第一章:目覚め 前編
意識が、ゆっくりと浮かび上がった。
まぶたの裏に光が滲む。目を開けると、吸い込まれそうなほど澄み渡る青空。湿った土の匂いと、頬をなでる風が心地よい。
「……ここは?」
その声に、強い違和感が走る。もう一度、試してみる。
「お、れ、は、ユ、ウ」
やはり違う。自分の声じゃない。慌てて体を起こして視線を巡らせると、見知らぬ森が広がっている。どうやら、街道の脇に倒れていたようだ。すぐそばに大きな革袋と、抜身の剣が一振り落ちている。何気なく剣を手に取ると、不思議なほどぴったりと手に馴染んだ。
「これ、剣……だよな?」
記憶を辿る。いつも通り出勤してパソコンに向かい、トイレに行って――そこまでで途切れる。思い出そうとしても、何かが邪魔するように思考がぼやけ、うまくまとまらない。
「……夢か?」
呟いてみるが、風も匂いも、全部がやけにリアルだ。
ふと、磨かれた刀身に映る男の姿が目についた。革鎧を着た、赤毛で短髪の剣士。
明らかに俺の知っている自分ではなかった。
「どうなってるんだよ、これ……」
周りを見回していると、視界の端で白い塊が動いた。反射的に向けた視線の先に、誰か倒れているようだった。
俺は、剣を鞘に納めながら近づくと、倒れている相手の姿を見て足を止めた。
「……え?」
女性だった。乱れたローブから覗く手足の肌は白く、長い銀の髪は絹のような美しい光沢を湛えている。そして――明らかに自分とは違う、鋭く尖った耳。
「……まさか、エルフ、とか?」
思考が追いつくより、助けなければならないという感覚が先だった。
「おい、大丈夫か?」
しゃがみこんで声をかけると、女性の瞳がゆっくりと開いた。碧色の、透き通るようなその視線がこちらを捉えた。体を起こしながら、俺に向かって何か言葉を発している。だが、意味がわからない。
「……言葉が違うのか?」
そう思った、その瞬間。――不意に、声ではない何かが直接頭に届いた。
『……わかりますか?』
「っ!?」
いきなりの呼びかけに思わず一歩下がる。あたりを見回しても他に誰もいない。
「なんだ!? 今の……お前か?」
彼女が、こちらを見たままこくりと頷く。
『言葉が通じないようなので、こうしています』
(……テレパシー、みたいなもんか?)
一抹の不安はあるが、今の俺には彼女しか頼れるものがなかった。訝しむ表情の彼女に、思い切って尋ねてみた。
「あの……ここは、どこなんだ?」
『ここは……多分、ミスダク地方の森です』
辺りを見回しながら彼女が伝える。よかった。コミュニケーションは取れそうだ。
「……まあ、日本じゃないよな」
聞き覚えの無い名前に思わず呟く。
『に ほ ん?』
逆に彼女は、日本という言葉に全く覚えがないようだ。
(ドッキリとか、そういうのじゃないよな?)
昨日まで、会社では上司に怒られ、居酒屋では同僚と好きなゲームの話で盛り上がっていたはずなのに。エルフ。頭に響く声。手に馴染む剣。そして、知らない自分。ありえない。
「……まさかそんなわけ、ないよな?」
――異世界。半ば冗談のように思い浮かべたその言葉に、鼓動が早くなるのを感じる。
(これ帰れるのか……? いや、異世界に来たのではなく、転生したとか?)
気持ちの整理ができず黙っていると、今度は向こうから問いかけてきた。
『帰れないのですか?』
「まあ、そんなところかな……。君は、なんでここに倒れていたんだ?」
『それが……。私もなぜここにいるのか、何があったのか、わからないのです』
彼女はこめかみに手を当てながら伏し目がちに答える。彼女も記憶が飛んでしまっているようだ。途方に暮れそうになっていた俺を、彼女は顔を上げてじっと俺を見ている。何かを探るような眼差しに、思わず姿勢を正してしまう。
『……不思議です。あなたが誰かもわからないのに……なぜだか、怖くありません』
その言葉には、彼女自身も戸惑っているような響きがあった。俺は、警戒されていないことに少し安堵した。――なのに、なんだか胸がざわつく。記憶がない者同士。普通ならもっと警戒するはずだ。そういえば、俺も当たり前のように彼女に声をかけていたことを思い出す。
どこかで、知っている気がする。その感覚が拭えない。
俺は、自分の状況を伝えた。
ここがどこなのかも、いる理由も、何もわからないこと。
――そして、この身体が自分のものではないことを。
「なあ、変なこと言うけど……俺を一緒に連れて行ってくれないか?」
彼女は一瞬驚いた顔をするが、そこに拒絶の色はなかった。
「名前はユウだ。よろしく」
『私はシェリエールと申します。こちらこそ、よろしくお願いいたします』
俺たちは行動を共にすることになった。正直、助かった。一人で残されても、どうにもならなかったところだ。――なのに。
