第8話: 春の仕事
不安があっても、仕事は止まらなかった。
シアが「人間の匂いがする」と言ってから、ひと月ほどが過ぎていた。匂いはまだ遠いままで、近づいてくる様子もなかった。それでも、何かが動いているという感覚だけは、庭全体に薄く広がっていた気がした。
朝、水を汲みに行くたびに、ふと足が止まる。追手だろうか。それとも、団長が誰かをよこしたのだろうか。声だけを覚えている、あの日の記憶が浮かんでは消えた。もう七年前のことだ、と自分に言い聞かせて、また手を動かした。
春の庭には、やるべきことが山のようにあった。雪解けで増えた水を管理する。新しい芽を見て回る。冬で傷んだ場所を直す。考える時間より、手を動かす時間の方が多い季節だった。
朝の光は、まだ冬の名残を含んでいる。息を吐くと白くなる。それでも土の匂いは、確かに変わり始めていた。凍っていたものが緩んで、眠っていたものが動き出す匂いだ。この匂いを嗅ぎ分けられるようになるまで、何年かかっただろう。
七年前は、何もかもが手探りだった。今は、季節が来れば自然と体が動く。土を見れば何を植えるべきかわかる。空を見れば雨が来るかどうかわかる。七年分の経験が、判断を早くしていた。
小屋を出るとき、シアが水路の方からついてきた。
「今日は何するの」
「南の草地を見てくる。芽が出てるはずだから」
小屋から緩い坂を下って、水路をひとつ越えた先にある。東の境界からは半日以上離れていて、庭の中でも一番静かな場所だった。
「一緒に行く」
「いいけど、水路、離れて平気」
「平気。今日は、静か」
シアがそう言うのは珍しくなかった。七年前は、近づいてもこなかった存在が、今では普通に並んで歩く。その変化を、当たり前のように受け入れている自分に、時々驚く。
南の草地に向かう途中、エルに会った。
木々の合間で、輪郭がわずかに揺れている。姿というより、光の濃淡だった。風もないのに葉先だけが震え、その震え方だけがエルの気配を教えてくれる。七年見てきても、まだ慣れない見え方だった。
「今年も来たね」とエルが言った。
エルは木の精霊で、姿は見えにくいが、声は低く落ち着いている。エルが「今年も来た」と言うとき、それは春そのものを指しているのか、わたしのことを指しているのか、いつもはっきりしない。
「花が出始めてるって、シアが言ってました」
「もう少し早い。例年より」
「早いのは、何か理由があるんですか」
エルは、しばらく黙った。木々のざわめきが、一段静かになる。
「庭は、毎年少し違う顔をする。理由を全部知る必要はない」
「知る必要が、いつか出てきますか」
問いを重ねたのは、初めてだった。エルの気配が、わずかにこちらを向いた気がした。
「……出てくるかもしれない」
それだけ言って、エルの気配は遠ざかろうとした。
「エル」
呼び止めた。
「シアが、人間の匂いがすると言いました。エルも、何か感じますか」
エルの気配が、一瞬だけ止まった。息を止めていることに、自分でも遅れて気づいた。木々のざわめきが、さらに小さくなる。
「感じている」
短い答えだった。それ以上を聞こうとしたが、エルの気配はもう遠ざかっていた。「感じている」という五文字だけが、しばらく耳に残った。
「今日は、風が痛い気がします」
誰にともなく、そうつぶやいた。本当は、風のせいではなかった。エルが何かを隠しているとき、いつもこの短さになる。七年でわかってきた、エルの癖だった。答えをもらえることは少ないが、何かを考えるきっかけはもらえる。今日は、そのきっかけが、いつもより重かった。
エルの気配が完全に消える前に、もう一度だけ声をかけた。
「エル。庭は、守れますか」
答えは返ってこなかった。ただ、木々のざわめきが、少しだけ和らいだ気がした。それが肯定なのか、答えたくないという意思表示なのか、いつものように、わからないままだった。
草地に着くと、確かに新しい芽が出ていた。
日はまだ高く、光が斜めに草の上を滑っている。土は湿って黒く、踏むとかすかに沈む感触があった。小さな緑が、その土を割って顔を出している。七年見てきた中で、この時期の芽吹きが一番好きだった。何もない土から、確かに何かが生まれてくる。その瞬間に立ち会えることが、不思議と嬉しかった。
この草地は、庭の中でもとりわけ風の通り道になっている。東の境界から吹く風は、ここまで届く頃にはすっかり匂いを失う。だからこそ、余計なものを持ち込まれずに済む場所だった。少なくとも、これまではそうだった。
