裏の森で
「『雲の綿毛』って今の季節だとまだ東の方だっけ?」
「そろそろ南に流れるかも……南東を目指すのが無難かしら。『天使の涙』は手に入りそう?」
「大丈夫」
町から店に通じる途中の小山は町の人たちもよく入るが、裏の森は人の踏み入ることのできない未開の土地だ。町の住民でここに入れるのはベガとアルタイルの姉弟二人だけ。一般人が足を踏み入れようものなら、二度と帰って来れなくなる。ここは違う所に通じているから。だから、ベガは材料集めにハンターを雇わない。姉弟二人で材料を集め、ついでに巡回をする。要所要所に仕掛けたトラップを踏み越えた誰かが、迷い込んでいないか。
今日の目的は『雨雲』の材料集め。つまりは『雲の綿毛』と『天使の涙』。『綿毛』から雲ができ、『涙』から雨が生成される。作り方は簡単。それぞれをほどいてアルタイルが糸に紡ぎあげた材料を、ベガが合わせて織るだけだ。
「泣き虫ザフィエル、ぶたれて泣いた、ベソかきマルティエル、転んで泣いた」
「なぁに、その唄」
緑に囲まれた森はキラキラと光っていた。通りぎわに手で梢を揺らすと、葉から雫が落ちて跳ねる。枝葉はしっとりと濡れていて、落ちずに残った水滴が光を受けて輝いている。雨が上がったばかりの森は、どこか涼しげな空気を持っていた。道はぬかるんで歩きづらいが、この清々しさを全身に受ければ苦にもならない。鳥の鳴き声も、天使の羽ばたく音も、精霊たちが水浴びする音も、心なしかいつもよりはしゃいでいる気がする。
「こないだ教えてもらった。泣き虫がいいか、ベソっかきがいいか、迷ったら歌えって。これを聞いたらどっちも泣くから」
「どっちかを選ばなくてもいいってこと? ほどほどにしなさいよ。天使をいじめると後が怖いんだから。で、どっちから『涙』を貰うの?」
「言ってるだろ。両方だって」
弟が気楽に指差した先に、小さな天使が二人蹲っていた。木々のない、開けた広場の真ん中だった。遠くて聞こえづらいが、確かに泣き声がする。これはザフィエルの声だ。聞こえないが、マルティエルも泣いているに違いない。
「やだ、もう泉できちゃってるじゃない!」
ベガは慌てて走り寄った。後ろをのんびりついてくるアルタイルの余裕が気に食わない。『涙』を少し貰うくらいならまだしも、天使をいじめすぎると後が怖い。
天使が座りこんでいる足元には『涙の泉』ができていた。アルタイルが歌ったのはわずかに数秒前。その短時間でこれだけ泣いたということだ。泣き声を上げてポロポロ大粒の涙をこぼす天使と、すすり上げながら滝のような涙を流す天使。さすがは『にわか雨の天使』と『雨の天使』。人間なら脱水症状が心配になるところ。泉の『涙』を汲むのは後回しにして、二人は天使たちをあやしにかかった。
「ごめんねごめんね、お願い泣き止んでっ」
「ええと、んな泣くなって。ほら、これやるから」
要領のいいアルタイルは、倉庫から引っ張り出してきた二隻の『おもちゃの船』を二人に手渡した。天使たちの目が丸くなり、こぼれる雫はピタリと止まった。
三日月型のシンプルな木船。店棚に並べるような商品ではなく、年端もいかないかつてのベガが手慰みに織り上げた作品だ。しばらくは幼いアルタイルのお気に入りだったが、今では倉庫に封印されて久しい。『涙』を貰うために、わざと泣かせた天使たちを泣き止ませるためのエサとして持って来たらしい。アルタイルの心中がこんなにも簡単に推し量れてしまう自分にベガはうんざりした。昔のものとはいえ、姉の作品を何だと思っているのかこの弟は。
そう、昔のものなのだ。
