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紡ぎ唄  作者: 夕月
紡ぎ唄
3/6

あめのかわ

「森の中で雨だなんて冗談じゃないのっ」


「いいから足元見て、ほら危ない!」


 水溜りに足を取られて滑りかけたベガをアルタイルが力強く引き寄せた。ありがとう、と言う暇もなく腕を引かれて小道を走り抜ける。すぐ横は大岩の転がる川原だった。ここで転んで頭など打とうものなら、すぐさま天上人の仲間入りだ。この川は地形の関係上、一旦森を出て店のすぐ裏を通り、また森の中へ消え去ってしまう。より正確には、森からほんの少し出ている川のすぐそばに先代がわざわざ店を構え、町から道を敷いたそうだ。普段はこの川の恩恵にあずかっているが、今世話になるのは勘弁して欲しい。不気味な唸り声を立てて、普段の何倍も速く強く、濁った水が流れていく。普段は穏やかな澄んだ川なのだが。


 身が竦むほどの土砂降りだった。急がないと影の領域のモノたちが徘徊を始めてしまう。どこかに隠れてやり過ごすことも可能だが、雨が止むまで出て来れなくなる。森に入る以上最低限の装備はしているが、できれば遠慮したい事態だ。


「川原を、通って、近道、しないのっ?」


「こんな雨じゃ危険すぎる! 今日はちゃんと道を通って帰る。姉さん、あんま喋んない方がいい。舌噛むぞっ!」


 返事をする余裕もなかった。雨脚がさらに強くなって、アルタイルが思いっきりスピードを上げたからだ。アルタイルにしたらベガを引っ張っていない方が速く走れるのだろうが、ベガから見たら、この速さで悪路を走り抜けるのはありえないことだった。もう自分で走っているのか引き摺られているのかもわからない。ときどき転びそうになって、弟に力強く支えられる。


 本当に、この弟は大きくなってしまった。


 小道は店から少し離れたところで、町から店に通じる一本道に合流する。つまり、正確には一本道ではないのだが、巧妙に隠されている上にトラップを仕掛けてあるので今まで町人が迷い込んだことはない。もちろん子供もだ。その小道から一本道に出ると、アルタイルは肩の力を抜いて姉の腕を離した。ひとまずここまで出たら安心だ。店は――家はすぐそこ。


「あ、あり、がとうっ」


「おー」


 姉への返事も適当に、あまり息を切らせていない弟は不安げに正面の小山を見上げた。そして、山を迂回するようにのびた道を見つめる。町と店を繋ぐ道はこの一本きり。道の片側は木々の鬱蒼と茂った山肌、もう片側は荒い急斜面になっていて、一度滑り落ちたら上ってくるのに苦労すること必須だ。土が水を吸ったこの状態では崩れてしまう危険性もある。


「姉さん、先に帰ってて。俺はちょっと様子見てくる」


「止んでからじゃダメなの?」


「大丈夫、すぐそこの曲がり角までだから」


「……わかった、崖崩れに気をつけてね」


 まだまだ元気なアルタイルは雨を気にすることもなく、雨水を跳ね上げながら山べりの道を下った。対するベガは雨で濡れた髪と服を気にしつつ、水溜りを避けてゆっくり歩く。ここで転ぶだなんて冗談ではない。濡れているだけならまだしも泥だらけの服なんて、誰が洗濯をすると思っているのだ。


 そんなことを考えていたベガは、だから異常な事態に気付くのに遅れた。普段ならすぐに耳に付くはずの子供の甲高い声が、雨音で消されていたせいもある。アルタイルを気にしていたせいもあるかもしれない。店に帰って来れたことに安堵して、ゆったりと鍵を開けていたせいもあるだろう。ともかく、ベガは子供が自分の店の裏から突然飛び出し、そして自分の足元に転がり込むまで全く気付かなかったのだ。この天気で、そして小山のこちら側唯一の住人であるベガたち姉弟すらいなかったこの人気のない場所に、まだ子供が残っていたという事態に。


「あなた、朝の」


 驚いたベガは、だから転がり出た子供にそんな間抜けな反応しか返せなかった。確かにその子供の顔には見覚えがあった。朝にベガが窓をぶつけて治療した、あの子供だ。


 しかし、今注意すべきはそれではなかった。子供はベガの服の裾を引っ張って叫んだ。叫び続けた。助けて。助けて。助けて。今度のベガは首を傾げてただ聞き返すなんて間抜けな反応を返しはしなかった。そんな失態を演じられない緊迫感を肌で感じ取ったからだ。脳が勢い良く回転し始め、そして思い出した。朝に会ったとき、この子供が話していたこと。




