第二章:異変 前編
ミスダクの森は、変わらず穏やかだった。柔らかな木漏れ日。鳥のさえずり。少し湿った、けれど嫌ではない空気。そんな中、俺の心はどんよりと沈んでいた。前を行くシェリエールの背中を見ながら、俺は思わず手を握りしめる。
昨日、笑いながら木の実を集めていたシェリエールは今、前だけを見て歩いている。
そういえば、俺の元の体ってどうなっているんだろうか。一瞬、嫌な想像が頭をよぎる。
(まさか、俺の体にグローの魂が入ってたりして……)
そんなことより、災厄ってなんだ。調査って……何をすればいいんだ?
「――っ!」
(今、“そんなことより”だって?)
自分の体のことを、そんな風に考えた俺自身が怖くなった。
「……感じますか?」
不意に、シェリエールの声が俺の思考を遮った。わずかに緊張を含んだ声。
彼女が立ち止まり、目を閉じる。――何かを探っているようだった。
やがて、瞼が開く。
「森が、ざわついています」
その言葉と同時に、胸の奥がざらつく。さっきまでと空気が違う。
「静かだな。いや――静かすぎる」
動物の気配が少ない。鳥の声も、遠い。
「……おかしいですね」
シェリエールが小さく呟く。
その時だった。木々の奥に、黒い靄が揺れているのが見えた。
「……瘴気」
シェリエールの声が、低くなる。それは、ただの靄ではなかった。
弱く吹く風さえ重い。肌を撫でる空気が冷たい。そして――嫌悪感を覚える。
「下がってください」
短く告げると同時に、シェリエールは杖を掲げ、静かに祈りのような言葉を紡ぎ始めた。
杖の先端に白く柔らかな光が生まれ、波のように瘴気に向かって押し寄せていく。
光の波が収まると、黒い痕跡すら残さず、何も無かったように空気だけが戻る。
「……すごい……」
あまりにあっけなく、目の前の異変は消え去った。だが――彼女は安堵するでもなく、じっと森の奥を見据えていた。
――次の瞬間、風が、止んだ。
「来ます!」
シェリエールの言葉と同時、再び瘴気が溢れてきた。さっきよりも濃く、重く。黒い靄が、中心へと渦を巻く。その奥で、何かが蠢いた。影。いや――形になりきれない“何か”。
再び、杖の先端に光が灯り、それに向かっていく。
その時――声がした。
――■■■
言葉ではない。だが、意味が“直接”伝わってくる。拒絶。侵入者。排除。
「これは……まずいですね」
シェリエールの声に、初めて焦りが混じる。光は、間違いなく黒い塊を削り続けている。だが、消えない。黒い何かは蠢い続けて――
「シェリエール!増えてる!」
一つだったはずの“それ”が、二つ、三つと分かれ――いつの間にか、四つ。
俺たちを取り囲むように、ゆらりと揺れていた。
「これ、瘴気を浄化するんだろ」
革袋からフィーア・イーナを取り出し、シェリエールの手に握らせる。
「ありがとうございます」
短く答え、すぐさま宝珠を掲げて祈りの言葉を紡ぎだす。
俺は剣を構え、一歩前に出てシェリエールに背中を預ける。
“それ”が動いた。走るのではなく、空間を滑るように迫る。
シェリエールの光に押され、動きが鈍くなる。だが、止まらない。
――右。身体が勝手に動く。踏み込み、剣を振る。だが――
「っ……!?」
斬ったはずの手に、何の感触もなかった。
「実体が……ない……!?」
シェリエールの声に焦りが混じる。
“それ”は霧のように散り、すぐに再び形を取る。そして、すぐに別の方向から襲いかかる。
「ちっ……!」
後ろへ跳ぶ。が、かすめた。
腕に冷たい感触。遅れて痛みが走る。肌の裏を何かが這い回るような不快感。
「触れないでください!」
シェリエールが叫ぶ。
「瘴気に侵されます!」
(冗談じゃない!)
当たれば終わり――なのに、こっちは斬れない。
「どうすんだよ、これ」
その時だった。
――斬れる。声ではない。だが、確かな感覚が頭の中で響いた。理屈じゃない。
それでも――分かる。もう一度剣を構えると、深く息を吸い、剣に意識を沈めていく。
“それ”が来る。正面から。今度は逃げない。再び、踏み込む。
「はっ!」
剣を振る。瞬間――斬った。
手に、はっきりと手応えが伝わる。
――■■■!?
