第46話: 静かな戦場
あの日から、霧の向こうの気配はいつしか柵際まで詰めていた。
一日目、霧の中で槍の穂先が数を数えるように並んでいた。
二日目、同じ場所に同じ数だけ並んでいた。
三日目には、数えるのをやめた。
柵の外の隊列は、退かなかった。
朝になると煙が二筋上がり、昼には人影が交代し、夜には松明の輪が同じ位置で灯った。同じことが、判で押したように繰り返された。
畑の土は、少しずつ息を取り戻していた。棘の垣根が噴き出した一角にも、三日目の朝、指の先ほどの若葉が覗いた。
「――戻ってきましたね」
しゃがみ込んで葉に触れると、ソルが隣で頷いた。
「まだ弱い。踏めば折れる」
「あとどれくらいで、育ちますか」
「わからない。これほど深く、削れたことがない」
「深く、というのは」
「根の底まで、届いたということだ」
「それでも、待つしかありませんね」
「待つしかない」
短い答えだった。それでも、何もなかった二日前より確かに前へ進んでいた。
四日目、水路の音が少しだけ太くなった。
朝露が畑の畝を一列ずつ光らせる日があった。風向きが変わる日もあった。
日々の継ぎ目は、いつも同じ形で過ぎていった。水を汲み、畝を均し、鶏に似た精霊の卵を集め、日が傾けば火を焚く。数えなければ、何日経ったかも曖昧になるほどの繰り返しだった。
「リナ、今日も同じ」
水路の光が近づいてきて、そう言った。シアだった。
「同じ、ですか」
「うん。変わらないの、逆に怖い」
少し考えてから、答えた。
「わたしも、少しだけ怖いです」
「リナも?」
「はい」
右手首の脈だけが、その繰り返しの底で少しずつ落ち着きを取り戻していた。まだ本調子ではない。だが、崩れ落ちた日の重さとは違う疲れになっていた。
柵越しに見る隊列にも、少しずつ変化があった。
荷を積んだ馬が一頭、隊列の後方から離れていくのを見たのは、五日目の朝だった。
鞍に固定された革の筒に、封蝋の光る書状が差し込まれているのが、遠目にも見えた。馬は霧の奥、王都へ続く道の方角へ駆けていった。
中身までは、ここからは見えなかった。
同じ日の午後、また一頭。今度は二人の兵が付き添っていた。
馬を見送るヴァンスの背中に、それまでとは違う張りがあった。苛立ちでも、焦りでもない。何かの手続きを、ひとつずつ確実に踏んでいるような佇まいだった。
その後ろで、兵たちの間に低い声が交わされていた。何を話しているのかは、ここまでは届かなかった。ただ、空気の色が変わったことだけが、遠目にもわかった。
「今日、また馬が出た」
振り向くと、シアの光が水面すれすれを揺れながらこちらへ来ていた。
「見ました」
「何を、運んでるんだと思う」
「わかりません」
正直に答えた。書状の中身は霧の向こうにあって、この庭からは見えないものだった。
「怖い、感じがする」
「わたしも」
「リナも、怖いの?」
「はい」
「なのに、いつもと同じ顔してる」
「顔には、出しませんから」
「隠すの、上手」
「褒め言葉ですか」
「たぶん」
そう返すと、シアの光がすっと沈んだ。
六日目、隊列の並びに小さな乱れがあった。
柵の内側から見ていると、一人の兵が輪の中から外され、別の一角へ移されるのが見えた。装束は変わらない。だが立つ場所が、これまでと違っていた。
その周りにだけ、二人の兵が距離を保って立っていた。守っているのか、逃げられないようにしているのか、ここからでは区別がつかなかった。
目を凝らして、それがアルヴィンだと気づくのに少しかかった。
「――あれは」
隣で、ソルが低く呟いた。
「アルヴィン、ですか」
「輪から、外されてる」
「理由は」
「知らない。だが、罰の並べ方に見える」
短い言葉が、そのまま答えだった。
アルヴィンの周りには、天幕がひとつだけ張られていた。
他の兵の天幕から、意図してのように離れた位置だった。出入りする者も限られ、水と食事を運ぶ兵以外は近づかない。
彼自身の姿は、天幕の陰からほとんど動かなかった。剣を帯びていないことだけが、遠目にもわかった。
声は届かない。表情も見えない。ただ、隊列という群れの中で、そこだけが小さく切り離されていた。
「リナ、あの天幕」
シアが、水路から顔を出して言った。
「見えます」
「独りぼっちみたい」
「そう、見えます」
「寒くないのかな」
「わかりません」
それ以上、続く言葉はなかった。
七日目、朝から荷車が一台、天幕の前に据えられた。