「みんなと待ち合わせしてるんだよ。ハレーが『雨が明けたら小山の向こうのヘンなお店で集合』って」


 子供――いや、子供たち。この人気のない場所に、この土砂降りの天気の中。




 ベガは子供の肩を強く掴み、目線を合わせて一言一言区切るように尋ねた。


「落ち着いて、話しなさい。誰が、どこで、どうしたの?」


「ハレーがっ!」


 子供は悲鳴混じりに一言叫んだ。錯乱状態に入っているのかもしれない。ベガは肩を掴む力を強め、さらに深く目を覗き込んだ。


「ちゃんと話しなさい。あなたが話してくれないと、私は何も助けてあげられないの」


「ハレーが、ハレーが!」


 子供の顔は泣き出しそうなくらい歪んでいた。それでも、子供は泣き出さなかった。落ちそうなほどの涙を瞳に溜めながらも、それを零すことなく子供は叫びきった。


「ハレーが、そこの川で、一人で、中州にっ!」


 何もかもが終わったならば、このとき泣かなかったことを褒めてやろう、とベガは子供を店の中に押し込みながらそう思った。一瞬のことだと自覚もできた。次の瞬間には身を翻していたからだ。


「あなたは中で待ってなさい!」


 叫んだことを子供が聞いたかは確認できなかった。店の扉が大きな音を立てて閉まる。


 川水の流れる轟音は、店を挟んでもよく聞こえていた。




 この店の周囲は危険が多い。子供が探検しそうな小山、興味を持ちそうな森、そして水遊びを始めそうな川。


 普段ならベガもあまり気にしない。小山は町人もよく登る。あまり高い山ではないし、危険な動物もそうはいない。森の入り口にはトラップを仕掛けてある。子供くらいならまず間違いなく防げる。川はベガたちの生活にも密着している。炊事用にも洗濯用にも、そして他にも色々、とにかくこの川がないとやっていけない。ベガもアルタイルも、普段ならあまり気にしない。こんな天気でさえなかったら。雨が降り始めた時点で思い出しておけば、なんて後悔が一瞬頭をよぎったけれど、無理矢理に振り払った。後悔なんてあとですればいい、今は邪魔だ。


 果たして、川の中州にはただ一人取り残された子供が泣き叫んでいた。他の子供たちが全員川のこちら岸にいるのはせめてもの救いだった。――いや、安堵するには早すぎる。


 パニックに陥りかけている子供たちの背中から、ベガは鋭く声をかけた。間違ってもそれ以上、川に近付いてくれるな。


「落ち着いて、川から離れて。もっと後ろ、下がってなさい!」


 膠着状態の子供たちを力づくで川べりから引き剥がし、ベガはハレーに呼びかけた。笑顔も見せた。ちょっと歪んだ笑顔だったかもしれないし、声も震えていたかもしれない。それでもやらないよりはマシだと思った。


 轟々と音を立てて流れ行く水の勢いは、もうベガが泳げる速さではない。アルタイルでも無理だろう。雨脚はまた強くなった。中州が呑み込まれるのも時間の問題かもしれない。


「ハレー、あなたハレーね?」


 子供は泣き喚いていた。助けて、助けて怖いよ、お母さんごめんなさい、もう雨の日は川で遊ばないからお父さん助けて、お母さんお父さんお母さん――!


 あとはその繰り返しだった。両手が耳を塞ぎたくなるのを膝の上で握り締めて、ベガは精一杯の笑顔を維持した。さらに大きな声を上げた。耳に届いて。お願い。


「こっち向いて、お願いハレーっ!」


 何度か目に呼びかけたとき、声が少し裏返った。むせ返りそうになり慌てて言葉を切ると、ハレーが小さく、だが確かに反応を返してくれるのが見えた。お母さん、どこ?


「ハレー、聞こえてる? ねえハレー?」


 しゃくり上げて言葉にならない悲鳴を零す子供と、しっかり目が合った。続いて、首が勢い良く縦に振られた。一度大きく息を吸い、ベガは努めて柔らかい声をかける。


「よかった。ハレー、そんなに川に寄らないで、もっと真ん中に立って。立っていたくないならしゃがんでもいい。水から離れて。そう、いい子ね」


 安心させるように微笑みながら、ベガの頭は高速で回転していた。


 この子を、どうやって助け出せばいい?


 船。却下だ。今の状態で出せば、助け出す前に船ごと流されて終わりだ。いっぱしの腕を持つなら別かもしれないが、ベガにも、そしてアルタイルにも、そんな腕はなかった。ならやはり泳いで渡る――論外だ。ハレーを助ける前に自分が死ぬ。


 空を飛べたらいいのに、とベガは思った。鳥のように大空を自由に飛びたい、なんて贅沢は言わない。今だけでいい、この子を助けるための羽が欲しい。でも人間は飛べない。ベガはザフィエルやマルティエルのような天使ではない。


 すると、もう橋しか選択肢は残っていなかった。でもこの近くに橋は渡していない。さほど幅の広い川でもないし、こんなに荒れてさえなければ浅瀬を歩いて渡れるからだ。石伝いなら濡れることもない。子供たちも天気のいい朝のうちにそうやって渡ったのだろう。ついさっきまでいた森の中になら橋もかかっている場所もあるのだが、もう森に戻れる状態ではない。


