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婚約破棄されたので、聖杖職人に戻ることにした  作者: 九葉(くずは)


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第10話 私が選ぶ工房

 三日のうちに、村は落ち着かなくなった。


 婆さんが鍬を担いだまま工房の前をうろうろする。ガレンは用もないのに薪を運んでくる。子どもたちが窓から覗いて、目が合うと逃げる。


 四日目、とうとうガレンが切り出した。


「嬢ちゃん。……行くのか」


 土間に十人ほど集まっていた。全員が同じ顔をしていた。


「王家の言うことだ。断れんのだろう」


「うちの鍬、まだ二本残っとるんだが」婆さんが小さく言った。


 私は帳面を閉じた。



  *



 同じ週に、あと二組来た。


 グレイシア伯爵家からは、母が来た。あの朝、私が荷馬車に乗るまで、とうとう顔を見せなかった人だ。馬車から降りるなり私の手を取って、あなたの才能を信じていたと言った。目に涙まで浮かべていた。器用な人だと思った。


 宮廷魔術師団からは、あの埃だらけの男が来た。彼だけは違った。工房に入るなり床に膝をつきかけて、私が慌てて止めた。


「王宮に、あなたの工房を建てます。予算は上限なし。人手も、材も、望むだけ」


「上限なし」


「調律を継げる者を、育てていただきたい。——今度は、席を空けたままにしません」


 彼の目の下の隈は、前より濃くなっていた。この人は、七年ぶんの穴を一人で埋めようとして、たぶん倒れる寸前だ。前世の私に、少し似ている。



  *



 私は、全員に同じ返事をした。


「王家の杖は、お受けします」


 伯爵家の母が顔を輝かせ、村人が息を呑み、魔術師が身を乗り出した。


「——ただし、この工房で、私の納期で、私の値段で」


「……は?」


「王都には行きません。爵位も要りません。杖は辺境から届けます。年二回の調律は、こちらから出向きます。日程は木の乾き方で決めますので、前もって申し上げます」


「お嬢様!」母が声を上げた。「王家のご命令ですよ!」


「命じられているのは帰還と復籍です。仕事ではありません」


 私は書状を指した。


「仕事なら、依頼書と前金でどうぞ。私は職人ですので」


 母は絶句した。魔術師は、しばらく私を見つめてから、深く頭を下げた。


「……承知しました。依頼書を、書きます」


 彼は本当に、その場で紙を出した。私は椅子を勧めた。


 村人たちが、土間の隅で泣きそうな顔をしていた。婆さんが「鍬」と呟いていた。あとで受けます、と私は言った。



  *



 全員が帰ったあと、工房には木くずと夕日が残った。


 シリルが、木箱に座っていた。ずっとそこにいた。一言も口を挟まなかった。


「怒られると思いました」


「なぜ」


「金貨百枚の依頼を、日没で追い返す女ですよ」


 彼は、笑った。


 初めて、はっきりと。目尻が下がって、口の端が上がって、頬に薄い皺が寄った。氷の辺境伯という通り名を作った村人全員に見せてやりたい顔だった。


 私は木槌を握ったまま、間抜けに口を開けていたと思う。



  *



 彼は立ち上がって、腰の杖を外した。


 飴色の、歪んだ、握りの小さな一本。


 差し出された。


「握りを、直してくれないか」


「……え」


「頼む」


「あれ、このままがいいって言いませんでした?」


「言った」


「言いましたよね」


「気が変わった」


 彼は、私の目を見た。逃げなかった。


「これから先も長く使う。だから、今の私の手に合わせてほしい」



  *



 私は、三秒かかった。


 一秒目で、握りの寸法を頭の中で測った。二秒目で、通り道の絞りを保ったまま柄だけ太らせる手順を組み立てた。


 三秒目で、意味に気づいた。


 これから先も、長く。


 彼の手に、合わせる。


 木槌が、足の上に落ちた。痛かった。痛いのに、声が出なかった。顔が熱い。耳まで熱い。たぶん今、私は工房でいちばん赤い。


「リリアーナ」


「まっ、待って、いま、計算が」


「返事は」


「——謹んで、お受けします」


 私は言った。職人の言い方しか、出てこなかった。


 シリルはまた笑って、落ちた木槌を拾い、私の手に握らせた。そのまま、少しだけ長く握っていた。


「納期は」


「三日ください」


「待つ」


 六年待った人が言うと、重みが違った。



  *



 半年後、辺境の工房に新しい看板が掛かった。


「ヴァレンティン工房 営業中 日没まで」


 看板は私が削った。字はシリルが彫った。無言で三日かけて、ひどく上手かった。器用な人だと知ったのは、結婚してからだ。


 工房は相変わらず一日五件で閉まる。金貨百枚の依頼も日没で追い返す。王家の使者も、魔術師団も、村の婆さんも、同じ列に並ぶ。誰も文句を言わない。言った人が一人いたが、翌月には並んでいた。


 宮廷には弟子を三人送った。二人は根を上げて帰ってきて、一人は残った。あの埃だらけの男は、いまは隈が薄い。


 王都のその後は、行商人が月に一度、頼みもしないのに置いていく。私は塩と一緒に受け取って、たいてい聞き流す。


 私の測定値は、今も、ゼロだ。


 魔力は私の中に一滴も溜まらない。通り過ぎるだけ。国の定めた最底辺の欠陥は、一年経っても直っていない。


 直す気もない。



  *



 日が傾くと、作業場に橙が差す。


 木くずが光の中を漂って、ゆっくり落ちる。


 握りを直した杖は、彼の腰にある。あれ以来、一度も暴発していない。歪んだ通り道はそのままだ。八歳の私が間違えた線を、私はもう一度なぞって、太さだけを今の彼に合わせた。


 間違いのままでいい、と言ってくれる人がいる。


 私は刃を置く。


 彼がランプの芯を絞る。


「今日はここまでだ」


「はい」


 ——今日はここまでだ、と誰かが言ってくれる。それだけのことが、私の人生でいちばん贅沢だった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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