第7話: 人間の匂い
七年経った今の庭は、最初の年とは別の場所になっていた。
石と木の小屋は、もう何年も雨風に耐えている。薪の蓄えは常に切れ目がない。水汲みも、食べられる草の見分けも、もう考えずに体が動く。庭のどこに何があるか、目を閉じても歩ける。
今朝の粥には、霜に当たって甘くなった根菜を刻んで入れた。
「この時期の根菜は、甘くなる」
いつか、シアがそう教えてくれた。七年前は、何が食べられるかも知らなかった。今は、季節ごとに何を鍋に入れるべきか、体が勝手に選ぶ。
小屋の裏の柱には、季節が変わるたびに小さな刻みを入れている。春の芽吹き、夏の一番暑かった日、秋の紅葉が一番濃かった日、初霜の朝。七年分の刻みが、もう柱の半分近くを覆っていた。誰に見せるためのものでもない。ただ、自分がここでどれだけの時間を過ごしてきたか。目に見える形で残しておきたかった。
精霊は、もう数えきれないほどいる。シアのほかにも、何人かの精霊と言葉を交わすようになった。火を好む小さな精霊は、寒い朝ほどそばに寄ってくる。土の中で眠っている老いた精霊は、春が来るまでめったに姿を見せない。みんな、それぞれの距離感でわたしと付き合っている。
長老格のエルとは、特に多く話すようになった。エルは庭の全体を把握しているような存在で、わたしが知らない木の名前や、知らない季節の変化を教えてくれる。エルの言葉は、いつも少し遠回しで、全部を言わない。
去年の初雪の晩、焚き火の傍で、エルがそう言ったことがある。
「あなたは、守られている」
声は低く、木の幹がきしむような響きだった。
「何から」と聞いても、答えはなかった。エルはいつも、それ以上を語らない。教えるべきときが来たら教える、という態度だった。わたしも、それ以上を聞こうとはしなかった。今は知らなくていいことなのだろう、と思った。
庭には、時々、説明のつかないことがあった。夜中に庭全体がぼんやりと光っているように見えることがある。朝、その理由を確かめようとしても、いつも普通の朝に戻っていた。シアに聞いても「気のせいじゃない」と言うだけで、詳しくは教えてくれない。
七年の間に、そういう小さな不思議に慣れてしまった。理由がわからないことを、わからないままにしておく。それも、この庭で生きるための一つの技術だった。
その朝も、いつも通りだった。
窓辺で霜が枯れ葉を鳴らす音に目が覚めて、水を汲みに行って、シアと話す。今日は東の沢沿いに行く予定だった。最近、水量が増えている気がしていた。雪解けが早いのかもしれない。
桶を引き上げたとき、シアの様子がいつもと違うことに気づいた。
「シア。どうした」
「……変な匂いがする」
水面の上で、シアの輪郭が小さく揺れていた。七年、この光の揺れ方を見てきた。怖いときは細かく震える。怒っているときは尖る。今の揺れは、そのどちらでもなかった。もっと重く、もっと沈んだ揺れ方だった。シアがこんな風になるのは、初めてのことだった。
「変な匂い、というのは」
「人間の匂い」
その言葉に、手の中の桶が、少し重く感じた。
七年間、庭の外から人間の匂いがしたことは、一度もなかった。
最初の数年は、誰かが追ってくるかもしれないと思っていた。でも誰も来なかった。やがて、誰も来ないことが当たり前になった。庭は、人間の世界から完全に切り離された場所として、わたしの中で固まっていた。
「どっちの方向」
「東。沢の、もっと向こう」
東は、最初に庭に入ったときと同じ方角だった。あの霧の境界がある場所。七年前、自分が踏み越えた境界。
「どのくらい近い」
「まだ、遠い。でも、確かにいる」
シアの声は、小さかった。震えているようにも、抑えているようにも聞こえた。
わたしは桶を持ったまま、東の方角を見た。霧の向こうに何があるのか、見えるはずもなかった。でも、見ようとした。手のひらに、桶の縁の冷たさだけが残った。
「数は、わかる?」
「わからない。一人じゃないと思う」
桶を持つ手に、力が入った。七年間、この場所に誰も足を踏み入れなかった。それが当たり前だと思っていた。当たり前だったものが、当たり前でなくなる予感に、喉の奥が締めつけられた。
「リナ」
シアが、また呼んだ。
「どうする?」
「……わからない」
正直に答えた。逃げる場所はない。ここがわたしの庭だ。七年かけて築いた場所を、今さら捨てて逃げる気はなかった。でも、来るものが何なのかわからないまま、構える気もまだ起きなかった。
「とりあえず、今日の仕事をする」
「それでいいの?」
「それしか、できないから」
それだけ言って、桶を持ち上げた。手にはまだ、さっきの重さが残っていた。それでも、体は覚えている通りに動き出した。
その日の仕事は、いつも通りに進めた——つもりだった。
