022話. 確保
カール5世が公布した新法により、インディアスの先住民は原則として奴隷ではなかった。
だから寄越せと言ったのではなく、交流と招待という言葉を使った。
予想外の答えに、ルーベンの意図が気になったフェリペ2世が尋ねた。
「なぜインディアスの先住民との交流を望むのだ?」
「マタイによる福音書28章19節から20節には、『それゆえ、あなたがたは行って、すべての民を弟子とし、父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、わたしがあなたがたに命じたすべてのことを教え、守らせなさい。』とあります。」
フェリペ2世はルーベンの流暢なラテン語に驚きながら尋ねた。
「信仰心が大したものだな。ところで、ラテン語は誰に習ったのだ?」
「母に習いました。」
「母? もしや貴族の家柄なのか?」
公爵夫人がルーベンの家門について口にしていなかったため、平民なのだと思っていた。
「母方の家門がアンダルシアでエスクデロ(Escudero)を務めていると聞いております。父は平民でした。」
エスクデロは『盾を持つ者』という意味で、中世には騎士の従者を意味した。
だが時代が変わるにつれ、軍事的な役割や行政を担う下級貴族という意味へと変化していった。
「ふむ、どういう事情なのか分かった。ところで、その聖書の一節がインディアスの先住民との交流とどう関係するのだ?」
「この一節は、主がすべての民に福音を伝え、洗礼を授け、教えよと仰ったものだと理解しております。」
「その通りだ。聖書を実によく学んでいるな。立派だ。」
ルーベンはもう一度頭を下げながら言った。
「ありがとうございます、陛下。」
「うむ、続けてみよ。」
「ですので、いつかはインディアスの先住民に主の教えを広めることが私の目標です。そのために彼らの言葉を学んでおきたく、恐れながら陛下にお願い申し上げました。」
パチ、パチ、パチ。
「立派だ、立派だ。まことに模範となる心構えではないか。まずはここに座ってみよ。」
ルーベンは無意識に『はい?』と聞き返しそうになるのを、どうにか堪えた。
公爵夫人も予想外だったのか、フェリペ2世に言った。
「陛下と座ってお話をするような身分の子ではございません。」
「いや、夫人。このように篤い信仰心を持っているのなら、私と同じ主の子ではないか。何をしている? 早く座らぬか。」
『記録通り、並大抵の信心深さじゃないな。』
これまで聖書を勉強してきた時間が、まったく惜しくなかったルーベンだった。
「光栄にございます、陛下。」
ルーベンは頭を下げたままゆっくりと立ち上がり、椅子に座った。
「そなたがそのような心を持つに至った一節を、もっと挙げてみよ。」
「はい、陛下。」
マルコによる福音書16章15節、使徒言行録1章8節、ローマの信徒への手紙10章14-15節。
ルーベンの朗読が続くほど、フェリペ2世の笑い声は次第に大きくなっていった。
「はは。立派だ。本当に立派だ。それで、どの地域の先住民と交流したいのだ?」
「ラ・エスパニョーラ(La Española)の先住民と交流したく存じます。」
『スペインの島』という意味のラ・エスパニョーラは、現代ではドミニカ共和国とハイチが位置する『イスパニョーラ』島だった。
「なぜラ・エスパニョーラなのだ?」
この時期、スペインは島の東側の、それも主に海岸部にしか進出していなかった。
その後も西側には進出せず、フランスが植民地化した。
「最初に発見された新大陸でありながら、いまだ西側には主の祝福を受けていない先住民が多いと聞いたためです。」
もちろん本当の理由は、ラ・エスパニョーラ島のタイノ族とカリブ族の言語さえ学べば、一部の少数部族を除いて意思疎通が可能だったからだ。
そのうえ島には、アルミニウムの原料であるボーキサイトが大量に埋蔵されていることも理由の一つだった。
それだけでなく、まだ砂漠化がそれほど進んでおらず、農業には最高の土地の一つでもあった。
どれほど肥沃だったかというと、1780年代にはフランスが現在のハイチ地域から得ていた収益が、当時のスペインが新大陸植民地全体から得ていた収益より多かったほどだ。
「口先だけではなく、本当に遠大な計画があったのだな。そなたが暮らしている場所はどこだ?」
「港町ビーゴでございます。」
「ビーゴか....宮中伯。」
フェリペ2世の呼びかけに、後ろで待機していた宮中伯、ラモン・デ・カルドナが近づき、恭しく答えた。
「お呼びでしょうか、陛下。」
「今、ビーゴを任されているのは誰だ?」
「オソリオ家のディオカ子爵(Vizconde)でございます。」
