001話. 1568年、スペインへ
世界的な名門大学の化学科を卒業し、新薬開発に没頭している健太郎には、ある趣味があった。
歴史と陰謀論だった。
最初は化学の歴史と発展を学ぶために触れたものだったが、今では切り離せない趣味となっていた。
今日も残業を終えた健太郎は、寝る準備を済ませ、よく利用する歴史コミュニティにアクセスした。
投稿されてから大して経っていないのに、数十件ものコメントが付いた話題の投稿が目に入った。
[お前たちが現代文明を享受できているのは、すべて大英帝国が悪の枢軸スペインを打ち倒したからだ。]
「くそっ、イギリス信者どもめ。今日は本当に決着をつけてやる。」
健太郎が歴史上もっとも嫌っている国は、紳士を装いながら、ありとあらゆる虐殺を犯したイギリスだった。
反対に、もっとも好きな国はスペイン。
この投稿は、彼の愛するスペインを、コロンブスをはじめ、インカ文明を破壊したフランシスコ・ピサロや、マヤ文明を破壊したペドロ・デ・アルバラードのような人物を持ち出し、徹底的にこき下ろしていた。
健太郎はすぐさま怒りを込めてキーボードを叩いた。
―俺が何度言えば分かる? そいつらはフリーメイソンの手先だって言ってるだろ? それを抜きにしても、マヤは神と意思疎通するとか言って、一年に二万人ずつ殺してた連中だ。だから内部からも一緒に蜂起したんだよ。
盛んに議論が交わされている投稿だったため、すぐにコメントが付いた。
―スペインニキ、いらっしゃい。今日も残業だったみたいだな?
―こいつ、スペインに都合の悪いことがあると、全部フリーメイソンのせいにするよな。
健太郎も最初は、スペイン帝国を虐殺者だと思っていた。
しかし、歴史を勉強しているうちに意外な事実を発見した。
―アメリカ先住民の奴隷化を、誰が最初に法で禁じたか知ってるか?
―リンカーン?
―スペイン帝国の統治者、カール五世だ。
―カール五世が奴隷禁止とか、何言ってんだよwww
だが、しばらくして別の者のコメントが付いた。
投稿主。1542年にカール五世が公布した新法には、先住民の奴隷化禁止があるぞ。
―なんでマジなんだよ???
―ここの連中は、スペインニキのせいでもう全員知ってる。
もちろん、カール五世が公布した新法は大きな効力を上げることはできなかった。
当時のスペインは最強国ではあったものの、肝心の王の影響力は、それほど絶大ではなかったからだ。
健太郎が続けてコメントを付けた。
―フランシスコもペドロも1541年に死んでいるが、俺はこの二人をカール五世が殺したんじゃないかと思ってる。先住民と対立する連中の代わりに、新法をきちんと守る者を総督として送るためにな。
もちろん、歴史書には暗殺と負傷による死亡と記されているため、あくまで健太郎の推測にすぎなかった。
―どうせ仮定で話してるんだからおk、お前の言う通りだとしよう。でも新法も結局、自分たちだけは例外だったんでしょ? 黒人奴隷は例外だったんでしょ?
―新法がきちんと施行されなかったことは認める。それでも当時のスペインは国内外から牽制されていたんだから、情状酌量の余地はある。それに、俺はその大部分がフリーメイソンと関係していると見ている。
少なくともこのコミュニティでは、東インド会社を設立したイギリスとオランダがフリーメイソンの本拠地であることは、全員が認めていた。
健太郎はさらに進んで、もともとのフリーメイソンの本拠地はオスマン帝国だったと考えていた。
レパントの海戦でスペインがオスマン帝国を叩き潰したことで、彼らの相当数がイギリスとオランダへ渡ったのだということだ。
―でもカール五世が即位して、黒人奴隷は合法化したんでしょ?
