第5話: 三年分
一年目の冬、何度も死を覚悟した。
雪が深くて、薪が湿って、火が点かない夜があった。毛布も布も足りなくて、木の根元に体を押し付けて朝まで震えた。朝になって、まだ生きていることに、特別な感動はなかった。ただ、もう一日続いた、というだけだった。
春になって、土を掘れば食べられる根があることを知った。最初は何度も腹を壊した。どれが食べられるかなんてわからなかったから、少しずつ試して、痛い目に遭って、覚えた。苦い草と甘い草の違いも、実が熟す時期も、全部、痛みと一緒に覚えた。
二年目の夏、初めて魚を捕った。手だけで、何度も失敗して、ようやく一匹。焼いて食べた味は、忘れていない。指についた焦げの匂いも、よく覚えている。
石と木で小屋を建て始めたのも、二年目だった。最初の冬の寒さが、それだけ堪えたということだ。壁の組み方を、何度も崩しながら覚えた。崩れるたびに、また積んだ。
季節が一巡するごとに、できることが少しずつ増えた。火の点け方、罠の仕掛け方、雨を避ける場所の見つけ方。誰にも教わらず、全部、自分の手と体で覚えた。失敗の数だけ、何かが残った気がした。
二年目の終わり、初めて自分の影が長く伸びる夕方を、特に怖いと思わなくなった。一年目は、日が落ちるたびに何かに怯えていた。二年目には、その怯えが薄くなっていた。代わりに残ったのは、ただの静かな疲労だった。
体は、少しずつこの場所に馴染んでいった。
足の裏が地面の感触を覚え、手が薪の重さを覚え、鼻が季節の匂いを覚えた。最初の年は何もかもが知らないものだったのに、二年目、三年目と過ぎるうちに、知っているものが増えていった。
その分だけ、考えることが減った。
一年目は、毎日が判断の連続だった。この水は飲めるか。この音は危険か。この場所で眠れるか。三年目になると、その判断のほとんどが、考える前に体が答えを出すようになっていた。
誰とも話さない日々が、続いた。
最初の頃は、自分の声を出すことすら忘れかけた。何かを考えても、それを言葉にする必要がなかった。考えたことは、考えたまま、頭の中に置いておけばよかった。
それでも、たまに声を出した。薪を割るときの掛け声。痛いときの短い声。誰も聞いていないとわかっていても、声は出た。それが、自分がまだ人間の形をしている、という確認のようなものだった。
霧の奥の光は、いつもそこにあった。
近づいてはこない。でも消えない。一年が過ぎても、二年が過ぎても、その距離は変わらなかった。わたしも近づこうとはしなかった。声をかける言葉を、まだ持っていなかった。何を言えばいいのか、わからなかった。
ただ、光がそこにあることに、いつのまにか慣れていた。慣れる、というのは不思議な言葉だ。一年目には怖くもなく不思議だった光が、三年目には、当たり前の景色の一部になっていた。
光は一つだけではなかった。霧の奥に、いつも数えるとばらつきがあった。多いときは三つ、少ないときは一つ。増えたり減ったりする理由は、わからなかった。ただ、ゼロになることは一度もなかった。
冬は光が少なくなった。夏は増えた。季節と何か関係があるのだろう、と思った。理由を確かめる方法は持っていなかったが、観察することだけはできた。観察して、覚えて、次の季節を予測する。それが、三年間でいちばん身についた習慣だった。
三年目の春、沢で水を汲んでいるときだった。
「どうしてここにいるの」
声がした。子供のような声だった。
振り返ると、水面の上に薄い光があった。今までより近かった。輪郭がぼんやりとして、子供くらいの大きさをしていた。三年間、ずっと同じ距離を保っていた光が、初めて近づいてきていた。
わたしは答えなかった。誰かに話しかけられるということ自体、何年も忘れていた。声が出てこなかった。
「ねえ。どうしてここにいるの」
もう一度聞かれて、ようやく言葉が出た。
「……追い出されたので」
声が掠れていた。三年間、ほとんど誰とも話していなかった。自分の声の感触を、忘れていた気がした。喉の奥が、変な感じに震えた。
「なぜ帰らないの」
「帰る場所がないので」
光は少しの間、黙っていた。水面が揺れて、光の形も少し揺れた。
その沈黙の中で、わたしは三年ぶりに、何かと向き合っていた。
怖くはなかった。不思議とも、もう思わなかった。ただ、三年間で初めて、自分以外の何かが、自分に向かって何かを問いかけている、という事実だけがあった。それがどれほど久しぶりのことか、聞かれた瞬間まで気づかなかった。
水面の光は、まだそこにあった。逃げる様子もなく、急かす様子もなく、ただ、わたしの言葉を待っていた。
桶の中の水が、小さく波紋を立てた。風はなかった。何かが、確かにそこで動いていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第5話をお届けしました。
一年目から三年目までを圧縮して描きました。死を覚悟した冬、失敗しながら覚えた食べ方、初めての魚。書きながら、リナの七年間の重さを実感しました。
「声を出すことすら忘れかけた」という感覚は、孤独を書く上で大事にしたかった部分です。誰かと話す機会がなければ、人は本当に声を忘れていく。リナが沢の光に答えるまでの数秒間、自分でも息を止めて書いていました。
次の話では、ついにその光に名前をつけます。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
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