第3話: 霧の向こうへ
三日目の朝は、足が重かった。
靴の底が薄くて、石の感触がそのまま足の裏に伝わってくる。都を出てすぐに石畳は終わって、今は土の道だ。土でも硬いところは硬くて、踏むたびに足首に力がいる。両踵に靴ずれができていた。歩くと痛い。痛いけど歩いた。止まる理由がなかった。
北に向かっている。
一日目は都の外れを抜けた。畑が増えて、農家が散らばって、夕方には宿場に着いた。硬貨を一枚使って、藁の上で眠った。天井に穴があって、夜中に星が見えた。眠れたのかどうかわからない。ただ朝になっていた。
二日目は宿場から先に進んだ。道が細くなった。人とすれ違う数が減った。午後、農家の軒先に声をかけて、夜だけ納屋を借りた。馬の匂いがした。お礼に硬貨を置いた。断られたけど、置いてきた。
三日目の朝、農家を出ると、道はさらに細くなっていた。
踏み固められた土に草が交じり始め、進むにつれて草の割合が増えた。道というより、人が通った跡、という感じになった。でも北を向く方向はわかった。太陽が右から上がって、左に沈む。その間を北として歩いた。
食べ物が減っていた。硬貨はまだあったが、売っている場所がない。宿場を出る前に買ったパンと干し肉が残っていた。歩きながら少しずつ食べた。腹が減った、と思うより先に、体が自動的に動いていた。足が痛くて、腹の感覚が遠かった。
歩いている間、何も考えていなかった。
考えようとすると、何もなかった。都のことも、パーティのことも、考えたくなかった。ただ北を向いて歩いた。木を見た。草を見た。空の雲を見た。それだけだった。そういう歩き方が、意外と楽だった。
昼過ぎ、小さな集落が見えた。
十軒もないくらいの家が並んでいた。道に犬がいて、わたしを見て一度吠えた。老人が一人、家の前の木の切り株に座っていた。わたしが近づいても動かなかった。ただ見ていた。
「北に行くのか」
老人が言った。
「はい」
「禁足地に入るつもりか」
「はい」
老人は少しの間、黙った。犬がもう一度吠えた。老人が手を振ると、犬は家の陰に消えた。
「止めない。止めても無駄だろう。でも、戻ってきた人はいない」
「知ってます」
「それでも行くのか」
「行きます」
老人は何も言わなかった。わたしも何も言わなかった。少しの間そこに立っていた。老人の目がわたしを見ていた。哀れんでいるのか、諦めているのか、それとも何か別のことを思っているのか、わからなかった。
「水を飲んでいけ」
老人が言った。
家の中から古い椀に入れて持ってきてくれた。水は冷たくて、飲むと胃の底まで冷えた。久しぶりにちゃんとした水を飲んだ気がした。道の途中で川の水を口に含んだことはあったけど、こうして誰かに渡してもらうのは二日ぶりだった。
「ありがとうございます」
椀を返すと、老人はそれを受け取って、また木の根に座った。
歩き始めると、後ろから声がした。
「気をつけろ」
振り返らなかった。振り返ったら、止まりそうだった。
歩いた。草を踏んで、集落の端を過ぎた。後ろで犬がまた鳴いた。それが聞こえなくなるまで、歩き続けた。
犬の声が消えた後、煙の匂いがした。どこかで火を焚いているのだろう。夕飯の準備か、寒いからか。その匂いも、少し歩くと消えた。
あの集落が、最後の場所だった。
そこから先は、人が住んでいる場所ではなかった。後でそうわかったが、歩いているときにも薄々感じていた。道がなくなっていくにつれて、人の気配が抜けていった。人が作ったもの、人が踏んだ跡、人が残したもの。それが全部なくなって、ただ自然だけになった。
集落を出ると、道らしいものはなくなった。
草が膝まで伸びていた。かつて誰かが通った跡はあったが、最後に通ったのはずいぶん前のことらしかった。足元に何かがいて、草を揺らして逃げた。何かはわからなかった。
木が増えてきた。
最初はまばらだった。進むにつれて、木と木の間が狭くなった。葉が増えて、空が見える割合が減った。午後の光が届かなくなって、薄暗くなった。空気が変わった。涼しいだけでなく、湿った感じがある。土の匂いが濃くなった。苔の匂いも混ざった。どこかで水の音がした。川か、沢か、はっきりわからなかったが、水が近いのはわかった。