ベガは天使たちの手に渡ったみすぼらしい船を見て嘆息した。幼いころに織り上げたものだから、技術の稚拙さが見えてしまう。天使たちは喜んで泣き止んだが、たとえ天使が許そうと弟が許そうと、これでは自分が許せない。周囲を見回してみると、一輪だけ花が咲いているのを見つけた。長雨に耐え抜いてピンと背筋を伸ばしている赤い花だ。もう一輪あればと思ったが、どうも近くにはなさそうなので、ベガはこの一輪だけで妥協することにした。今度はもっと上等なものをお土産にしよう。
「ザフィエル、マルティエル、一隻だけでいいから、ちょっと貸してくれない?」
繊細な涙腺を刺激しないように優しく問いかけると、機嫌の良くなった二人は素直に船を差し出してくれた。その船の帆先に、心の中で詫びて摘み取った赤い花を結びつける。これで貧相な船も少しは可愛らしく見えるはず。
案の定二人は歓声を上げ、花の飾られた船を持ち上げて踊りまわった。泉の周りで互いに追いかけあい、転げまわり、もつれあって泉に飛び込む。赤い花の咲いた船と貧相な船が二人の起こした波に耐えてぷかぷかと浮いた。顔を見合わせ、天使たちはにこーっと満面の笑みを浮かべる。
楽しんでいるところに水を差す申し訳なさを感じつつ、ベガは二人の横にしゃがんで声を掛けた。
「ね、『涙』汲ませてもらっていいかな。私たちそろそろ行かなきゃなの」
笑顔満開な二人はちょっとだけ動きを止めたあと、そろって手で貧相な方の船を泉に沈めた。船を沈めるなんてそんな縁起の悪い、やっぱり花をもう一輪探すべきだったかと笑顔のまま固まってしまったベガに代わり、アルタイルが天使たちの手元を覗き込んだ。泉に沈められた船が徐々に白く輝きだし、銀色の文様が浮かび上がってくる。
「へえ、『月の船』か」
感心したようなアルタイルの声で我に返り、ベガは船を凝視した後、瞳を瞬かせて空を振り仰いだ。雲が切れて、晴れ渡った空。その片隅に白い月が浮いている。真昼の月だ。そういえば、とベガは今更ながらに思い出した。ここは月の広場だった。名前の付いている存在は強い。この場所が『月』と名づけられたなら、そこは太陽よりも星よりも、月の力を受けるのだ。
「あげる!」
「あげる!」
「『月の船』!」
「『月の船』!」
仲の良いハーモニーは比喩でなく心に響く。人の胸を打つ天上の歌声だ。二隻ともあげたのだけれど、と少しだけ戸惑いながら差し出された『月の船』を受け取ると、天使たちは残った赤い花の船で仲良く遊び始めた。ケンカの気配など欠片もなく、一隻だけで充分に楽しそうな様子だった。ベガはアルタイルと顔を見合わせて微笑んだ。
忘れずに『天使の涙』を汲んで天使たちと別れ、森の南東を目指す。『雲の綿毛』はあまり珍しいものではない。方角さえ間違えなければ簡単に手に入る。いいものをもらった、と上機嫌に道を進むベガとは対照的に、アルタイルはためつすがめつして首をかしげていた。
「『月の船』ってどこかで聞いたことあるんだよなー。どこだっけ」
「まだ気にしてるの? 足元見ないと転ぶよ」
「平気、姉さんじゃないから」
ベガはムッとして唇を引き結んだ。普段はいい加減なくせに、興味のあることにだけ見せる驚異の集中力と執着心。これでどうして足元が疎かにならないのかが不思議でならない。同じことをベガがやったら、数秒後には谷の傾斜を転げ落ちているに違いない。心当たりが多すぎて、否定できないことが口惜しい。
「アルの馬鹿っ! もう『渡り風』だって近いんだからね!」
「あ、もう渡り鳥見つけたんだ? 姉さんがよく見つけたな」
「失礼ね! 羽根が落ちてたの、ほら。近くにいる証拠じゃない」
ベガは自信満々に地面から一枚の羽根を拾い上げて見せた。
渡り鳥を見つけたなら、近くに『渡り風』が吹いているということだ。『渡り風』が見つかれば、『雲の綿毛』もそこにある。『雲の綿毛』は『渡り風』に流されて、己の芽吹くべき場所を探しているからだ。ひとつの季節で見つけるものもあれば、まるまる一年かけるものもある。そして、風から降りた綿毛の数だけ、またどこからか新しい綿毛が風に乗る。だから『雲の綿毛』はいつも大きな群れになって地表近くを流れている。『雲の綿毛』は見つけやすいし、取りやすい。