シアが、水路の方からついてきていた。
「リナ、今日も来た」
「うん」
「毎年、ここに来る」
頷いた。言葉より先に、体が動いていた。
「リナ、今日は静かだね」
「そう」
「うん。いつもより、静か」
シアは時々、わたしの様子をそうやって確認する。確認して、何が変わるわけでもない。ただ、確認すること自体が、シアにとって大事なことらしかった。七年で少しわかってきたことの一つだ。付き合うのは、シアを安心させたいからでもあり、自分がその確認に安心させられているからでもあった。
精霊たちは、変わらないことに価値を置く。人間が「成長」や「変化」を喜ぶのとは、少し違う感覚がある。同じことが同じように続くことを、シアたちは静かに喜んでいるように見えた。
草地に膝をついて、土の状態を確かめた。湿り気は十分にある。指先に、冷たさと柔らかさが同時に伝わった。芽の根元を覆っている土を、少しだけ押し戻した。根が深く張れるように、土の通り道を作ってやる。これも、七年で覚えた手順の一つだ。
「リナの手、土の匂いがする」
「いつもしてる」
「知ってる」
シアがそう言って、満足したように水路に戻っていった。意味のない確認のように見えて、シアにとってはきっと大事な儀式のようなものなのだろう。
仕事を終えて小屋に戻る頃、日が傾いていた。
東の端に、また足が向いた。七年前、あの日もこんな夕方の色をしていた。霧の向こうから抜け出した瞬間、後ろを振り返らなかったことだけを覚えている。今は、その同じ境界を、外から見ている。
目を凝らしても、霧の輪郭より先は見えない。音も、いつもと変わらない葉擦れだけだった。それでも、何かが違う気がした。空気の重さだろうか、匂いだろうか、うまく言葉にできない違和感だけが、胸の奥に居座っていた。
シアの言葉を疑ってはいないが、それがいつ近づいてくるのか、今日もわからなかった。エルも「感じている」と言った。一人の思い込みではない、ということだけは確かになった。
右手首の古傷に、指先が触れた。もう痛みはない。それでも、印を焼かれた瞬間の熱だけは、こんな夕方に限って記憶の底からよみがえる。誰かが来るとして、何を持ってくるつもりなのか。答えは、まだ出なかった。
わからないことを、わからないままにしておく——また、同じ言葉を思い出していた。七年前から、何度も自分に言い聞かせてきた言葉だ。エルがいつも言っていることの意味も、少しずつわかってきた気がした。だが今日は、その「わからないまま」が、いつもより重く感じられた。
道具を片付けながら、シアにもう一度聞いた。
「匂い、変わった?」
「まだ同じ。でも……前より、少し近い気がする」
初めて聞く答えだった。手が止まった。
「気のせいかもしれない。でも、そう感じる」
「そう」
それだけ答えて、また手を動かした。怖いか、と聞かれたら、たぶん怖いのだろう。ただ、その怖さに名前をつけて向き合うところまでは、まだたどり着けていなかった。今できることは、この不安を抱えたまま、今日を終えることだけだった。
湯呑みを持って外に出ると、春の夕方の冷たさが頬に触れた。庭は、今日も変わらず動いていた。芽が出て、水が流れて、シアが話しかけてくる。
その変わらない日常の向こうに、何かが近づいている。
東の空だけが、他よりわずかに赤かった。それが夕焼けのせいなのか、別の何かの前触れなのか、今のわたしにはまだわからなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第8話をお届けしました。第2アーク「七年の庭」の始まりです。
このアークでは、リナと精霊たちの関係をもう少し丁寧に描いていきます。エルとの会話の「答えをもらえることは少ないが、何かを考えるきっかけはもらえる」という距離感は、リナとエルの関係そのものです。
「人間の匂い」の不安は、まだ解決していません。でも日常は止まらない。そのバランスを書きたかった話でした。
次の話では、夏の精霊カルとの出会いを描きます。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
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