第6話 まだ、何も
「つまり、謹慎ですか」
「謹慎とは書いていないよ。登院に及ばず、だ」
課長は私と目を合わせずに言った。昨夜の別件とやらから戻ったばかりの課長は、朝から気の毒なほど疲れて見えた。気持ちはわかる。部下が一晩で王族との係争当事者になっていたのだから。
「理由をうかがっても」
「……君は昨夜、王族との係争の当事者になった。係争当事者を受理窓口に置くわけにはいかない。公正の観点から、ね。総裁室のご判断だ」
公正の観点。
正しい言葉だ。正しい言葉すぎて、様式のように滑らかで、引っかかる場所がない。私は三年間、様式を扱ってきた。だから知っている。引っかかる場所のない文章は、たいてい、引っかかられては困る誰かが書いている。
だが、反論の根拠が私にはなかった。規程のどこにも「係争当事者を窓口から外してはならない」とは書いていない。規則の穴は、いつも私の味方をしてくれるわけではない。
「私物は後日、送らせる。しばらく家で――」
「その通達は、無効です」
声は、課長のものではなかった。私のものでもない。
課の入口に、灰色の官服が立っていた。朝の光の中で見る監査長は、昨夜の暗がりで見るより、なお温度がなかった。課員全員が一斉に立ち上がり、壁際に避ける。私だけが座ったままだった。避けようにも、私の壁際はもう空の机しかない。
「か……監査長。無効、とは」
「通達の根拠は、彼女が係争当事者であること。相違ないか」
「は、はい。総裁室のご判断で」
「では確認する」
監査長は課長の前まで進み、例の手帳を開いた。
「王子側の婚約解消調書は、現時点で提出されているか」
「……いえ。まだ、何も」
「彼女側からの申立ては」
「ございません」
「では、係争は存在しない」
監査長は手帳を閉じた。ぱたり、という音が、判決のように響いた。
「係争とは、双方の主張が書面で記録院に係属した状態を指す。規程第五十二条。現時点で提出された書面は一枚もない。つまり――係争は、まだ受理されていない。存在しない係争の当事者を理由とする人事通達は、根拠を欠く。差し戻す」
課長は口を開き、閉じ、もう一度開いて、結局「総裁室に確認します」とだけ言って部屋を出て行った。逃げ足は側近たちより速かった。
規則で、救われた。
三年間、規則は私が扱う道具だった。扱う側だった道具に、扱われる側として救われた経験を、私はどこに整理すればいいのか分からなかった。分類先のないものは、保留にするしかない。保留、という綴りが、私の頭の中に、この朝、初めてできた。
課員たちが、そろそろと持ち場に戻っていく。誰も私を見ない。正確には、見ないふりをして全員が見ている。三年間、壁として扱われてきた身には、視線というものは少し、まぶしい。
「レンディッシュ書記官」
監査長が、私の前に立った。
「引き継ぎ書面は」
「仕上がっております。昼に監査室へ届けるつもりでした」
「今、受け取る」
私は封をした書面を差し出した。監査長はその場で封を開け、最初から最後まで読んだ。速い。だが、飛ばしていない。目の動きでわかる。一行ずつ、正確に読んでいる。
書類を正確に読む人間を、私は久しぶりに見た。
「……受理する」
それだけ言って、監査長は踵を返した。礼も、労いもない。私も別に、求めていない。ただ、去っていく灰色の背中に、ひとつだけ気づいたことがあった。
書面を持つ彼の左手。手袋の縁からのぞく手首に、古い引き攣れがある。火傷の痕だ。それも、かなり深い。
紙を扱う役人の手に、火傷。
私はその引き攣れから、しばらく目を離せなかった。
その日の夕方、空の机で帰り支度をしていると、廊下を書類運搬の台車が通った。押しているのは保管庫の老人だ。台車の上の木箱から、綴りの背が覗いている。古い調書だ。それ自体は珍しくもない。
珍しいのは、綴りの縁が――焦げていたことだ。
焼け残りの調書。行き先は、保管庫の奥。
台車の軋みが遠ざかるのを、私は空の机の前で、いつまでも聞いていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
続きが気になったら、評価とブックマークで応援いただけると執筆の励みになります!