―巧妙に論点をずらすな。法制化はしたが、黒人奴隷そのものは以前から存在していた。
カール五世が統治する以前から、スペインでは黒人奴隷が使われていた。
当時のスペインは中央集権体制ではあったが、まだ諸侯の力が強大だった時代だ。
黒人奴隷にまで手を出せば、暴動が起きていたかもしれない。
暴動にまで至らなくとも、命令を拒否されるだけで国が揺らぎかねない状況だった。
そして、別の理由もあったはずだというのが健太郎の推測だった。
―こんな状況なら、制度化はむしろ妙手だ。黒人奴隷を確実に表社会で管理しようとしたんだ。たぶんスペインが安定していたら、黒人奴隷の禁止も宣言してたはずだぞ?
すべての君主がそうであるように、カール五世も功罪が分かれる人物だった。
だが、健太郎は彼を高く評価していたが、それはカール五世のキリスト教的人道主義のためだった。
宗教改革の風が吹いていた16世紀。カール五世は当時のカトリック教徒の立場からすれば、火あぶりにして当然の異端者であるマルティン・ルターと会っても、死刑にはしなかった。
彼の人生で数少ない屈辱を味わわせた人物であったにもかかわらずだ。
―おk、ひとまずカール五世はここまで。じゃあ息子のフェリペ二世は、どうしてアルバ公爵をオランダで暴れさせたんだ?
鉄の公爵と呼ばれた当代のアルバ公爵は、聖像破壊運動の鎮圧を口実に、オランダで凄まじい虐殺を行った。
後に『血の評議会(Council of Blood)』と呼ばれる宗教裁判所を開いてのことだ。
だが、これにも反論することができた。
―だからアルバ公爵を召還して、ルイス・デ・レケセンスを総督に任命しただろ。
―五年も経ってからじゃねえか、クソww その間に数千人は死んでるぞ。
―その程度なら、状況を把握して対策を立ててすぐに送った方だ。当時は通信手段があったわけでもない。
実際にフェリペ二世の特命を受けてオランダ総督となったルイスは、穏健政策を展開した。
もちろん、アルバ公爵の暴虐があまりにも酷く、収拾不能な段階にまで達していたのだが。
―なあ、でもアルバ公爵って若い頃、フェリペ二世を背負って育てたんじゃなかったか? だったらフェリペ二世もアルバ公爵も、同じ穴の狢じゃね? マジで知らんけどww
まあ、これは事実だった。
アルバ公爵は幼いフェリペ二世と共にヨーロッパ各地を旅しながら、さまざまな教育を施した。
だが。
―お前は担任がスパイ罪で逮捕されたら、その教師に教わった生徒も全員スパイだと言うのか?
実際にフェリペ二世は、父であるカール五世が公布した新法をさらに強化しようと努力した。
もちろん彼も父と同じく、能力不足によって望んだことを成し遂げられなかったのだが。
「またどんな主張をしてくるかな。」
いつもこうして、人々がスペインを攻撃し、健太郎が防御するという流れだった。
コメント欄はしばし小康状態。
経験上、今度は健太郎が反撃する番だった。
―紳士様のイギリスは、二百年以上も甘い汁を吸ってから、ようやく奴隷廃止法を出したよな? スペインが健在だったら、もっと早く廃止されて、文明もさらに早く発展してたんじゃないか?
イギリスでも1807年に奴隷貿易廃止法が成立したが、それはあくまでイギリス船が奴隷を運搬したり、取引したりすることを禁止しただけだった。
実質的な奴隷廃止の始まりは、1833年の奴隷廃止法だった。
これはイギリスを擁護する側にとって、どう答えても詰む質問だった。
―それが気に入らなかったなら、グラヴリーヌの海戦でイギリスに勝てばよかっただろww あいつら、無敵艦隊とか言って作ったくせに、どうして一度も勝てないんだ? 勝てる敵がいないから無敵艦隊だったのか?