幌のかかった荷台に、何が積まれるでもなく、ただ据えられたまま昼を過ぎた。護送に使う支度なのか、それとも別の用途なのか、ここからは判別できなかった。
その荷車を見つめる兵たちの目に、これまでにない硬さがあった。
誰も、口には出さなかった。
「――ソル」
畑の畝に立ったまま、声をかけた。
「あの荷車、何のためだと思いますか」
「わからない」
短く返ってきた。
「土の下までは、教えてくれない」
「教えてくれない、というのは」
「土は、地面の下しか見せない。あの荷車は、地面の上のものだ」
いつもと同じ、率直な答えだった。それが今日はかえって、重く胸に残った。
八日目の午後、柵の向こうにヴァンスの姿があった。
馬には乗らず、両手を後ろに組んだまま、ただ庭の柵を見つめていた。声をかけるでも、命令を下すでもない。長い間、そうしていた。
その視線は、柵の内側にあるどの精霊にも、リナにも向いていなかった。何もない一点を見ているようで、実は誰よりも遠くを見ているような、そんな立ち方だった。
やがてヴァンスが、こちらへ歩み寄ってきた。
柵まで、数歩を残した位置で足を止めた。
「何日、こうしていると思っている」
「八日、です」
数えていた通りに答えた。
「よく数えているな」
「毎日、畑に出ますから」
「畑仕事は、休まないのか」
「休むと、土が忘れます」
そっけない答えに、ヴァンスがわずかに口の端を歪めた。笑ったのか、苦さを噛んだのか、判じかねる歪み方だった。
「今日は、何をしに来たんですか」
「特に、何も」
その答えの短さが、これまでのどの日よりも不気味だった。
「様子を、見に来ただけだ」
「様子を」
「貴様がまだ、そこに立っているかどうかをな」
「立って、います」
「見ればわかる」
言葉の割に、目の奥には熱がなかった。すでに何かの結論に到達した者の、静かな目だった。
「馬を、都へ送っていますね」
思い切って、そう尋ねた。
ヴァンスの眉が、わずかに動いた。
「見ていたか」
「見えるところに、出しますから」
「隠す理由がない、というわけか」
「隠す気は、ありません」
「――そうか」
それだけ答えると、ヴァンスは口を閉ざした。
何が書かれていたのか、続けて聞くことはしなかった。聞いても、答える顔ではなかった。
「アルヴィンは」
代わりに、そう尋ねた。
ヴァンスの表情が、初めてわずかに固くなった。
「軍の話だ。貴様が、案じることではない」
「案じては、いません」
「では何だ」
「見えたから、聞いただけです」
「見て、何を思った」
「何も。ただ、見ました」
ヴァンスは、しばらく黙っていた。
「――もう、駒には数えていない」
それだけ言うと、背を向けた。
隊列へ戻っていくヴァンスの背中を、柵越しに見送った。
天幕の前を通り過ぎる時、ヴァンスは一度も足を止めなかった。視線すら向けなかった。まるで、そこに元から誰もいないかのような通り方だった。
その素通りの仕方に、これまでの怒声よりも冷たいものを感じた。
「リナ、大丈夫?」
シアの光が、そっと寄ってきた。
「大丈夫です」
「怖い顔、してる」
「そう、見えますか」
答える声が、自分でも硬いのがわかった。
夜、木立の奥からエルの声が届いた。
「今日も、聞いていたか」
「はい」
「あの静けさを、どう思う」
少し考えてから、答えた。
「嵐の前に、似ています」
「そうか」
「エルは、違いますか」
「私にも、同じに見える」
エルの声に、珍しく間があった。
「私にも、まだ全部は見えない。だが、都に向けて何かが動き始めている。それだけは確かだ」
「都で、何が起きるんですか」
「わからない」
短い答えだった。
「風上のことは、風下にいる者には見えん。届く頃には、もう形を成した後だ」
「形を成した後、とは」
「起きてしまった後、ということだ」
「防げない、ということですか」
「防ぐ話を、今しているわけではない」
その言い方に、喉の奥が乾いた。
九日目、風向きが変わった。
北から吹いていた風が、その日だけ南へ流れた。畑の匂いが、柵の外へ向かって薄く流れていくのを感じた。
庭からの何かが、外へ運ばれていくような気がして、しばらく風上に立ったまま動けなかった。
理由のない感覚だった。それでも、無視できない重さがあった。
畝の陰から、ソルが顔を上げた。
「風が、変わった」
「わたしも、感じました」
「庭から出ていくもの、まだよくわからない」
珍しく、歯切れの悪い言い方だった。
