第7話 第四項
総裁室からの呼び出しは、翌日の午後に来た。
ハロルド・グレイヴス総裁。記録院の頂点に長く座り続けている人で、私は着任の挨拶のとき以来、言葉を交わしたことがない。書記官にとって総裁とは、通達の末尾に押されている印影のことだ。
総裁室は、南向きの明るい部屋だった。
「やあ、レンディッシュ君。座りなさい。……いや、昨日は失礼をした」
印影が、白髪の恰幅のいい老人の姿で、自ら茶を注いでいた。
「人事通達の件だがね。監査長の指摘の通りだ。私の早合点だった。係争は、まだ受理されていない。なるほど、言われてみればその通り。年を取ると、手続きより先に心配が立ってしまっていかんね」
「……恐れ入ります」
「君を案じたのだよ。王族との揉め事だ。窓口に座っていれば、矢面に立つ。総裁として、職員を矢面に立たせたくはない」
温かい声だった。滑らかで、途切れず、湯気の立つ茶のような声。
「そこで相談だがね。通達は取り下げる。君は明日から通常勤務だ。ただ、受理窓口の当番だけは、当面ほかの者に回したい。君は奥で書面の整理を。どうかな。これは命令ではなく、相談だ」
私は湯呑みを見た。
正しい提案だと思う。命令を差し戻された翌日に、相談として同じ内容の八割を通す。取り下げの形を取ることで、監査長の指摘も立てている。何も引っかからない。
引っかからない文章は、引っかかられては困る誰かが書いている――一昨日の自分の考えが、頭の隅で音を立てた。
だが、断る根拠がない。窓口を外れて奥の整理に回ること自体は、待遇の悪化ですらない。
「承知いたしました」
「そうか。助かるよ。君は話が早い」
総裁は目を細めて笑った。祖父というものがいたら、こういう顔で笑うのかもしれない。私に祖父の記憶はないので、確かめようはない。
退室の間際、総裁は思い出したように言った。
「ああ、それとね。昨夜の夜会の件、監査記録は私も読んだ。見事な弁明だった。――君のような優秀な書記官を、こんなことで失いたくないものだ」
「……ありがとうございます」
廊下に出て、扉が閉まってから、私は今の言葉を頭の中でもう一度読み返した。
こんなこと、で。
失う、とは。
好意的に読めば、辞めさせたくない、だ。読み方は、ほかにもある。
整理係に移って二日目の朝、窓口の方角が珍しく騒がしかった。
覗くと、揃いの上着の使者が三人、窓口で押し問答をしていた。王子殿下の使いで、先夜の宣言を書面にしたものを持参したという。受け取った当番が困り果てて奥へ回してきた紙を、私も検めた。
便箋に、あの夜の口上がそのまま書き写してあった。署名は殿下の直筆。様式番号なし、事由欄なし、七葉あるべきものが一葉。
調書ではなく、手紙だった。
当番は丁重にそれを返した。使者の一人が、では様式とやらをよこせと声を荒げ、様式一式を渡され、綴りの厚みを見て黙った。三人は書式の見本を抱えて帰っていった。噂によれば、王宮の文官には婚約解消調書を書いたことのある者が一人もおらず、書ける者を探しているという。
探すべきだと思う。ここに、一人いるが。
奥の整理係というのは、要するに書類の山との共同生活だった。
窓口が受理した各種申請の控えを分類し、不備を洗い、綴りに落とす。窓口ほど人目に立つ仕事ではないが、私は嫌いではない。書類は嘘をつくが、嘘のつき方に必ず癖が出る。癖を探すのは、性に合っている。
三日目の午後、その綴りは回ってきた。
婚約関連身分事項確認――いわゆる家格申請書。婚約の届出に先立って、両家の身分事項を確認する書類だ。届出人の名を見て、手が止まった。
ミレイユ・ソレイユ。
殿下との婚約を、もう届け出るつもりらしい。私との解消も済んでいないのに、と思わなくもないが、書類の準備を先行させること自体に規程上の問題はない。私は職務として、様式を検める。
第一項、氏名。問題なし。第二項、生年。問題なし。第三項、家名および爵位。ソレイユ男爵家。第四項、爵位の付与および相続の経緯――
目が、止まった。
第四項には、現在の当主が爵位を継いだ年と、その根拠となる相続受理番号を書く。ミレイユ嬢の書面には、父君が当主として記載され、相続受理番号も書かれている。書式は完璧だ。番号の桁も合っている。
ただ、その番号には見覚えがあった。
相続受理番号の頭二桁は、受理した年を示す。この番号の頭二桁が示す年――その年の相続課の受理台帳を、私は整理したことがある。ちょうど一年前、相続課の応援に出されたときだ。番号の並びは今も憶えている。憶えてしまうのだ、そういうものは。
この番号は、その年の台帳の――欠番だった。
存在しない受理番号が、完璧な書式で、そこに書かれていた。
私はその場で、第四項の写しを取った。理由は、うまく言えない。強いて言えば、癖だ。おかしいものは、写してから考える。
三日後、確かめたいことができて、綴りをもう一度検めに行った。
ミレイユ・ソレイユの家格申請書は、綴りから、消えていた。
目録に抹消の記載はなく、差し替えの付箋もなく、ただ、なかった。私は誰にも言わず、消えていた日付だけを、頭の中に書き留めた。書き留めて、仕事に戻った。三日で消える書類がある、ということを、この建物で初めて知った日だった。
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