だが、スペイン側にも、どう答えても詰む問題はあった。
イギリスに対抗するため、大規模な海軍戦力を集めたスペイン。
スペイン国内では無敵艦隊よりも、『ラ・フェリシシマ・アルマダ(La Felicísima Armada)』という、『神の祝福を受けた艦隊』と呼ばれていた。
もちろん、そうしてかき集めた艦隊は、一度の勝利も収められなかったのだが。
「くそっ。どうしてイギリスなんかに負けたんだ。」
イギリス・スペイン間の戦闘に、フリーメイソンが間諜として介入したと思われる状況証拠はいくつも確認していた。
だが、それも間諜の管理すらできなかったスペインの無能さだった。
―それは認める。負けたなら何も言えない。それでも、今俺たちが文明を享受しているのはイギリスのおかげじゃない。二百年も甘い汁を吸って、ようやく腹が満たされたから奴隷制度を廃止して、紳士のふりをしているイギリスこそ、本当の悪の枢軸だ。
最後のコメントを付け、しばらく相手の反応を待った。
ところが、それ以上コメントは付かなかった。
時計を見ると、いつの間にか午前一時。会社員が起きているには、そろそろ出勤が心配になる時間だった。
『今日はここまでか。』
インターネット上で繰り広げられた第二次グラヴリーヌの海戦は、イギリス側の逃亡によってスペインの判定勝ちとなった。
健太郎にとっては、それなりに満足できる成果。
そうして席を立とうとした、その瞬間。
ピロン―
健太郎のアカウントに、個人メッセージが届いた。
活動履歴を見る限り、たった今登録されたばかりのアカウント。
『別垢か?』
ひょっとすると、イギリス信者の投稿主がアカウントを変えて来たのかもしれない。
いったい何を言うためにここまでするのかと内容を確認すると。
―ずいぶん自信があるみたいだな? 過去に戻ったら、スペインまで救えそうだなww
誰が見ても、恨みのこもったニュアンス。
怒りを抑えきれない投稿主が、新しく作ったアカウントで因縁をつけてきたに違いなかった。
続いて健太郎が返信した。
―戻れるなら、できないことなんてあるか?
―そうか? じゃあ俺が送ってやるよ。行って苦労してこい。
健太郎はメッセージを見て、呆れたように笑った。
「とんでもない狂人もいたもんだ。」
狂人を相手にするくらいなら、本をもう一冊読んだ方がましだと思った健太郎は、ベッドに横になった。
スマートフォンを手にして、しばし悩んだ。
「今日は何を読みながら寝ようかな?」
この趣味を持つようになってから、健太郎は科学史家の書籍や図書館のアーカイブ、論文を好んで読んでいた。
人物たちの生涯と業績を比較しながら、フリーメイソンの会員を探すためだった。
「今日はジョージ・サートンが書いた本でも読みながら寝るか。」
すでに何度も熟読した本だったため、速いペースで読み進めながら眠りについた。
部屋の中で、一人の少年が息を止めたまま横たわっていた。
彼を診察していた医師が、少年の母親であるエレナに向かって首を横に振った。
「そ、そんな.............」
女は崩れ落ちるようにその場へ座り込んだ。
すると、すぐに気を取り直し、膝をついたまま少年へ近づいて手を握り、泣き交じりの声で祈った。
「主よ、どうか.......私の息子をお救いください。夫に続いて息子まで連れていかれたら、私は本当に生きていけません。」
彼女の夫は昨年、チフスを患って亡くなった。
その後、息子も徐々に衰弱し、とうとう息を引き取ったのだ。
エレナにとっては、世界が崩れ落ちるような衝撃だった。
彼女にできることはなかった。冷たくなっていく少年の手を握り、ただ神に縋ること以外には。
「主よ、どうか、どうか............!」
すべての祈りが聞き届けられるわけではない。子を失った母親も、彼女一人だけではない。
だが、時には、ごく稀には。
心からの祈りが、奇跡を起こすこともある。
少年の肉体が、再び動き始めたのだ。