オソリオ家は中世の頃からスペイン北西部に広大な領地を所有し、影響力を振るってきた家門だった。
今でもガリシア地方に絶大な影響力を持っていた。
ディオカ子爵は、そんなオソリオ家の近しい傍系だった。
「ディオカ子爵に、ルーベンへそれなりの屋敷を与えるよう手紙を送れ。」
「明日、日が昇り次第すぐに送ります。」
ちょうど香水を売って、まずはまともな屋敷から探そうとしていたルーベンだった。
スルファ剤と青カビを培養するために、より広い住居が必要だったからだ。
『愛してるぞ、ベアトリス。たまに肝を冷やされるけど、お前のおかげでしっかり恩恵を受けてるな。香水をあと50本やろう。』
スルファ剤を作るには、ベンゼンを硫酸と硝酸に反応させてニトロベンゼンを作らなければならなかった。
いくら別棟とはいえ、子供たちの宿舎がすぐ隣にあるため不安だった。
また、ペニシリンを得るための青カビ培養には無菌施設が必要だった。
現代水準のシステムがない以上、青カビの培養だけに使う専用空間そのものが必要だった。
「ラ・エスパニョーラの先住民については、今度税収船が到着したら送ってくれるよう連絡しておこう。遅くとも来年の夏には会えるはずだ。」
「ありがとうございます。陛下のご恩には必ず報います。」
「その前に、エリザベートのためのブルーミングティーを一杯頼む。」
ハーブティーが気に入ったフェリペ2世は、そのままティータイムを続けた。
***
ルーベンは翌日、ハーブティーを淹れるティンテロ(tintero)としてではなく、正式な招待客として公爵夫人の食事に招かれた。
「コミダ(Comida)にお招きいただき光栄です、公爵夫人。」
コミダは午後12時から2時頃に食べるスペインの昼の正餐で、さまざまなコース料理が供された。
公爵夫人が設けた席だったため、昼餐会場は昨夜に劣らぬほど華やかに飾られていた。
「うむ、座りなさい。」
「ありがとうございます、夫人。」
ルーベンが席に着くと、食前酒と簡単な前菜が出された。
公爵夫人が特に何も言わなかったため、ルーベンは様子を見ながら礼儀作法に則って食前酒を飲んだ。
しばらくして、一品目のコース料理が出された。
ソパ・デ・アホというニンニクのスープだった。
『うん、ニンニクの香りはするけど、ニンニク自体はあまり見えないな。』
それでもこの時代、貴族でなければなかなか味わえないパプリカパウダーが入っていたため、満足できる味だった。
二品目のコースは、コチニージョ・アサードという豚のローストだった。
『おお、胡椒だ。これはサフランか? うちの一か月分の食費より高そうだな。』
続いて出てくる料理からデザートまで、すべてルーベンの気に入った。
だが公爵夫人とベアトリスが一言も話さなかったため、どこか居心地が悪かった。
そうしてデザートまで終わった頃、公爵夫人がようやく口を開いた。
「ラテン語が流暢なだけでなく、食事の礼儀も心得ているところを見ると、きちんと教育を受けたようだな。」
「ありがとうございます。もし至らぬ点がございましたら、すぐに改めます。」
公爵夫人はルーベンではなく、ベアトリスに言った。
「これなら、我が家門の紋章を付けた香水を作っても不足はないだろう。」
「だから言ったでしょう。こいつのやることって、平民らしいところがまったくないんですって。」
今回の食事は、ルーベンを試すための席だったのだ。
それでも香水について難癖をつけないところを見るに、香水そのものには満足しているようだった。
「セドゥラ・レアルは?」
「せっかちね。今から話そうと思っていたところよ。」
「ありがとうございます、お母様!」
ベアトリスが満面の笑みで言うと、公爵夫人が厳しく返した。
「ベアトリス。ここは陛下がおられる宮殿ですよ。」
「あ、ありがとうございます。お母様。」
公爵夫人はベアトリスの改めた言い方に満足し、ルーベンに言った。
「セドゥラ・レアルを発給するには、お前が行こうとしている場所と目的を知る必要がある。まずはどこへ行きたいのかから言ってみなさい。」
「ナポリを経て、フィレンツェ共和国、神聖ローマ帝国、そしてヴェネツィアへ行きたいと考えております。」
ナポリはスペイン領であり、残りの国も協力国か同盟国だった。
「特に問題のある場所ではないな。理由は?」
「スペインとアルバ家のため、新たな発明品を作るための資料調査でございます。」
もちろん別の意図もあったが、正直に話すわけにはいかなかった。
「気に入った。いつ行くつもりだ?」
「来年3月に行きたいと考えております。」
この時代で最も恐ろしいものは病気だった。
疾病対策を仕上げるには余裕を見て二か月ほど必要だったが、そうなると真冬だった。
