第6話: シアの名前
水面の光は、しばらく黙っていた。
沢の岸には、まだ固い蕾をつけたままの枝が並んでいた。水は真冬よりわずかに緩んで、指先を刺すほどではなくなっていた。
わたしも何も言わなかった。人と言葉を交わすことに、体がもう慣れていなかった。何を言えばいいのか、わからなかった。沈黙が気まずいとは思わなかった。むしろ、慣れた感触だった。
「あなた、名前は」
光が、また聞いた。
「リナ」
答えると、光が少し揺れた。淡い水色の光は、朝の水面に反射する陽のように、細かく震えていた。
「わたしには、名前がない」
その言葉に、喉の奥がひとりでに疼いた。誰かのために何かをしようと思ったことは、この三年、一度もなかった。生き延びることだけで、頭も手もいっぱいだった。でも今、自分以外の誰かのために動きたい、という気持ちが、初めて湧いた。
「名前を、つけてもいい?」
聞くと、光は少しの間考えるように揺れて、それから答えた。
「いいよ」
答えを聞いた瞬間、喉が詰まった。誰かに何かを許された記憶は、この三年、一つもなかった。許す側にも、許される側にも、誰もいなかった。今、目の前の光が「いいよ」と言った。それだけのことで、目の奥が熱くなった。
都にいた頃は、何かをするのに許可なんて要らなかった。荷物を運べと言われれば運んだ。火を熾せと言われれば熾した。誰かの意志を確認する必要はなかった。だからこの「いいよ」という、たった三文字の同意が、これほど重く感じられることに、自分でも驚いていた。
水面の光は、急かす様子もなく、ただ揺れていた。
わたしは考えた。
水の中で揺れる光を見ながら、ずっと考えた。長い名前は思いつかなかった。立派な名前も、思いつかなかった。三年、誰かに名前をつけるなんてしたことがなかった。
孤児院にいた頃、自分の名前がどうやって決まったのか知らない。物心つく前から「リナ」と呼ばれていて、それが当然のことだと思っていた。誰かに名前をつける、という行為がどういうものか、今この瞬間まで考えたことがなかった。
ただ、光の揺れ方に耳を澄ませた。浅瀬の水が石を撫でるたび、「し……」と短く掠れて、そのあとに小さく空気が抜けるような音が続いた。その響きに似た音を探した。柔らかくて、短くて、何度も呼べる音。
「シア」
言ってみた。光が、その音を反射するように、少し強く揺れた。
「シア」
光が、繰り返した。気に入ったのか、確認しているのか、わからなかった。でも、何度かその名前を口にするうちに、光が少しずつ、はっきりして見えるようになった気がした。輪郭が濃くなった、というより、こちらに馴染んできた、という感じだった。子供くらいの大きさで、水面より少し上に浮かぶ光の粒が、淡い緑がかった金色に変わっていくのが見えた。
「シア。それが、わたしの名前」
声に、それまでなかった響きが混ざった。喜び、というのとは少し違う。確かさ、というのが近いかもしれない。
水面を見つめながら、わたしは自分の手のひらを見た。三年、薪を割り、石を積み、倒れかけた小屋を支え続けた手だった。その手で、今、名前という、形のないものを誰かに渡した。
不思議な感触だった。今までに作った薪の束や、積んだ石壁とは違う種類の手応えだった。残るものではない。触れられるものでもない。それでも、何かを確かに渡した、という感覚が手のひらに残った。
次の朝、水を汲みに沢へ行くと、シアの光はもう浮かんでいた。
「寒い」
シアが、ぽつりと言った。
「……水が」
「うん。寒い」
短いやり取りだった。それだけで、胸の奥が軽くなった。三年、誰かと言葉を交わす朝など、一度もなかった。
その日から、シアは少しずつ、いろいろなことを話しかけてくるようになった。意味がよくわからないことも多かった。それでも、伝えたいことがある、という気配だけは、毎回ちゃんと伝わった。
岸の蕾は、いつのまにか固さを失って、薄緑の葉先をのぞかせ始めていた。気づけば、水を汲む手も、真冬ほどには痺れなくなっていた。
ある朝、桶を沈めようとしたとき、シアが急に強く揺れた。
「土が動いてる」
どこ、と聞き返すより先に、足もとの草の陰で、何かがもぞりと動いた。屈んで覗くと、土に半分埋もれた小さな穴があって、丸まった獣が一匹、眠っていた。耳の先だけが土の外に出て、規則正しく震えている。小さな鼓動が、土の下でずっと続いていた。
「……冬眠、まだ終わってなかったみたい」
「うん。まだ寝てる」
シアは、それだけ言うと満足そうに光を弱めた。シアの言葉が当たっていたと確かめられたのは、これが初めてだった。
別の朝には、シアが「あの木、古い」と言った。見上げると、沢のそばの大木の幹に、深い割れ目が走っていた。