同じ日の夕方、天幕の前でまた小さな動きがあった。
二人の兵が、アルヴィンの両脇に立ち、何かを促すような仕草をした。彼は、ゆっくりとその場に立った。
自分の足で立っていた。だが、両脇の兵から一定の距離を保たれたまま、隊列の後方へ向けて歩かされていくのが見えた。
振り返ることは、なかった。
その後ろ姿が霧に紛れる直前、一度だけ足が止まった。
押されたわけではない。躓いたのでもない。ただ、自分の意志でそこに立ち止まったように見えた。
柵の内側へ、顔だけがわずかに向いた。遠目では、表情までは読み取れなかった。
それでも、視線がこちらを一度なぞったのだけは、確かだった。
「――何か、言った?」
シアが、小さく尋ねた。
「いいえ」
「でも、見た」
「見ました」
それだけしか、答えられなかった。
やがて兵の手が肩に触れ、その背中は霧の奥へ押し流されるように消えていった。
畑に立ったまま、しばらくその場所を見つめていた。
何をされているのか、ここからは断定できない。護送の支度なのか、罰なのか、それとも別の何かなのか。
わかるのは、彼が隊列という群れから、確かに切り離されつつあるということだけだった。
「リナ」
水路の光が、静かに近づいてきた。シアだった。
「見てた?」
「見ていました」
「アルヴィン、連れていかれるのかな」
「わかりません」
答えながら、自分の声がひどく平らなことに気づいた。
「怒ってる?」
「怒っては、いません」
「じゃあ、寂しい?」
その問いに、すぐには答えられなかった。
「――寂しいというのとは、違う気がします」
しばらく考えて、そう答えた。
「じゃあ、何」
「知らない場所で、天気が変わるのを窓の外から見ているような感じです」
言ってから、自分の言葉に少し驚いた。天気の話にして逃げる癖は、七年経っても抜けていなかった。
「よくわかんない」
シアが、正直に呟いた。
「わたしも、よくわかりません」
十日目、荷車が朝のうちに姿を消していた。
替わりに、隊列の並びが一段組み替えられていた。柵に一番近い列に、これまでより数の少ない、練度の高そうな兵だけが並んでいた。
ヴァンス自身の姿は、その日は見えなかった。
留守なのか、別の場所で何かをしているのか、柵の内側からはわからなかった。
「ソル、あの荷車」
「戻ってこない」
短い返事だった。
「消えた?」
「別の使い道が、できたということだ」
その先は、ソルも言葉を継がなかった。
その日の昼、木立の奥からエルの声が届いた。
「今日は、静かだな」
「はい」
「静かすぎる、と思わないか」
問われて、初めて自分の中の違和感に言葉がついた。
「――思います」
「何もしてこない日が、こんなに長く続いたことはなかった」
その通りだった。四度の来訪は、いつも決着まで一日で終わっていた。
「エルには、これが何に見えますか」
「構えを変えた、と言ったな。あの日」
「はい」
「今も、その構えのままだ。だが――」
声が、そこで一度切れた。
「構えというのは、いずれ動くために取るものだ。ずっと構えたままの構えなど、意味がない」
「動く時が、近いということですか」
「わからない。だが、遠くはないと思う」
「近い、というのは」
「今日でも明日でも、おかしくないということだ」
その答えに、指先が冷たくなった。
庭の土に、両手をついた。
まだ本調子には戻っていない土の匂いが、指先に伝わってくる。柔らかい場所と硬い場所が、まだらに残っていた。
この庭も、完全には戻っていない。だが、じわりと確かに、命を取り戻しつつあった。
その回復の速さと、外の静けさの重さを比べて、どちらが先に満ちるのか、リナには測る術がなかった。
「ソル」
隣にしゃがんでいたソルへ、声をかけた。
「土は、いつ戻りますか」
「まだ、わからない」
短い答えだった。
「けど、止まってはいない」
その一言に、少しだけ息が軽くなった。
その夜、眠りは浅いままだった。
番人となってから、深く眠れた夜はほとんどない。庭の呼吸が、常に体の奥のどこかで響いている。
闇の中、右手首の蔓の模様に指を這わせた。脈は落ち着いていた。だが、落ち着いているというだけで、満ちているわけではなかった。
――足りているのか、足りていないのか。今のわたしには、まだわからない。
答えの出ない問いを抱えたまま、夜が明けるのを待った。
十一日目の朝、霧の向こうから、また一頭の馬が発った。
