表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
最果ての地に追放されて七年、そこが神々の聖域だったと都の人間たちが気づいた時、私はもう帰る気はなかった  作者: 空乃ゆきこ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/45

第1話:七年目の朝

 目が覚めたのは、霜の音がしたからだ。


 草の茎の上に薄く積もった霜が、朝の温度で細かく砕けていく。誰かに話しかけられているような、でも何も言っていない音。最初の春には気づかなかった。七年目の今では、体がその音より先に起きる。


 今年も、春が来た。


 毛皮を畳んで、炉の残り火に薪を足した。


 この小屋は石と木で作った。最初の冬には間に合わなくて、岩の陰で震えながら越した。あの冬のことは今でも体が覚えている。壁を立て始めたのは三年目で、完成まで一年かかった。精霊から素材の使い方を教わって、ようやく形になった。壁が呼吸している、とシアは言う。よくわからないけど、あの冬よりずっと暖かい。


 桶を持って外に出た。


 霧だ。春の朝はいつもこうだ。ヴェイラの庭は霧が深くて、木々の幹が白く霞んでいる。霧の向こうに何があるかわからない。でも道に迷いようがなかった。七年で足裏が地面を覚えている。根が出ている場所、霜の溜まる窪み、苔で滑る石。全部、頭より先に体が知っている。


 霧の中を歩くと、庭が生きているのがわかる。精霊の気配が濃いところは、足元がほんのり温かい。春になるたびその場所が増えていく。精霊たちが起き始めている、とシアは言う。目には見えないけど、足の裏でわかる。都にいた頃は石畳を踏んでも何も感じなかった。地面はただ硬かった。


 沢まで、十五歩。


 桶を水に浸けた。手の感覚が白くなるくらい冷たい。雪解けを含んだ水はいつもこうで、でも毎年新しく感じる。指がしびれる前に引き上げる。体が目を覚ます。炉の温もりの中にいるとまだ眠い。この冷たさで、ちゃんとここにいる、とわかる。


 水面の上に、薄い光があった。


「おはよう」


 声がした。子供くらいの高さから。


 振り返ると、霧の中にシアが立っていた。水の精霊は輪郭がぼんやりしている。霧が濃い朝はさらに見えにくい。声がなければ気づかなかった。


「おはよう、シア」


「今日、霜が多かったね」


「うん」


「もう春なのに。土がまだ迷ってる」


「迷ってる、か」


 シアの言葉を、そのまま繰り返した。考える間がほしいときの癖だ。


「うん。迷ってる」


「教えてやればいい。もう春だって」


 シアは首をかしげた。水面に映る輪郭が、ゆらりと揺れる。


「土は、人に教わって決めるものじゃない」


「そうか」


 シアはこういうことを言う。土が迷っている。水が考えている。霧が悩んでいる。最初は意味がわからなかった。でも、この数年——シアと話しているうちに——なんとなく見えてくる。寒さの中にいる植物は、確かに迷っているように見える。伸びたいのに縮んでいる、みたいな。


「リナは迷ってる?」


「迷ってない」


「そう」


 シアは納得して、わたしが小屋に戻る道についてきた。水面を離れると霧に溶けてしまうけど、声だけはそばに聞こえる。




 水を火にかけて、今日の仕事を確認した。


「東の木、まだ倒れそう?」


 声だけがそばに聞こえた。


「うん。霜の重さで根が浮いてる。支えを入れないと危ない」


「南の草地は?」


「芽が出た。今年初めて」


「エル、最近そっちにいるね」


「うん。何かあるのかもしれない」


 シアの声が、少しだけ弾んだ気がした。理由は言わなかった。


「午後、雨になる」


「霧の匂いでわかる?」


「うん。薪、増やしておく」


 仕事はいつでもある。庭はずっと動いていて、何もしない日がない。最初はそれがきつかった。一日働いてもまだ足りない気がして、眠れない夜があった。


 今は違う。仕事があるのは、ここで必要とされているということだ。それが——悪くない。都では七年間「役立たず」と言われ続けた。追い出されるまで気づかなかった。ここでは誰も言わないけど、倒れかかった木を支えると、木が喜んでいる気がする。草地に行けば土が喜んでいる気がする。うまく説明できないけど、そういうことだ。


 シアが石の床に座って、炉の火を見ていた。


「ね、リナ」


「なに」


「また右手を見てた」


 桶の水が、小さく音を立て始めた。


 右手首に古い傷がある。傷というより、消された印の跡だ。昔、そこには勇者パーティの印が刻まれていた。所属を示す小さな紋様。消されるとき、熱かった。痛みより熱さの方を覚えている。皮膚が焼ける匂いもした。