「倒れる?」
聞くと、シアは少し揺れて、「たぶん、まだ」とだけ答えた。
わたしはその日のうちに、木の根元の土を踏み固めた。理由はうまく言葉にできなかった。ただ、シアが気にかけていることを、放っておきたくなかった。
名前をつけたら、最後まで責任を持つ。それが、後から自分で決めた信念になった。木の根元に膝をついたとき、初めてその重さの形が、少しだけわかった気がした。誰かのために体を動かすことは、生き延びるためだけに動くこととは、まるで違う疲れ方をした。悪くない疲れだった。
シアは、時々わたしの体をじっと見ることがあった。
「それ、なに」
ある朝、右手首の傷を指して聞かれた。
「……古い傷です」
それ以上は言わなかった。都のこと、団長のこと、印を消された日のことは、まだ言葉にする形を持っていなかった。
「痛い?」
「もう、痛くない」
嘘ではなかった。傷はとうに塞がっている。ただ、痛みの種類が変わっただけで、消えたわけではないことは、言わなかった。シアは、それ以上は聞いてこなかった。
「リナは、何か欲しいものある?」
ある日、シアが聞いた。
答えに詰まった。長い間、欲しいものを考える習慣がなかった。生き延びるために必要なものだけを、毎日確認していた。
視線が、自然と水面から逸れた。答えられない自分を、シアに見られたくなかった。
「特にない」
声が、思ったより小さく出た。
「そう」
シアは、それだけで納得したようだった。急かさない、その間の取り方に、少し救われた。
手のひらを、無意識に握っていた。開くと、そこに何も残っていないことに、今更気づいた。
欲しいもの、という言葉は、もうしばらく使っていなかった種類の言葉だった。欲しいものを口にすれば、また誰かに「不要」だと判じられる隙が増える気がした。欲しがらなければ、失うものもない。ずっと、そうやって自分を軽くしてきた。
でも、シアはそれを咎めなかった。急かさず、責めず、ただ「そう」とだけ言って、光を揺らしていた。すぐには答えが出てこなくてもいい、と、その揺れ方が言っているようだった。
数日経って、シアが不意に「水、飲む?」と聞いてきた。欲しいものを尋ねるのとは違う、ただの申し出だった。
「……もらう」
答えると、光が心なしか弾んだように揺れた。欲しいと言えなくても、差し出されたものを受け取ることは、まだできるらしかった。
ある夕方、水を汲みながら「今日は疲れた」とこぼすと、シアは黙って光を大きくしたり小さくしたりした。慰めているつもりらしかった。
その仕草がおかしくて、頬の筋肉が、久しぶりに緩んだ。声には出さなかったけれど、口の端が少しだけ上がったのが、自分でもわかった。
誰にも見せたことのない顔だった。都にいた頃も、この三年も、誰かの前で頬が緩んだことなど一度もなかった。それが今、光ひとつの前で、あっさりと崩れた。
「明日も来る?」
水汲みを終えて帰ろうとしたわたしに、シアが聞いた。
「来る」
短く答えた。それだけの約束だった。でも、この三年、誰かと交わした約束など、一つもなかった。
沢を離れる背中に、シアの声が追いかけてきた。
「じゃあ、また明日」
振り返らずに、頷いた。表情までは見せられなかったけれど、口の中で「うん」と、確かに答えていた。
光の粒は水面の上でひとつ揺れて、それから静かに沈んでいった。夕暮れの色が、沢の水を橙色に染め始めていた。
振り返ると、岸の葉先はもう、ためらいなく開いていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第6話をお届けしました。
シアとの命名の場面は、この物語の中でいちばん大事にしたかった場面のひとつです。「名前を、つけてもいい?」という問いかけは、リナが三年間で初めて自発的に誰かのために何かをしようとした瞬間でした。名前という、生存には何の役にも立たないけれど、確かに意味のあるもの。
「リナは、何か欲しいものある?」というシアの問いに、リナが答えられず視線を逸らす場面は、書きながら少し切なくなりました。欲しいものを考える余裕すらなかった三年間。これから少しずつ、リナはそれを取り戻していきます。
夕方、シアの前でだけ頬が緩む場面も、今回こっそり書き足しました。誰にも見せない顔を、光ひとつが引き出してしまう。そういう小さな崩れが、これから増えていけばいいなと思います。
次の話では、いよいよ七年後の「現在」に戻ります。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
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