東の沢沿いを確認しているとき、水を汲む手が、一瞬止まった。沢の音の向こうに何か聞こえた気がして、振り返った。木々が風に揺れているだけだった。何もない。それでも、次に桶を持ち上げたとき、水を半分こぼした。
こぼれた水を見て、深く息を吐いた。大丈夫だ、と自分に言い聞かせた。今のところ、何も来てはいない。
薪を割る手にも、いつもより力が入りすぎた。一撃で割れるはずの薪が、二撃、三撃かかった。手のひらに、木の繊維が刺さって、小さな痛みが走った。それでようやく、自分がどれだけ気を張っているか気づいた。
昼前、水路の方からシアが顔を出した。
「まだ、大丈夫?」
「大丈夫」
短く答えると、シアは小さく頷くように光を揺らして、また水の中に戻っていった。何も聞かなくても、シアには伝わっているようだった。強がるところを見せまいとしても、七年一緒にいるシアには、たぶん見抜かれている。それでも、今は平気なふりを続けるしかなかった。
頭の片隅に、シアの言葉がずっと残っていた。人間の匂い。一人じゃない。
昼過ぎ、エルのところへ挨拶に行った。いつもと同じ道を、いつもと同じ速さで歩いた。庭の中央に立つ、一番古い大木。その幹に触れると、いつも微かに温かかった。
「エル」
木の陰から、低い声が返ってきた。
「今日も、変わりないか」
「シアが、人間の匂いがすると言いました」
エルの気配が、一瞬止まった。木の葉が、さわ、と鳴った。
「そう」
それだけだった。
「怖がらなくていい、とかは、言ってくれないんですか」
エルは答えなかった。ただ、風が少し強くなった気がした。答えをもらえないことには、慣れていた。それでも、今日は少しだけ、もう一言欲しかった。
結局、何も引き出せないまま、エルの気配は遠ざかった。
「あなたは、守られている」——去年の晩、エルがそう言った意味を、今日ほど考えたことはなかった。守られているなら、この匂いも、その守りの内側の出来事なのだろうか。それとも、守りの外から近づいてきているのだろうか。エルに聞いても、答えは返ってこないだろう。それだけは、わかっていた。
夕方、小屋に戻る前に、もう一度東の端に立った。
木々の向こうに、いつもと変わらない霧があった。何の気配もなかった。
でも、シアが嘘をつくはずがない。精霊は嘘を嫌う。シアが「人間の匂いがする」と言ったなら、それは本当のことだ。
七年間、忘れていたわけではなかった。都のことも、団長のことも、覚えている。追放を言い渡したときの、団長の顔は覚えていない。ただ、目を合わせなかったことだけは覚えている。声だけが低く、淡々と用件を告げるように響いた。でも、もう自分とは関係のないことだと、そう決めていた。
それが今、また近づいてくるかもしれない。
右手首の傷に、自然と手が伸びた。古い痕は、もう痛みを持たない。それでも指先で触れると、印を焼かれた瞬間の熱だけが、記憶の底からよみがえる気がした。
誰かが来るとして、何を持ってくるつもりなのか。七年前のあの日のように、何かを終わらせに来るのか。それとも、何かを始めに来るのか。
答えは、まだ出なかった。
しばらく、そこに立っていた。霧は動かない。風もほとんどなかった。それでも、動かないでいることが、今日はやけに落ち着かなかった。
「リナ」
振り返ると、シアが沢の水路づたいに、すぐ後ろまで来ていた。
「大丈夫」
同じ言葉を、また返した。シアは何も言わず、黙って隣に並んだ。
守るべきものは、増えた。七年前は、自分の命ひとつだった。今は、この庭も、シアも、名づけたものすべてが、守るべきものに数えられている。名前をつけたら、最後まで責任を持つ。それが、七年かけて自分の中に根づいた信念だった。誰が来ようと、その信念だけは変えるつもりはなかった。
夕暮れの風が、東から吹いてきた。
かすかに、いつもとは違う匂いが混じっている気がした。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第7話をお届けしました。これで第1アーク「追放と漂着」が完結です。
ここまで七話、リナの七年間を追ってきました。追放、旅、最初の夜、生存の積み重ね、シアとの出会い。そして今、七年後の現在に「人間の匂い」という不穏な要素が入ってきます。
エルの「あなたは、守られている」という言葉は、この物語全体を貫く謎の一部です。何から守られているのか、誰が守っているのか。それは、まだリナ自身も知りません。
次のアークからは、来訪者たちとの接触が本格的に始まります。リナの七年間の静かな生活が、どう変わっていくのか。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
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