 参ったな。


 ベガは表情筋に力を入れた。客に見せるようなスマイルではなく、子供たちに不安感を与えないための笑顔だ。


 普段なら簡単なことだった。ベガたちはちょっと特殊な織物屋を営んでいるのだから。橋なんて簡単に織れる。需要が高くて普段から頻繁に織っているから、すぐにでも織り上げられる。材料さえあれば。


 なんで今は雨季が明けてすぐなんだろう、と考えても無駄なことをベガは思ってしまった。今年の長雨は酷かった。あちこちの町で川が氾濫するとサキミが占い、作り置いていた『橋』はすべて売り切れた。サキミが占わなかった町からも注文が殺到した。大急ぎで織り上げ、材料のストックも消えた。今でなかったら、今この時期でさえなかったら、橋なんてすぐに架けられるのに。


「姉さん、これ何の騒ぎ? 店で子供が泣いてて」


 何も知らずにひょっこり顔を出した弟が、状況を一目見て口を閉ざした。一拍後、表情を変えて駆け寄ってくる。ベガの横に並んで、アルタイルがしたのは目視で距離を測ることだった。


「三、いや四ステップ……くそ、届かない。『橋』は」


「だめ、もうひとつも残ってないの。この間、隣町に使ったのが最後」


「向こう岸に行けないんじゃロープも渡せないな。仕方ない、俺が泳いで渡るよ。ロープ取ってくるから、姉さんは子供たちをお願い」


 ベガは顔色を変えた。だって、この川の流れだ。荒れ狂っている。身近で見たらそのすごさがわかる、こんなの人間に耐えられるはずがない。ロープとは何だ。命綱か。自分に結んで、それだけの装備で川を渡るつもりか。


「やめて、アルお願いやめて!」 


 嫌だ。弟を失うのは嫌だ。生意気だろうが腹が立とうが、それでも嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ!


「じゃあ他に何の方法があるって言うんだよ。俺は大丈夫だから、手を放して。つかまれると動けない。――そうだ、言い忘れてたけど」


 弟は他の子供たちに聞こえないように、ベガの耳に唇を寄せて囁いた。


「崖崩れで道が埋まってた。町から助けは呼べない」


 頭を殴られた気がした。本当に、他に選択肢はないのだ。力が抜けた。足がくず折れて、腰が抜けて、ついにアルタイルの服の裾を掴んだ指の力までもが抜けそうになったその時――閃いた。


 天使だ。


 ベガは確かに鳥のように、天使のように空を飛べない。でもその代わりに天使は素敵な贈り物をくれたではないか。


 一気に力が戻り、足腰を立て直してベガは叫んだ。


「アル、『月の船』はどこ!?」




 昔々、どこかの国に織姫というお姫様がいたそうだ。織姫は機織りの名人で、毎日毎日機織りをして働いていた。このままでは婚期を逃すのでは、と心配した父帝は働き者の牛飼いの青年・彦星と織姫を引き合わせた。二人はめでたく夫婦となったが、夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、彦星は牛を追わなくなった。


 怒った父帝は二人を天の川のこちら側とあちら側に引き離してしまったが、二人は年に一度の七夕の夜にだけ会えることを許され、織姫は月の船に乗って川を渡ることができた。


 しかし、その七夕の夜に雨が降ると、天の川の水かさが増えて、織姫は川を渡れず、彦星も織姫に会えない。その時は、二人を哀れみ、どこからか無数のカササギが現れて、天の川に自分の体で橋を架けてくれるという――。




 丈夫な橋である必要はない。一夜限りの橋でいい。ただ一度、子供が渡れさえすればいいのだ。


 『天の橋』の材料は『月の船』と『カササギの羽根』。先導役の『月の船』と橋を架ける『カササギ』の息の合ったコンビネーションが大切だ。


 高速で糸車を回すアルタイルの目は真剣そのものだった。有形のものを糸状により直してしまうこの技術は弟にしかできない。カラカラカラと車が回り、プツリと糸が切れたらベガの出番だ。


 ギッコンバッタン、というのが機織りを象徴する擬音だろう。まさにその音の通り、ベガは弟の紡ぎ上げた二種類の糸を複雑に、丁寧に織り上げていく。波を切り突き進む姿を思い描く。空を飛ぶ優美な姿を思い描く。渡し守を思い描く。羽ばたきを思い描く。航跡。羽音。知識と想像力を駆使して思い描いたものを全部、織り込む。端から少しずつ少しずつ形が見えてくる――月の船をくっつけたカササギの橋が形を現し始める。白く輝く、しなやかな羽根の橋。これはベガにしか作り出せない。


 ベガもアルタイルも、どちらか一人でも欠けたらこの店は成り立たなくなる。




 『天の橋』が完成したのはそのすぐ後のことだった。


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