第1話:七年目の朝
目が覚めたのは、霜の音がしたからだ。
草の茎の上に薄く積もった霜が、朝の温度で細かく砕けていく。誰かに話しかけられているような、でも何も言っていない音。最初の春には気づかなかった。七年目の今では、体がその音より先に起きる。
今年も、春が来た。
毛皮を畳んで、炉の残り火に薪を足した。
この小屋は石と木で作った。最初の冬には間に合わなくて、岩の陰で震えながら越した。あの冬のことは今でも体が覚えている。壁を立て始めたのは三年目で、完成まで一年かかった。精霊から素材の使い方を教わって、ようやく形になった。壁が呼吸している、とシアは言う。よくわからないけど、あの冬よりずっと暖かい。
桶を持って外に出た。
霧だ。春の朝はいつもこうだ。ヴェイラの庭は霧が深くて、木々の幹が白く霞んでいる。霧の向こうに何があるかわからない。でも道に迷いようがなかった。七年で足裏が地面を覚えている。根が出ている場所、霜の溜まる窪み、苔で滑る石。全部、頭より先に体が知っている。
霧の中を歩くと、庭が生きているのがわかる。精霊の気配が濃いところは、足元がほんのり温かい。春になるたびその場所が増えていく。精霊たちが起き始めている、とシアは言う。目には見えないけど、足の裏でわかる。都にいた頃は石畳を踏んでも何も感じなかった。地面はただ硬かった。
沢まで、十五歩。
桶を水に浸けた。手の感覚が白くなるくらい冷たい。雪解けを含んだ水はいつもこうで、でも毎年新しく感じる。指がしびれる前に引き上げる。体が目を覚ます。炉の温もりの中にいるとまだ眠い。この冷たさで、ちゃんとここにいる、とわかる。
水面の上に、薄い光があった。
「おはよう」
声がした。子供くらいの高さから。
振り返ると、霧の中にシアが立っていた。水の精霊は輪郭がぼんやりしている。霧が濃い朝はさらに見えにくい。声がなければ気づかなかった。
「おはよう、シア」
「今日、霜が多かったね」
「うん」
「もう春なのに。土がまだ迷ってる」
「迷ってる、か」
シアの言葉を、そのまま繰り返した。考える間がほしいときの癖だ。
「うん。迷ってる」
「教えてやればいい。もう春だって」
シアは首をかしげた。水面に映る輪郭が、ゆらりと揺れる。
「土は、人に教わって決めるものじゃない」
「そうか」
シアはこういうことを言う。土が迷っている。水が考えている。霧が悩んでいる。最初は意味がわからなかった。でも、この数年——シアと話しているうちに——なんとなく見えてくる。寒さの中にいる植物は、確かに迷っているように見える。伸びたいのに縮んでいる、みたいな。
「リナは迷ってる?」
「迷ってない」
「そう」
シアは納得して、わたしが小屋に戻る道についてきた。水面を離れると霧に溶けてしまうけど、声だけはそばに聞こえる。
水を火にかけて、今日の仕事を確認した。
「東の木、まだ倒れそう?」
声だけがそばに聞こえた。
「うん。霜の重さで根が浮いてる。支えを入れないと危ない」
「南の草地は?」
「芽が出た。今年初めて」
「エル、最近そっちにいるね」
「うん。何かあるのかもしれない」
シアの声が、少しだけ弾んだ気がした。理由は言わなかった。
「午後、雨になる」
「霧の匂いでわかる?」
「うん。薪、増やしておく」
仕事はいつでもある。庭はずっと動いていて、何もしない日がない。最初はそれがきつかった。一日働いてもまだ足りない気がして、眠れない夜があった。
今は違う。仕事があるのは、ここで必要とされているということだ。それが——悪くない。都では七年間「役立たず」と言われ続けた。追い出されるまで気づかなかった。ここでは誰も言わないけど、倒れかかった木を支えると、木が喜んでいる気がする。草地に行けば土が喜んでいる気がする。うまく説明できないけど、そういうことだ。
シアが石の床に座って、炉の火を見ていた。
「ね、リナ」
「なに」
「また右手を見てた」
桶の水が、小さく音を立て始めた。
右手首に古い傷がある。傷というより、消された印の跡だ。昔、そこには勇者パーティの印が刻まれていた。所属を示す小さな紋様。消されるとき、熱かった。痛みより熱さの方を覚えている。皮膚が焼ける匂いもした。
今はほとんど見えない。七年分の日焼けと労働で肌が変わったからかもしれないし、時間のせいかもしれない。でも指で触れると、焼けた皮膚の薄さがわかる。跡はまだそこにある。