いつもの二筋ではなく、三筋目の煙が上がった。それが何の合図なのか、リナには読み取れなかった。ただ、馬の脚の速さが、これまでのどれよりも急いていた。
柵の内側から見送りながら、これで運ばれたものが何なのかを、いつかきっと知ることになる。そんな確信だけが、根拠もなく胸に居座った。
「急いでる」
シアが、馬の去った方角を見つめて呟いた。
「急いで、いますね」
「悪い知らせかな」
「わかりません」
「いい知らせだったら、いいのに」
「そう、思います」
「リナも、そう願ってる?」
「願っています」
答えになっていない答えを、シアはそれ以上追わなかった。
「エル」
畑に立ったまま、木立の奥へ呼びかけた。
「聞こえている」
「ここが静かなだけ、ですか。それとも――」
言葉を選びながら、続けた。
「別のどこかで、もう何かが動いているんでしょうか」
しばらく、沈黙が続いた。
「――後者だと、私は思う」
エルの声が、いつもよりわずかに低く響いた。
「だが、どこで何が起きているのかは見えない」
「見えないものを、どう構えればいいんですか」
「構えなくていい」
即答ではなかった。少し置いてから、続いた言葉だった。
「ここにいて、ここを守ればいい。それだけが、お前にできることだ」
「それだけで、足りますか」
「足りるかどうかは、私にもわからない」
「わからない、というのは」
「それでも、他に道がないということだ」
その言葉を、しばらく胸の中で転がした。
ここにいて、ここを守る。七年間、ずっとそうしてきた。それしか、できたことがなかった。
なのに今は、その言葉だけでは埋まらない隙間が、確かに胸のどこかにあった。
窓の外の天気を、ただ見ているだけではいられない。そう思う自分に、少し戸惑った。
柵の外の隊列は、その日も同じ位置に留まっていた。
同じ数の槍、同じ位置の煙、同じ輪の松明。表面だけを見れば、初日から何も変わっていないように見えた。
だが、その静けさの底で、確かに何かが組み替えられていた。天幕の位置、馬の出入り、切り離された一人の男。静かな戦場は、音を立てずに形を変えていた。
「リナ、まだ終わらない?」
シアの光が、心細げに揺れた。
「まだです」
「いつまで?」
「わかりません」
「終わったら、教えて」
「教えます」
それしか、言えなかった。
夕暮れの畑に立ち、霧の奥へ目を向けた。
あの馬が運んだ書状に、何が書かれていたのか。天幕の中で、アルヴィンが何を思っているのか。どちらも、ここからは見えない。
見えないまま、日だけが過ぎていく。その事実が、これまでのどの一撃よりも、静かに重く胸へのしかかった。
――何かが、もう始まっている。ここではない、どこかで。
その予感だけを抱えたまま、リナは霧の向こうへ、いつまでも目を凝らし続けた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第46話は、EP42〜45と続いた「軍が来る・拒む・退く」という直接対決の型から一転、何も起きない日々そのものを主題にした話にしました。開幕も安否確認の一問一答ではなく、槍の穂先の数を数える描写と日々のモンタージュから始めています。承パートの最終話として、これまでの派手な力比べとは違う「戦わない緊張」を書きたいという狙いでした。
今回意識したのは、パラリプシス(情報の後出し)の技法です。都へ発った伝令の書状に何が書かれていたのかは、最後まで一切書いていません。リナの視点では見えないものは見えないままにし、行為の事実(馬が発った、書状が差し込まれていた)とその後の空気の変化だけを描いています。同様に、アルヴィンが天幕に隔離され、隊列から静かに切り離されていく様子も、内心には踏み込まず遠目の観察に徹しました。次話「都での話」で、この伏せた情報がどう形を成していたのかが明らかになります。
ヴァンスの「もう、駒には数えていない」という一言は、彼の中でアルヴィンの処遇がすでに動き出していることを示す境界線のつもりです。直接対峙は今回あえて短くし、対決よりも「何も起きないことの不気味さ」に紙面を割きました。リナ自身も、庭を守ることだけでは埋まらない何かに気づき始めています。次話では、リナのまだ知らない都の動きが描かれます。ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
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