ふと、シェリエールに見とれていた自分に気が付き我に返る。
(こんな時に何考えているんだ、俺は……)
こんな状況なのに、彼女のことが気になる自分に、心底驚いた。
転がっていた革袋と、白い宝石が付いた彼女の杖を拾い、二人並んで街道を進む。俺には見えないが、どうやらシェリエールには少し先に小屋が見えるらしく、そこを目指すことにした。
少し歩いたところで、シェリエールが立ち止まり周囲を見渡している。
明らかに、あまりいい状況ではなさそうな雰囲気だ。彼女がこちらを見る。言葉はわからない。だが――危険が近づいていることだけは、嫌でも伝わった。気配。それも複数。
「……狙われてる、のか?」
木々の間。微かに影が揺れ、一人また一人と姿を現す。目つきの悪い、粗野な格好の男が四人。得物を手にじりじりと近づいてくる。
「これって……山賊とか野盗とか、そういうやつ?」
いきなりの大事件に逃げたくなったが、シェリエールの手前、何とか踏みとどまっていた。腰に差した剣の柄に手をかけると、手に馴染む感覚が焦りを消していく。剣なんて振るったことはないが、この剣士の身体に賭けてみるしかなさそうだ。
男の一人が、何かを叫ぶ。だが――。
「……わかんねぇ。なんて言ってる?」
シェリエールが、小さく息を吐く。わずかに呆れたような顔。
『有り金全部置いていけ、だそうです』
「わかりやすいな」
なおも声を荒げる男たちに、シェリエールが、静かに口を開く。その声は、上品で、落ち着いていた。彼女の言葉に――男たちの顔が変わる。一瞬の沈黙。そして怒号。
「……あいつらに、なんて言ったんだ?」
『あなた方のような人達に渡すお金はありません。働いて得るべきだ、と』
「……おい」
思わずツッコむ。
(それ今言う!? ……いや、正論だけど)
『……何かおかしかったでしょうか?』
容赦のない言い方に、苦笑するしかない。
「シェリエール、ちょっと下がっててくれ」
彼女は驚いた顔で俺を見て、少しだけ迷ってから頷いた。俺は一歩前へ出ると剣を抜き、持つ手に力を込めた。自分の意思より先に、自然に体が構えを取る。
(……なんだ? どうした、俺)
刹那の思考の間に、髭面の男が、何やら喚きながら剣を振り上げて突っ込んでくる。
速い。――いや。
「――遅い」
男の動きがはっきりと見えた。目で追い、体が自然に動く。横にずれる。耳元を風が切り裂く。
ゴンッ!
すれ違いざま。剣の腹で、一撃。鈍い音が響き、男がそのまま崩れ落ちる。
「……え?」
(今の何だ? 身体が……勝手に動いた)
一瞬で空気が変わり、残りの三人の動きが止まる。
「……まだ、やるか?」
剣を軽く構える。男たちは顔を見合わせると、じりじり後ずさりし始めた。
「……そいつ、連れていけ」
俺の言葉は通じていないはずだが、言いたいことは伝わったらしい。慌てて担ぎ上げると、そのまま街道の向こうへ消えていった。
静寂が戻る。
「なんだよ、今の……。どうなってんだよ」
手にした剣をなんとなく見ていると、鍔に埋め込まれた青い宝石が微かに輝いた気がした。
「……お見事です」
後ろで見ていたシェリエールが微笑む。動揺を隠しながら、ぎこちない笑顔を返した。
「ああ……何とか、なったみたいだ」
驚きと、安心と――気味の悪さ。剣を握る手が、わずかに熱を帯びていた。
のどかな空気。街道と言っても人の往来は少なく、すれ違ったのは馬車一台だけだ。
ギュルル……。
落ち着いたら空腹が襲ってきた。
「お腹が空いたのですか? 良ければ、森で木の実を採ってきます」
日はまだしばらく持ちそうだ。シェリエールの提案に乗り、二人で森へ入った。
彼女は迷いなく森を歩き、次々と食べられる果実などを見つけていく。
「この森、知っているのかい?」
「いいえ。森が教えてくれるのです。」
「森が教えてくれる?」
「はい。どの実が食べられるか、どこに水があるか……森は色々なことを教えてくれます」
「……なるほど。全然わからん」
不思議に思って聞いた質問の答えは、もっと不思議なものだった。ほんの一時間ほどで、二人の両手いっぱいの食料が手に入った。
森の中は、不思議なほど静かな時間が流れている。時折、動物の鳴き声が聞こえ、気配こそあるが、こちらに来る様子はない。彼女はどこか嬉しそうだった。やっぱり森はエルフにとって心地良いのだろうか。
「そろそろ行きましょう。ひと雨来そうです」
唐突に告げられた彼女の言葉に、思わず空を仰いだ。高い木々の隙間から覗く空はまだ青く、雨の気配は感じられない。だが、ここは従っておくのが賢明だろう。足早に小屋へ向かう。
隣を歩くシェリエールとの距離も、少し近くなった気がする。
――だが。
ごく自然に会話が出来ている。その異常さに、俺たちは気付いていなかった。