足の下の土が柔らかくなった。乾いた硬い道とは違う。踏むと少し沈む感じがした。長い時間、誰も踏んでいない土は、こういう感触をしている。ここに人が来なくなってから、ずいぶん経つのだと思った。
鳥の声がなくなった。
気づいたのは、すでに森の中に入ってしばらく経ってからだった。来るとき、道沿いには鳥がいた。農家の周りにも、草地にも声があった。でも今は音がない。風もない。木が揺れない。ただ、自分の足が落ち葉を踏む音だけがした。
霧が出てきた。
最初はただの霧だと思った。山の近くではよくある。でも歩くにつれて、霧の密度が上がった。五歩先がぼんやりした。十歩先が消えた。木の幹が霧の中に半分溶けて、白い輪郭だけになった。
道はなかった。
気づいたら、踏み固められた跡が消えていた。いつ消えたのかわからない。霧の中を歩いていたら、地面は落ち葉と土だけになっていた。
止まった。
周りを見た。どちらも同じだった。木が、霧が、落ち葉が、どちらを向いても同じに見えた。
迷った、と思った。でも怖い、とは思わなかった。不思議だった。迷ったなら怖いはずだ。でも、ここまで来た、という感じの方が強かった。三日歩いてここまで来た。引き返すのも、前に進むのも、どちらも同じくらい遠い。ならばどちらでもいい。そういう感じだった。
ただ、水が飲みたかった。老人にもらった水はとっくに消化した。口の中が乾いていた。霧が濃いのに、水の匂いはしなかった。この霧は水じゃない、とぼんやり思った。水の霧なら匂いがあるはずだ。でもこれは匂いがない。ただ白い。
霧の色が、違った。
それに気づいたのは、もう少し歩いてからだった。来た方向の霧は白かった。でも、前の方向の霧は違う。白の中に、薄い何かが混ざっていた。光というより、霧の中に何かがいる、という感じだった。
後から思えば、それが精霊の気配だった。でもそのときのわたしには、その言葉はなかった。ただ、あちらの霧は種類が違う、と思った。
足が、そちらに向かった。
考えるより先に、体が動いた。これは二度目だった。都の城門の外で北に向かったときと同じだった。頭が決める前に、足が歩き始めていた。
霧が濃くなった。落ち葉の上を歩いた。木の幹が霧の中に消えていった。一歩、また一歩。足の裏が落ち葉を踏む感触だけあった。靴ずれは痛かった。でも止まらなかった。
足元から温かくなってきた。
霧の中なのに、地面が温かかった。冷たい空気とは別に、土の底から温かさが上がってくる感じがした。何がそうしているのかわからなかった。でも気持ち悪くはなかった。むしろ、ずっと冷えていた足の裏が、少し楽になった。
振り返ると、来た方向が見えなかった。
霧が閉じていた。後ろも、前も、同じ白さだった。でも前にだけ、その薄い何かが混ざっていた。
どこかで水の音がした。
沢か、川か。霧の向こうに水がある。その音を聞いたとき、ああ、ここに来てよかった、と思った。なぜそう思ったのかは今でもわからない。ただ水の音を聞いて、何かが少し緩んだ。
わたしは前に進んだ。
来た道が、白い霧の中に消えていった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第3話をお届けしました。
この話で一番書きたかったのは、老人との場面でした。「止めない。でも戻ってきた人はいない」と言って水をくれる人。こういう人が一番怖い。哀れんでいるのか、諦めているのか、何か知っているのか、わからない。リナも振り返らずに行く。
「振り返ったら、止まりそうだった」という一文、書きながら自分でびっくりしました。リナがここまで素直に弱音を見せたのは初めてだと思います。
霧の色が違う場面は、「精霊の気配」という言葉を使わずに書きたかったです。そのときのリナには、まだその言葉がない。ただ「種類が違う」と感じる。七年後に初めて、あれが精霊だったとわかる。そういう構造にしました。
次の話では、庭での最初の夜を描きます。死を覚悟した夜のことを。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
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