“それ”は言葉にならない悲鳴を残し、歪みながら崩れるように消えた。
「……効いてる!」
シェリエールの声に驚きと――確かな希望が混じった。
残った三体が一斉に動く。
右の一体――捻って薙ぐ。そのまま、回転。
二体目。袈裟に断つ。
三体目。間に合わない角度。だが――踏み込み、軌道を変えて斬る。
全てが、一瞬だった。
気づけば、静寂。荒い呼吸と心臓の鼓動が、やけに大きく響く。
身体の熱が、ゆっくりと引いていく。
今の自分の動きに頭がついていかなかった。無駄のない剣筋。迷いのない踏み込み。
そして――それらが淀みなく繋がる一連の動き。
(野盗の時は、百歩譲ってたまたまだとしても……)
頭を振る。俺じゃない何かが、身体を動かしているような感覚。
シェリエールに目をやると、こちらを見ているのに意識はそこにないようだった。
我に返ったシェリエールが、弾かれたように俺の元へ駆け寄る。
「ユウ様、腕を見せてください!」
言うや否や、俺の袖をまくり始める。少し驚いたが、されるがまま腕を差し出した。
「……っ」
少し眉をひそめると、腕に手をかざし掌に生んだ光を当てていく。
温かな光を受け、先ほど瘴気が掠めたところにまとわりついていた黒い靄が消えていく。
「瘴気は危険です。精神まで深く入り込むと、最悪、人ではいられなくなります」
「え……。そんなに、ヤバいのか?」
思わず出たその声は、焦りと恐怖でわずかに上ずっていた。
「症状は様々です。軽ければしばらく意識を失うだけで済みますが――記憶や自我を失ったりすることもあります」
「……酷いと」
シェリエールの視線がわずかに揺れる。
「異形に成り果てることまで」
その言葉で、ようやく実感が追いつく。背筋に、遅れて冷たいものが走った。
(……当たってたら、終わりだったのか)
俺は、無意識に腕を見つめていた。
「ありがとう、シェリエール」
「いえ……」
わずかに言葉を切る。
「巫女として、当然のことです」
そう言うと、シェリエールは一歩下がり、わずかに視線を逸らした。
エルフの集落までは、まだ丸一日かかるらしい。日はまだ高いが、一泊は野宿になりそうだ。
俺は無言になるのが嫌で、シェリエールにあれこれ話しかけていた。
「さっきのやつ、何だったんだろう?」
「恐らく、瘴霊と呼ばれるものだと思います。私も実際に見るのは初めてですが」
「ショウレイ?」
「瘴気が、この世に留まっていた魂と混ざり不安定ながら形を持つもの、と私たちは考えています。自然発生した瘴気より密度が濃く、より危険な存在です」
「でも、シェリエールがいれば安心だな。巫女に選ばれるって、やっぱりすごいんだな」
俺の言葉に、シェリエールは小さく首を振った。
「私にできることは限られています。瘴気が纏わりついているだけならまだしも、完全に侵されたものを、元に戻す術はありません」
説明しながら、わずかに言葉が沈んだ。シェリエールの視線は揺れていた。
(なぜ、こんなところに……)
胸の奥に、拭えない違和感が残る。
(それに……フィーア・イーナでも、浄化できなかった)
指先に残る感触を、振り払うように握りしめる。
本来なら、あの程度であれば――彼女の力で、消し去れていたはずだった。
しばらく歩いたところで、再びシェリエールが足を止める。
(……また、か?)
――不意に、森の気配が変わった。わずかに聞こえていた鳥の声が消えている。遠くから、木々を揺らす音が近づき、足元には小さな振動が伝わってくる。
「……なんだ?」
「逃げますよ。とても……危険です!」
俺たちが動き出そうとしたその時、音と共に巨大な何かが姿を現した。
それは、蛇だった。だが、ただの蛇ではない。巨大な赤黒い体。鎌首をもたげた姿は、人の背丈を越える。そして何より――“おかしい”。目は黄色く濁り、異様な空気を纏っていた。
彼女の顔が、強張る。――危険だ。それが、言葉を介さずとも伝わってきた。
「……瘴気に、侵されています」
シェリエールは、目を離さないまま低い声で俺に伝える。
「近づくのは危険です。何とか、足止めします」
「また、瘴気かよ……」
蛇と目が合ったその瞬間、蛇が動いた。信じられないほどの速度で、距離を詰めてくる。
(……!速いっ!)
考えるより先に、体が動いた。シェリエールの腕を掴んで引き寄せる。抱えたまま横っ飛びしたそのすぐ脇を巨体が走り抜けていく。
「なんなんだよ、こいつ!」
(シェリは!?無事か?)
シェリエールは既に立ち上がり、杖を構えて低く祈りを紡ぎ始めているようだった。それを見つけた蛇が彼女に牙を向け、再び突っ込む。
「くそっ!シェリ、逃げろっ!」
彼女の前に出る。守る。その一心だった。だが――視界が揺れる。
(ダメかっ!?)
衝撃。体が弾き飛ばされる。シェリエールが何か叫んでいるが、もう聞き取れない。
――そこで、意識は闇に沈んだ。