「触ってない」
「でも見てた」
精霊は嘘を嫌う。シアはわたしが何を見て何を考えているか、だいたい気づく。この数年で慣れたつもりだけど、こういうときは少し困る。
「昔のことを思い出した。それだけだ」
「痛い?」
「痛くない。とっくに」
シアは少しの間、黙った。霧の中で薄い光が揺れた。
「そっか」
それだけで終わりにしてくれるのが、シアのいいところだった。理由を聞かない。続きを求めない。「そっか」と言って、また火を見る。
——あれは、七年前の春のことだった。
王都アルダンの正門の外。昼過ぎで、空は明るかった。
通りには人がいた。誰も足を止めなかった。ただ何人かは、横目でこちらを見てから、すぐに視線を逸らした。門番が二人、槍を持ったまま、地面の方を見ていた。
勇者パーティの団長がわたしの右手首を掴んで、印を消す道具を押し当てた。
皮膚が引き攣れる感触があった。焼けるというより、突っ張るような感覚が手首から肘まで走った。ジュ、という短い音がした。それから、印が消えた。
「お前はもう、この団とは関係ない」
団長は言った。わたしは何も言わなかった。団長の目は、わたしを見ていなかった。手首の跡だけを見ていた。
七年間、雑用と荷物持ちをした。魔力が弱くて、ほとんど役に立てなかった。それは最初からわかっていた。わたしもわかっていた。ただ、それを声に出したのがあの日だった、というだけのことだ。
「北の禁足地まで、自分で行け」
解雇するだけでよかったはずだ。でも団長は、それ以上を選んだ。役立たずを外に出すだけでは足りなくて、二度と目に入らない場所まで追いやりたかったんだと思う。あとになって、そう思うようになった。
誰も、顔を上げなかった。
誰かが何か言うかもしれない、とわたしは思った。でも誰も言わなかった。荷物をまとめる手だけが、やけに忙しく動いていた。七年一緒にいた人たちが、誰も顔を上げなかった。それはある意味、印を消されるより痛かった。
——桶の湯が沸く音で、わたしは戻ってきた。
木の葉を湯に入れて、少し待つ。
どの葉がどんな効果を持つか、最初は何も知らなかった。最初の三年は独学で、失敗しては熱を出した。精霊に教わるようになったのはそのあとで、そこからの数年でようやく形になった。今は目をつぶっても葉の種類がわかる。指先の感触で乾き具合も鮮度もわかる。
一度、シアに「それは違う」と止められたことがある。止められる前に、もう口に入れていた。三日間、寝込んだ。あれ以来、迷ったときはシアに聞くようになった。
都にいた七年より、庭にいた七年の方が、ずっと多くのことを覚えた気がする。
今さら都のことを考えない。
あの人たちのことも、考えない。右手首の傷は今日も痛くない。指で触れると焼けた皮膚の薄さが残っているけど、それだけのことだ。
痛くない、は本当だった。
ただ——あの日のことを思い出すと、今でも息が少しだけ止まる。七年経っても変わらない。たぶん七年後も同じだろう。でもそれは、ここでの仕事とは関係ない。倒れかかった木を支えることとは関係ない。エルが南にいる理由を確かめることとは関係ない。
「仕事、行くの?」
シアが聞いた。
「行く。東の木を先に」
「雨が来る。夕方前には戻った方がいい」
「わかってる」
「エルが南にいるのはね、花が出たからだと思う。今年は早い」
「そうか」とわたしは言った。「見に行く」
「楽しみだね」
わたしへの問いかけなのか独り言なのか、よくわからなかった。でもたぶん、どちらでもよかった。
——ただ、シアの声には、花が出ただけにしては、少し弾みすぎている響きがあった。
湯呑みを持って外に出た。
霧が薄くなっていた。陽が差し始めている。木々の輪郭が少しずつ見えてきて、霧の白が光に溶けていく。草の上の霜は、もうほとんど消えていた。陽が出れば消える。消えてもまた明日降りる。七年でそれを見てきた。
右手首の傷が、朝の光の中で白く光った。
消えたのは、印だけだった。指で触れると、皮膚の下にまだ何かが眠っている気がする——名前をつけられない、七年間ずっとそこにあるもの。
それが何なのか、わたしはまだ知らない。
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