 今はほとんど見えない。七年分の日焼けと労働で肌が変わったからかもしれないし、時間のせいかもしれない。でも指で触れると、焼けた皮膚の薄さがわかる。跡はまだそこにある。


「触ってない」


「でも見てた」


 精霊は嘘を嫌う。シアはわたしが何を見て何を考えているか、だいたい気づく。この数年で慣れたつもりだけど、こういうときは少し困る。


「昔のことを思い出した。それだけだ」


「痛い?」


「痛くない。とっくに」


 シアは少しの間、黙った。霧の中で薄い光が揺れた。


「そっか」


 それだけで終わりにしてくれるのが、シアのいいところだった。理由を聞かない。続きを求めない。「そっか」と言って、また火を見る。




 ——あれは、七年前の春のことだった。


 王都アルダンの正門の外。昼過ぎで、空は明るかった。


 通りには人がいた。誰も足を止めなかった。ただ何人かは、横目でこちらを見てから、すぐに視線を逸らした。門番が二人、槍を持ったまま、地面の方を見ていた。


 勇者パーティの団長がわたしの右手首を掴んで、印を消す道具を押し当てた。


 皮膚が引き攣れる感触があった。焼けるというより、突っ張るような感覚が手首から肘まで走った。ジュ、という短い音がした。それから、印が消えた。


「お前はもう、この団とは関係ない」


 団長は言った。わたしは何も言わなかった。団長の目は、わたしを見ていなかった。手首の跡だけを見ていた。


 七年間、雑用と荷物持ちをした。魔力が弱くて、ほとんど役に立てなかった。それは最初からわかっていた。わたしもわかっていた。ただ、それを声に出したのがあの日だった、というだけのことだ。


「北の禁足地まで、自分で行け」


 解雇するだけでよかったはずだ。でも団長は、それ以上を選んだ。役立たずを外に出すだけでは足りなくて、二度と目に入らない場所まで追いやりたかったんだと思う。あとになって、そう思うようになった。


 誰も、顔を上げなかった。


 誰かが何か言うかもしれない、とわたしは思った。でも誰も言わなかった。荷物をまとめる手だけが、やけに忙しく動いていた。七年一緒にいた人たちが、誰も顔を上げなかった。それはある意味、印を消されるより痛かった。


 ——桶の湯が沸く音で、わたしは戻ってきた。




 木の葉を湯に入れて、少し待つ。


 どの葉がどんな効果を持つか、最初は何も知らなかった。最初の三年は独学で、失敗しては熱を出した。精霊に教わるようになったのはそのあとで、そこからの数年でようやく形になった。今は目をつぶっても葉の種類がわかる。指先の感触で乾き具合も鮮度もわかる。


 一度、シアに「それは違う」と止められたことがある。止められる前に、もう口に入れていた。三日間、寝込んだ。あれ以来、迷ったときはシアに聞くようになった。


 都にいた七年より、庭にいた七年の方が、ずっと多くのことを覚えた気がする。


 今さら都のことを考えない。


 あの人たちのことも、考えない。右手首の傷は今日も痛くない。指で触れると焼けた皮膚の薄さが残っているけど、それだけのことだ。


 痛くない、は本当だった。


 ただ——あの日のことを思い出すと、今でも息が少しだけ止まる。七年経っても変わらない。たぶん七年後も同じだろう。でもそれは、ここでの仕事とは関係ない。倒れかかった木を支えることとは関係ない。エルが南にいる理由を確かめることとは関係ない。


「仕事、行くの?」


 シアが聞いた。


「行く。東の木を先に」


「雨が来る。夕方前には戻った方がいい」


「わかってる」


「エルが南にいるのはね、花が出たからだと思う。今年は早い」


「そうか」とわたしは言った。「見に行く」


「楽しみだね」


 わたしへの問いかけなのか独り言なのか、よくわからなかった。でもたぶん、どちらでもよかった。


 ——ただ、シアの声には、花が出ただけにしては、少し弾みすぎている響きがあった。


 湯呑みを持って外に出た。


 霧が薄くなっていた。陽が差し始めている。木々の輪郭が少しずつ見えてきて、霧の白が光に溶けていく。草の上の霜は、もうほとんど消えていた。陽が出れば消える。消えてもまた明日降りる。七年でそれを見てきた。


 右手首の傷が、朝の光の中で白く光った。


 消えたのは、印だけだった。指で触れると、皮膚の下にまだ何かが眠っている気がする——名前をつけられない、七年間ずっとそこにあるもの。


 それが何なのか、わたしはまだ知らない。



最後まで読んでいただきありがとうございました。第1話をお届けしました。ここまで読んでくださって、ありがとうございました。☆評価・ブクマ・感想をいただけると次話の励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