渡り鳥さえ見つけられたなら。
「姉さん、それさ……」
弟は大袈裟なくらい肩を落として溜息をついた。
「渡り鳥の羽根じゃない。カササギっていう溜鳥の羽根。溜鳥ってわかる? 一年中いる鳥のことだから」
ベガの頬がカッと朱に染まった。溜鳥という言葉は知っている。家の書庫で読んだ本に載っていた。つまり弟と全く同じ知識源だということになるのだが、得意不得意はある。ベガは動物の生態にあまり詳しくない。その点アルタイルは動物や機械に強く、一見正反対の両分野を簡単に修めてしまった。各地の言い伝えや文化や歴史ならベガだって負けないのだが。
「そ、そうなの?」
「そうなの」
ベガはわたわたと羽根を腰の布袋に隠した。顔がひどく熱い。見なくてもわかる、今のベガの顔は真っ赤に火を噴いているはずだ。
さすがに憐れに思ったらしいアルタイルが、姉の肩を軽く叩いた。
「まあ、あんまり気にするなって。あ、ほら渡り鳥発見。姉さんの勘もあながち間違ってたわけじゃなかったってことだな」
あまり上手いフォローの言葉ではなかったが、アルタイルには精一杯の慰めだった。
憎らしいことに、この弟は生意気だが、性根は腐っていなかった。おかげで罵ることもできやしない。
ベガは空を優雅に飛ぶ渡り鳥の群れをきつくにらみつけた。こうなったら。
「『雲の綿毛』は私が見つけてやるんだから!」
「……うん、頑張って」
弟が遠い目をしたのにも気付かずに突き進んだ結果、数分後のベガは『雲の綿毛』の群れに顔から突っ込んでしまっていた。綿毛は一度くっつくとなかなか取れない。
こうなると思った、とアルタイルは麻袋を振り回して『雲の綿毛』を捕らえつつ、ひとりごちた。たまたま横手に流れていた川で顔や髪を洗うベガにもその声は届き、当然の如くどういう意味よ、と反論する。
「どういうことも何も……姉さんさ、暴走するといつもろくなことにならないよな」
「わかってる、自覚はあるのっ。ほっといて!」
「放っておいたら迷惑こうむるのは俺だから。そこんとこわかってる?」
「わかってるわよ、ごめんなさい、これでいいんでしょ!」
「まーた機嫌悪いし。あーあ、昔の姉さんはもっと優しかったのに」
ベガはピタリと口をつぐんだ。思い当たる節はある、かもしれない。弟が何か悪いことをしたのかと言うと、そうではない。ベガが一人で勝手に不満に思っていただけだ。態度に出したつもりはないが、そこは家族だ。それも、ずっと一緒に過ごしてきた仲の良い姉弟だ。一瞬の表情や言葉の端々から伝わってしまうくらい。
ベガは水面に映る自分の姿を見つめた。目元は二人ともそっくりだ。鼻や口の形はちょっと違う。肌の色は、弟の方が健康的だ。髪質はほとんど変わらない。アルタイルが髪を伸ばせば、今のベガと寸分変わらない髪型になることは間違いないだろう。体格は――弟の方がずっといい。ベガは町の女の子と比べても小柄だが、アルタイルは農作業で鍛えている青年たちに負けない。昔はどこからどう見ても『お姉ちゃん』と『弟くん』だったのに、今では『お兄さん』と『妹さん』だ。
「姉さん? どうした? ごめん、俺言い過ぎた?」
急に黙りこくったベガを心配したのだろうアルタイルが、麻袋の口を紐で縛りながら寄って来る。いい弟なのだ。それはわかっている。
「別に、何も……」
ベガが口を開くことを億劫に思ったその時、見つめていた水面の自分の像が揺らいだ。
それまでの思案事も一時忘れ、二人そろって思わず空を見上げた。渡り鳥を見つけたときとは比べようもない暗さ。日が落ちたせいではない。
ポツリポツリと雫が顔にも落ちてきて、ベガは手のひらを目の上にかざした。
雨が降り始めてきた。




