第2話: 右手首の傷
東の木は、想像より深く根が浮いていた。
何日も霜が続いたせいで、地面の表面が押し上げられていた。根の先端が空気に触れている。このまま乾くと死ぬ。支えを入れる前に、まず根を土に戻さないといけない。
膝をついて、根元を調べた。根は思ったより太かった。ずっと地面を支えてきた根だ。それが浮いてしまっている。木は気づいているのかどうかわからないが、幹に触れると少し傾いている感じがした。
両手で根元の土を押さえながら、ゆっくり体重をかけた。春の土は湿り気が多くて、握ると固まる。冷たい土が指の隙間に入ってくる。手のひらに圧力がかかって、土の温度が皮膚に伝わってくる。
その感触が、なぜか遠い記憶を引き寄せた。
七年前の春も、右手でこういうことをしていた。
——前の夜、団長に呼ばれた。
話は短かった。「明日から新しい回復担当が来る。お前はいらない」。それだけで終わった。何か言い返す気にもならなかった。怒りより先に、そうか、やっぱり、という感じが来た。七年間、そういう感じはずっとどこかにあった。
パーティに入ったのは、孤児院を出て間もない頃だった。魔力の測定で「支援魔法・微弱」と出て、回復担当の補欠として採用された。本当の回復担当が怪我したときの代わり、みたいなものだった。でも三年目にその人が引退して、わたしがそのまま枠に入った。ちゃんと仕事をしているつもりだった。でも術の安定性は上がらなかった。前線で役に立てなかった。
荷物はすぐまとまった。着替えが二枚、靴、使い慣れた道具。袋ひとつに全部入った。七年間パーティにいたのに、それだけしかなかった。物が少ないのは昔からだった。増やす気になれなかったし、必要も感じなかった。
夜、誰も声をかけに来なかった。
次の回復担当が来るのは明日の朝と聞いた。すれ違わなくてよかった、とだけ思った。
床に横になって、天井を見ていた。眠れなかった。眠れないのは久しぶりだった。パーティにいる間、眠れない夜はほとんどなかった。疲れていたからだ。毎日何かしら動いていたから、横になれば眠れた。
隣の部屋から、誰かの寝息が聞こえた。みんな普通に眠っていた。わたしが明日いなくなることを知っていても、普通に眠れるのだ。それが当然だとわかっていた。でも、天井を見ながらそれを聞いていると、胸の奥が少しだけ重かった。
悲しいとは思わなかった。ただ、重かった。
まだ暗いうちに外に出た。
城門の前に、団長が一人で立っていた。団員は誰もいなかった。七年間一緒にいた人たちが、誰一人来なかった。見送りがないのはわかっていた。夜中にそれを予想して、その通りになった。
予想通りでも、やっぱり痛かった。
「これを持って行け」
革袋を渡された。中に硬貨が入っていた。数えたら十二枚だった。北の禁足地まで歩いて四日か五日かかる。その間の食費と宿代。十分ではないけど、何もないよりはまし。そういう計算で出した額だとわかった。
印を消す道具を、右手首に当てられた。
熱かった。痛みというより、焼ける感じ。皮膚が一瞬こわばって、七年間そこにあった印が剥がれた。一息で消えた。
「北の禁足地まで自分で行け。そこに入れば、もう国の管轄外になる」
団長は言って、背を向けた。
城門が、音を立てて閉まった。
振り返る人は、いなかった。
印を焼かれるより、ずっと静かな、冷たい痛みだった。
城門の外に立ったまま、しばらく動けなかった。
東の空が白み始めていた。都はまだ静かで、荷馬車の音が遠くから聞こえた。犬が鳴いた。いつも通りの朝が始まっていた。ただわたしだけが、どこにも属していなかった。
どこへ行くか、考えた。
孤児院には戻れない。あそこにいた子たちは全員、とっくにほかの場所へ行っている。戻れる場所じゃない。ほかに頼れる人もいない。七年間、パーティの外で人間関係を作ろうとしなかった。そんな余裕もなかったし、必要も感じなかった。
南は帰る場所がない。東と西は知らない土地で、硬貨十二枚でどこまで行けるかわからない。
そのとき、足が動いた。
北に向かっていた。
