第4話: 最初の夜
水の音をたどると、沢に出た。
霧が薄い場所だった。水面に光が反射して、その周りだけ少し明るく見えた。膝をついて、両手で水をすくった。冷たかった。口に含むと、雪解け水の味がした。何度も飲んだ。腹に水が落ちる感触があった。久しぶりに、体が満たされる感じがした。
手のひらの冷たさが、肩まで伝わってくるようだった。三日間、ずっと渇いていた体が、ようやく水を取り込めたという感じがした。
顔を上げると、霧の向こうに木々の影が見えた。さっきまでの森とは違う木だった。太くて、古かった。樹皮の模様が、見たことのない形をしていた。渦を巻くような筋が、幹の表面を這っていた。
ここが、禁足地なのだと思った。
確信があったわけじゃない。ただ、そう感じた。空気の重さが違う。霧の質感が違う。木の古さが違う。それだけのことを積み重ねて、ここがそうなのだろう、と思った。
日が落ちる前に、休む場所を決めないといけない。
沢のそばの、大きな木の根元を選んだ。根が地面から盛り上がっていて、風よけになりそうだった。荷物を下ろして、周りを見た。ほかに人の手が入った形跡はない。当然だった。
枯れ枝を集めた。
手を動かしているうちに、頭の中が静かになった。枝を拾う。重さを確かめる。乾いているか確かめる。束にする。それだけのことを繰り返した。考えることが多すぎる夜には、こういう単純な作業が助けになる。七年後に知ったことだが、その夜のわたしはまだ知らなかった。ただ、手を動かしていれば気が紛れる、ということだけわかっていた。
火を熾せるかどうかわからなかった。火打ち石は持っていたが、湿った枝では火がつかない。乾いた枝を探すのに時間がかかった。手が冷たくなって、指先の感覚が鈍くなった。それでも探した。膝をついて落ち葉をかき分けて、下に隠れている乾いた枝を探した。
なぜ薪を集めているのか、自分でもよくわからなかった。
ここで死ぬかもしれない、と思っていた。老人の言葉が頭にあった。戻ってきた人はいない。それを聞いてここまで来たのは自分だ。死ぬ覚悟はしていたつもりだった。覚悟というより、特に何も期待していなかった、というのが近い。
都を出るときも、同じだった。あのときも、これから先のことに何も期待していなかった。ただ足が動いて、北に向かった。今もそうだ。手が薪を集めている。考えてそうしているのではない。
それでも、手は薪を集めていた。
死ぬ覚悟と、生きようとする手は、別のところにあるらしかった。
頭がどれだけ諦めていても、体は諦め方を知らないらしい。寒ければ暖を取ろうとする。喉が渇けば水を探す。それを止める方法を、わたしは知らなかった。
火打ち石を打つと、何度目かで火花が乾いた葉に落ちた。
小さな火が灯った。
両手で囲って、消えないように息を整えた。火が枝に移って、少しずつ大きくなった。暖かさが、顔と手に届いた。指先の感覚が戻ってくる感触があった。冷たさで固まっていた手が、火に近づけるたびに少しずつ柔らかくなった。
暗くなった森の中で、火の周りだけが明るかった。その明るさの中に座って、初めて自分の体を見た。靴ずれ、汚れた服、土まみれの手。三日間の道のりが、そのまま体に残っていた。
パンの最後の一切れを食べた。硬くなっていたけど、噛むと唾液で柔らかくなった。それを食べ終えると、もう何も残っていなかった。袋の中を確認した。硬貨が数枚と、空の革袋。それだけだった。
明日からどうするか、考えなかった。
考えても、答えがなかった。今夜を越えられるかどうかもわからない夜に、明日のことを考えるのは無駄だと思った。ただ、火を見ていた。火が揺れるたびに、影が木の幹の上で動いた。
夜が深くなると、森の音が変わった。
昼間は静かだった森が、夜になると別の音を出した。何かが遠くで動く音。葉が落ちる音。沢の水が石にぶつかる音。どれも怖くなかった。ただ、人の世界とは違う音だった。
霧の奥で、光が動いた。
火を見ていた目を上げると、木々の間に小さな光があった。蛍のようだったが、蛍ではないと思った。動き方が違う。風に流されるのではなく、自分で動いていた。光は一つ、二つ、それから三つに増えた。
声をかけてみようと思ったが、何を言えばいいかわからなかった。
光は近づいてこなかった。火の周りまで来ようとはしなかった。でも消えもしなかった。ただ、そこにいた。
怖くはなかった。
なぜ怖くないのか、わからなかった。知らないものを見ているのに、怖くなかった。むしろ、見られている、という感じがした。それも嫌な感じではなかった。観察されているというより、確認されているような感じだった。
じっと光を見ていると、光の方も、じっとこちらを見ているように感じた。にらみ合っているわけではなかった。ただ、互いに様子を窺っている、という距離感だった。
パーティにいた頃、こんな距離感の相手はいなかった。仲間といっても、近すぎず遠すぎず、それぞれが自分の役割だけをこなしていた。誰かに見られている、と感じることもなかった。見られていないのと同じくらい、見てもいなかった。
今、この光に見られている感じは、それとは違った。役割もない。名前もない。ただ、見ている、見られている、という事実だけがあった。
火が小さくなってきた。
薪を足した。火が少し強くなって、また小さくなっていく。その繰り返しを何度かした後、眠気が来た。
寝ないほうがいい、と思ったが、体がもう限界だった。三日間歩いた疲労が、ここでまとめて来た。木の根に背をつけて、膝を抱えた。火が見える位置のまま、目を閉じた。
眠る前、もう一度、霧の奥の光を見た。
三つの光が、まだそこにあった。動かずに、ただ揺れていた。
わたしを見ているのか、それとも別の何かを見ているのか、わからなかった。でも、その光が消えなかったことが、なぜか少し安心できた。
一人じゃない、とは言えなかった。言葉も交わせない相手だった。それでも、何かがそこにいる、ということだけが確かだった。
目を閉じる前に、右手首に触れた。
印を消された跡が、まだそこにあった。指で押さえると、薄くなった皮膚の感触がある。都にいた頃のことが、もう遠く感じた。三日歩いただけなのに、ずいぶん長い距離を来たような気がした。
火が小さく爆ぜた。沢の水音が、途切れずに続いていた。霧の奥の光は、まだ揺れていた。
目を閉じた。
火の爆ぜる音と、沢の音と、それから、聞いたことのない静かな何かの気配の中で、わたしは眠った。
翌朝、目が覚めたとき、火は消えていた。霧の奥の光も、もう見えなかった。ただ、その場所に何もいなかったわけではない、という感じだけが、朝の空気の中に残っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第4話をお届けしました。
「死ぬ覚悟と、生きようとする手は、別のところにあるらしかった」という一文は、この話を書く前から決めていた台詞でした。頭で死を覚悟していても、手は勝手に薪を集める。そういう生き物としての強さを、リナに体現させたかった。
霧の奥の光、つまりこれが精霊との最初の接触になります。まだ言葉は交わせません。ただ「見られている」感覚だけがある。この距離感を七年かけて少しずつ縮めていく、というのが今アークの核です。
書いていて、「怖くないのに、なぜ怖くないのかわからない」という感覚を出すのが一番難しかったです。普通なら知らないものは怖い。でもリナにとっては、もう怖いものなんてあまり残っていなかったのかもしれません。
次の話では、一年目から三年目までの生存の積み重ねを圧縮して描きます。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
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