だ……神木の祠へ』
妻の目が、すぐに理解する。
『この子と行ってくれ。私は……様子を見て、後から追う』
妻は、一瞬だけ迷う。だが――頷いた。
『頼んだよ、フィンレイ』
男は、静かに背を向けると、そのまま闇の中へと消えた。
どれくらい、待ったのか。祠の奥。娘を抱いたまま、フィンレイは祈り続けていた。
来ない。いつまで経っても……。胸騒ぎが、強くなる。
ついに、立ち上がる。
祠のさらに奥へ進み――娘を、隠す。
小さな体を、静かに横たえる。身じろぎして起きかけた娘に眠りの術をかける。
震える手で、お守りを置いた。目を閉じて、額に触れる。
(いい子で、待ってて)
祠の外は、あまりにも静かだった。静寂以外、何もなかった。
「コーヴァ……」
夫の名が口からこぼれる。娘を置いていくことに抵抗がないわけではなかった。だが、このまま待ち続けることも出来なかった。
「森の聖霊よ。娘を、お護りください」
神木に祈りを捧げ、フィンレイは闇の中へと走り出した。
誰もいない集落、闇に包まれた森。薄い瘴気と、感じ慣れない空気。その中を夫の姿を探し続けた。だが――どこにも、いない。
「――――っ!」
夫の名を叫んだ、はずだった。なのに、自分の声が聞こえない。焦りと恐怖が沸き上がる。
何度も叫ぶが、そのたびに聞こえない自分の声が不安を掻き立てる。
ふと、フィンレイは体を引っ張られた。
(コーヴァ!?)
振り返った視線の先に見えたのは、夫の顔ではなかった。
(――これは、ヒビ?)
やがて、夜が、明けた。
森は、静かすぎた。鳥の声も、風の音もない。ただ、光だけが差し込む。
それは――終わった後の、朝だった。