もう少し待って暖かくなってから行くほうが楽だった。
「副執事。3月にナポリへ向かう船はありますか?」
「フェロルに定期航海している軍艦があるはずです。」
「では城へ戻ったら、執事を通して発給をお願いします。」
「承知いたしました。」
副執事の返事を聞くと、公爵夫人は席から立ち上がった。
ルーベンとベアトリスも席を立つと、公爵夫人が口を開いた。
「銃器研究のようなことは、私のような女が決めることではないから、ビーゴの統治者であるディオカ子爵に手紙を送っておこう。」
「お気遣いいただきありがとうございます。そして晩餐にお招きいただき、光栄でした。」
公爵夫人が出て行くと、ベアトリスは席に座り直し、ルーベンを呼んだ。
「ルーベン、こっちへ来て私の前に座って。」
「いえ。私ごときがどうしてそのようなことを。」
「そこにいたら私が大きな声で話さないといけないじゃない。疲れるから早く来て。陛下の隣にも座ったんだから、別にいいでしょう。」
『こいつ、さっき母親に叱られたばかりなのにまたこれか。』
この時代、向かい合って座るというのは対等な立場として扱うという意味だった。
もちろん特別な敬意を示す意味で私的な場ならあり得たが、ここはアルバ家の城ではなくアルカサルだった。
だからといって、来いと言われて行かないわけにもいかなかった。
ルーベンが席に着くと、ベアトリスは契約書を見せながら言った。
「契約書に追加したい文言があるの。」
「どのような内容でしょうか?」
「うちの家門の印章を押して、その下に私のイニシャルを入れたいの。いいでしょう?」
もちろんルーベンに拒否する権限はなかった。
断る理由もなかった。
「私としては、むしろ光栄でございます。令嬢様のイニシャルが入れば、香水の価値もさらに上がるでしょう。」
「そう言うと思った。それはそうと、あなたの研究も守らないといけないし、外国にも行くんだから、護衛として奴隷兵を三人貸してあげる。」
先住民の奴隷化は禁止されていたが、黒人と一部の改宗していないムーア人は例外だった。
ルーベンはスペインを愛してはいたが、こういう面まで好んでいるわけではなかった。
『だからって、今すぐ俺に何かできるわけでもない。』
今は頭を低くしているべき時だった。
「三人も貸してくださるとは、本当にありがとうございます。」
「三人といっても、あなたの香水一本分の値段よ。3年間任務を果たすことを条件に自由を保障すると伝えるから、言うこともよく聞くはず。」
「ありがとうございます。」
「ほかに欲しいものはない? 私にできることなら聞いてあげる。言ってみて。」
新作の香水に自分のイニシャルを刻むという考えに、ベアトリスは浮かれていた。
「酸敗したワインを元に戻す方法がないか個人的に研究しておりまして、さまざまなオレンジと葡萄を手に入れたいのですが、お力添えいただければと思います。」
「え、何それ? そんな研究をしてたなら言いなさいよ。それも後援してあげようか?」
『いや、それは困る。これはただの口実なんだけど。』
理論上は、分子単位まで分解して再構成すれば可能ではあった。
だがあくまで最新の現代設備を使っても、理論上でのみ可能なことだった。
つまり、いくら後援を受けても絶対に成果が出ない研究だった。
「いえ。これはまだ本格的に研究しているわけではありませんので、後援をいただくのは少々気が引けます。」
「そう? もし後で本格的にやるようになったら言ってね。果物は私が手に入れられるものを全部集めて、帰るときに持たせてあげる。」
「ありがとうございます。可能でしたら、果物の種類ごとに必ず別々の箱へ入れていただければと思います。」
「それも研究の一環なの? 分かったわ。皆にそう言っておく。」
ルーベンがオレンジと葡萄を求めた理由は別にあった。
まさに『ペニシリン』を抽出するためだった。
ペニシリンを得られる青カビにもいくつもの種類があったが、ルーベンが欲しいのはクリソゲヌム
青カビ(Penicillium chrysogenum)で、アレクサンダー・フレミングが最初に発見した青カビよりもはるかに多くのペニシリンを生産する菌だった。
こいつさえ見つければ、ペニシリンの生産はスルファ剤を作るよりも簡単だった。
この菌を探すためには、生産地域も種類も異なる果物を手に入れる必要があり、複数の商団へ問い合わせなければならないため時間のかかる作業だったが、ベアトリスは一度に解決してくれた。
『これで青カビも確保!』
もちろん果てしない単純作業は必要になるだろうが、成功さえすれば、ルーベンの楽しい16世紀スペイン旅行が病死エンドで締めくくられる可能性は極めて低くなるということだった。