後から何度考えても、理由がわからない。禁足地に行けと言われたから、かもしれない。でも言われたからって、そこに行く義理はなかった。ほかに行く場所がないから北を選んだ、という感覚でもなかった。体が先に決めていた。頭がついてくる前に、足が歩き始めていた。
そういうことが、たまにある。
ただ北に向かって、歩いた。右手首を、左手でそっと押さえながら。
城門を出てしばらく歩くと、都の外れに出た。建物が少なくなって、畑が増えて、やがて街道になった。
振り返ると、都がまだ見えた。七年間住んでいた場所だ。正確にはパーティの宿舎に住んでいたのだが、都にいた、ということになる。七年間で都のことは、ほとんど知らなかった。市場がどこにあるか。有名な食べ物は何か。人が集まる広場がどこか。任務と宿舎の往復しかしていなかったから、何もわからないまま終わった。
もう戻ることはない、と思った。
特に惜しくはなかった。知らなかった場所を、知らないまま去るだけだ。
すれ違う人は誰もいなかった。早朝だからかもしれないし、北の方角に向かう人間がいないからかもしれない。
どちらでもよかった。
土が、指の下でずれた。
根が戻った感触があった。もう少し押し込んで、周りの土を固める。支えの枝を斜めに差して、ひもで縛る。終わるのに小一時間かかった。手は土まみれで、指先が冷えて赤くなっていた。
木は、ちゃんと立っていた。
少し離れて眺めた。根元の土が均一に固まっている。これで今年の霜には耐えられる。来年のことは来年でいい。
右手首を見た。
傷はほとんど見えない。七年分の日焼けと労働で、皮膚の色が変わった。でも指で触れると、薄くなった部分がある。あの朝の熱さが、感触として残っている。
七年前に右手首の印を消された。七年後の今、同じ右手で木の根を支えている。
あの朝、右手を押さえながら北に向かって歩いた。途中で痛みはなくなった。でも手を離すのが怖くて、ずっと押さえていた。左手で右手首を包むようにして、四日間歩いた。
今は、その左手で土を押さえている。
意味があるとは思わない。ただ、こういうことを積み重ねてきた、ということだ。
帰ることにした。雨が来る前に薪を増やしておかないといけない。
歩き始めたとき、ふと東の端が気になった。庭の外とつながる方向の木々が、いつもと少し違って見えた。空気の流れが変わっていた。庭の内側と外側の空気が、今日は混ざっていた。
立ち止まらなかった。今日はもう仕事を終わりにする。
でも、もう一度だけ振り返った。
東の端の木々が、風もないのに、少し揺れていた。
七年間、庭の外は変わらなかった。霧が濃い日も、雨の日も、庭の境界はいつも同じだった。空気が混ざることも、木々がこんな風に揺れることもなかった。
今日は違う。
理由はわからなかった。でも、庭がわたしに何か伝えようとしている気がした。精霊たちが感じているものを、わたしもかすかに感じていた。
それが何なのか、まだわからない。
小屋に向かって歩きながら、右手首をそっと押さえた。昔の癖が戻った。でも今は、怖くて押さえているのじゃない。確認するように、触れているだけだ。跡はある。ちゃんとある。それでいい。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第2話をお届けしました。
この話で一番書きたかったのは、「北に向かった理由がない」という場面でした。リナは理由があって庭に来たわけじゃない。行く場所がなくて、気づいたら足が動いていた。そのなんとなくが、あとから意味を持つ。そういう話を書きたいと思っていました。
誰も見送りに来なかった、という場面は書いていて静かにつらかったです。大きな怒りじゃなく、ただ冷たい、という感じが一番リナらしいと思っています。
硬貨十二枚は計算して出した数字です。四日分の最低限の食費と宿代。十分じゃないけど、何もないよりまし。「ぎりぎりだけ渡す」感じが、あの団長らしかった。
最後に木々が揺れましたね。気になりましたか? 次の話から少しずつ動いていきます。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
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