第4章2 世界分散~ワールド~
高い天井の部屋に、整然と並んだ書類が静かに置かれ、凛とした空気が張り詰めていた。
「クロードさま」
私は彼に呼び掛ける。
「改めまして、前回のお取引について、ご報告を差し上げます」
クロードは、机の上に小さなものをコトリと置いた。
それは静かに光を放っている。見覚えのあるものだ。あのとき手放した、リップ。
「こちらの現物を見せ、職人、薬師、宝飾師、それに鍛冶師にも意見を求めました」
「ずいぶんたくさんの方々にお声を掛けられたのですね」
「価値が見えた以上、確認せずにはいられません」
彼は蓋を開けて繰り出した。あの赤がまだ残っている。
「こちらの女性の唇を彩る紅は、――再現は可能です。ただし」
「ただし?」
「……品質が安定しません」
クロードはあっさりと言った。
「色が変わってしまう。固まらない。すぐに落ちてしまったり、逆にオイルを使っても取れなくなる。――彼らの腕でどうにかなる範疇を超えている」
「そうでしょうね」
私はあっさりと言った。
化粧品会社が長年掛けて築きあげてきたものだ。一朝一夕には作れない。
「でもその努力は無駄ではありません」
静かに、しかし力を込めて声を絞り出す。
「その過程で、何か気づきはありませんでしたか?」
「かおりさま?」
「腐りにくくなったとか、分離しなくなったとか。他にも――」
私は言葉を続ける。
「応用できる技術のヒントにはなったはずです」
クロードは、一瞬目を見開いてから、ゆっくりと閉じた。
「確かに、あの繰り出し技術を見た職人は、ネジの精度のヒントを得たようです。宝飾師は、新たなカッティングのデザインに感激していた。鍛冶師は別の金属に溶かして定着できるかもしれないと、研究を重ねている」
彼は森色の瞳で私を見つめてくる。その奥で、静かに炎が燃えていた。
「それが――目的だったのですか」
私は頷いた。肩まで伸びた髪がパサリと落ちる。
「品物は、売ってしまえばそれでおしまいです。リップを気に入った高貴なご婦人が、化粧箱に入れてそれで終わり。でも技術者が見れば、どうでしょう」
「……実に戦略的なお考えだ」
声色に、わずかな感嘆が混じっていた。
「普通は逆です。手持ちの品を売り払い、対価を得る。あなたはあの品を預け、私たちに考えさせた」
「工夫は、一番の資源ですから」
創意と応用で改良し、よりよいものを作り上げる。知恵が未来を切り開く。
それは、歴史が証明している。
「その通り」
クロードはゆっくりと頷く。
「彼らは口を揃えて言いました。これは紅ではない。神が与えた試練だと」
「嬉しいお言葉ですね」
私は胸にじわりと広がるものを噛みしめながら、香り高いお茶を飲む。
「褒め言葉として受け取ってください。――さて」
クロードは背筋を伸ばし、身を乗り出す。
「あなたは、あの品を売りたかった、のではない」
「はい」
「ましてや、先日お持ちだったバッグや靴を売りたい訳でもない」
手にしていたカップを静かに置いた。
クロードは瞬きもせず、私の瞳の奥をのぞき込むように、しばらく沈黙した。
「あなたは――仕組みを、作りたいのですね」
「失礼します」
ドアがノックされ、トレイを抱えた女性が部屋に入ってきた。
「どうぞ」
軽いお菓子とお茶のおかわりを置き、一礼をして出て行く。今度は香り高いお茶ではない。お菓子に合わせたブラックコーヒーだ。
クロードはひとくちそれを飲み、改めて切り出した。
「さて、話を進めましょう。あなたの目的は――なんでしょう」
彼は淡々と言葉を紡ぐ。
「技術者に刺激を与え、彼らの興味を引き出す。その目的は? ただの異世界人ではないでしょう。 商人? 政治家? いずれにしても、あなたは深い」
「ごく普通の庶民です。そう、今は」
お菓子をひとつ指先でつまみ、口に運ぶ。それをコーヒーで流し込む。
「世界は広い。それどころか、別の世界だってある。私はそれに――投資したい」
「投資? いま、投資とおっしゃいましたか。それは貴族が領地を運営する時に行うものです。もしくは大商会など」
「ええ、あなた方のような」
私は即座に切り返す。
「私は元いたところで投資をしていました。それも――そう、商店や工房、運輸に農業。広く、浅く、住んでいた国だけではなく、世界中に」
クロードは微動だにせず私の話に耳を傾けている。にわかには信じられないようだ。こんな何の力もなさそうな、小さな女の戯れ言になど。
しかし――。
しかし目の前にはリップがある。これが世界を動かす確たる証拠だ。
「広く――浅く? 浅くとおっしゃいましたか、あなたは」
「ええその通り。世界に少しずつ投資して、その成長をいただいていました。名前を」
私は息を吸い込んだ。
「世界分散~ワールド~と申します」
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