『...何だ? 体が何かおかしいぞ?』
健太郎は、体から感じる違和感に呻いた。
まるで体に合わない服を着ているような感覚だった。
その瞬間、少年の肉体が持っていた十五年分の記憶が、健太郎の頭の中を掻き回し始めた。
『うっ、ぐああっ! 頭が、俺の頭が!』
健太郎が頭痛に体を震わせると、エレナが叫んだ。
「せ、先生。動いています! ルーベンが動いています! うちの子、生きているんですよね?」
「落ち着いてください、奥様。」
医師は今回も首を横に振った。
死んだばかりの人間が動くことは、頻繁ではないにせよ、時折あることだったからだ。
医師の予想通り、少年の動きはすぐに止まった。
だが、奇妙なことに、身じろぎは止まらなかった。
「ル、ルーベン! 大丈夫なの?」
頭痛は治まったものの、突然流れ込んできた情報が、頭の中でめちゃくちゃに絡み合っていた。
健太郎は隣へ顔を向けて尋ねた。
「ど、どちら様ですか?」
その様子に、部屋の中にいた三人全員が驚いた。
医師は死んだと思っていた少年が生き返ったことに驚き、エレナは息子が自分を認識できないことに驚いた。
健太郎もまた、無意識のうちにスペイン語が飛び出したことに驚いた。
「お母さんよ。お母さんが分からないの?」
息子が生きていたという安堵も束の間、自分を認識できない息子の姿に、空が崩れ落ちるようだった。
その時、医師が口を挟んだ。
「少々お待ちください、奥様。一時的な記憶喪失かもしれません。」
医師はエレナを安心させ、健太郎に言った。
「自分の名前は覚えているかい?」
健太郎は素早く状況を把握し、答えた。
「名前ですか? ル、ルーベン。ルーベン・クルーガーです。」
「では、母親の名前は?」
健太郎はしばらく記憶を辿り、目の前の女性、この体の母親の名前を思い出した。
「エレナ・クルーガーです。」
医師はさらにいくつか質問をした後、診断を下した。
「どうやら記憶に混乱が生じているようです。ひどく熱が上がっていましたから、無理もありません。」
「な、治る病気なんですよね? 先生、うちのルーベンは、一生私のことを思い出せないのでしょうか?」
エレナの問いに、医師は暗い表情を浮かべて答えた。
「そこまでは分かりません。ただ、過去にルーベンが経験したことを話して聞かせ、思い出の場所へ連れていけば、記憶が戻るかもしれません。」
エレナは切実な声で尋ねた。
「体は、体は大丈夫なんですよね?」
「はい。不思議なほど熱も下がり、体調もかなり回復しています。」
「おお、主よ、ありがとうございます。病気さえ治ったのなら、私はもう何も望みません。記憶が戻れば嬉しいですが、戻らないのなら、これからまた思い出を作ればいいのですから。」
エレナは医師に感謝を告げ、診療費を支払った。
そうして医師が去り、部屋に二人きりになった時、今やルーベンとなった健太郎が尋ねた。
「お、お母さん?」
着飾ってもいない状態なのに、とてつもない美人だと分かった。
それでも前世の自分よりずっと若く見えたため、母親と呼ぶのは容易ではなかった。
だが、エレナは自然に受け入れた。
「ええ、息子よ。具合が悪いところや、気になることはない?」
「その・・・ここはどこですか?」
胸が張り裂けそうな質問だったが、エレナは落ち着いて、できる限り詳しく答えた。
「あなたが生まれた十五年前から、私たちが一緒に暮らしてきた、ガリシアのビーゴ郊外にある小さな村よ。」
ガリシア。ビーゴ。聞き覚えのある地名だった。
それもそのはず。
『ビーゴって・・・スペインじゃないか!』
ルーベンは背筋を伝う冷や汗を感じながら、言葉を続けた。
「今は何年ですか?」
「1568年よ。他に気になることはある?」
気になることが多すぎて、何から聞けばいいのか分からない。
だが、もっとも気になるのは。
『あの狂人め! レスバに負けたからって、人を近世に落としやがったのか?』
この事態の元凶と思われる、あの別アカウントの正体だった。




