第45話: 立てない男
右手首の脈が、まだ鈍い。
新しい痛みではなく、使い切った後の重さだった。指先で押さえると、蔓の模様の下の脈は、昨日より少しだけ静かに打っていた。
庭も、同じ疲れを抱えている。確かめるまでもなく、それだけはわかった。
畑に出ると、ソルがしゃがみ込んだまま動かずにいた。
「戻ってますか」
「まだ遅い」
短く答えて、ソルは地面から手を離した。
「棘を出した場所は、まだ土が硬い」
「時間がかかりますか」
「かかる」
「どれくらい、ですか」
「わからない。おれにも、初めてのことだ」
それ以上、言葉は続かなかった。ソルらしい答え方だった。
水路の方から、光の粒がひとつ近づいてきた。シアだった。
「リナ、今日は誰も来てないよ」
「まだですか」
「うん、まだ」
安心していい言葉のはずなのに、胸の底に薄い雲がかかったままだった。理由は、自分でもうまく言葉にできなかった。
少し離れた茂みで、赤い光が低く揺れていた。カルだった。
「今日も、来るのか」
「わかりません」
「来たら、おれが黙ってると思うなよ」
「エルが、今日は何もしないと言っていました」
「知ってる」
光が、拗ねたように一度沈んだ。
「それでも、気に食わねえのは変わらねえ」
「わたしのために、我慢してくれているんですか」
「違う」
即座に返ってきた声が、少しだけ早口だった。
「お前は、無理すんなよ。それだけだ」
声の終わりだけ、いつもと違う響きがあった。
木立の奥から、エルの声が届いた。
「今日は、庭は何もしない」
「何も」
「削れた分を、これ以上削るわけにはいかない。今日動くとしたら――」
声が、そこで一度切れた。
「人の側の話だ」
その言い方に、かえって落ち着かない気持ちが残った。
昼を過ぎた頃、霧の向こうから足音が届いた。
昨日までより、明らかに数が少ない。荷車の音もなかった。柵の外に現れたのは、以前の三分の一ほどの隊列だった。
先頭に、ガレス・ヴァンスの姿があった。馬は連れていない。徒歩のまま、まっすぐ柵へ近づいてきた。
「今日は、話をしに来た」
ヴァンスの声は、これまでより低かった。
「話をですか」
「昨日までのようにはいかんとわかった。だが退くつもりもない」
その目に、以前の苛立ちとは違う冷たい光が宿っていた。
「今日は、軍を試す日にする」
「試す、というのは」
「誰が忠実で、誰がそうでないか。それを確かめる日だ」
言葉の意味を、その時はまだ量りかねていた。
ヴァンスの視線が、隊列の後ろへ動いた。
「アルヴィン」
名を呼ばれた男が、一歩前へ出た。旅装ではなく、久しぶりに見る隊列の装束のままだった。
「先だって、根に絡まった兵を助けたのは貴様だったな」
「はい」
「昨日は崩れ落ちた女から目を離さず、退くのが誰より遅かった」
問いではなく、確認するような口調だった。
アルヴィンは、何も言わなかった。
否定も弁解もせず、ただ地面の一点を見つめていた。七年前から変わらない、その黙り方だった。
「忠誠を、疑っている」
ヴァンスが、初めてその言葉を口にした。
「疑っているんですね」
「貴様に聞いているのではない」
短く切り捨てられた。
「証を立てさせる」
ヴァンスが、アルヴィンへ向き直った。
「柵まで一人で進め。あの女に直接投降を迫れ」
「――俺がですか」
「お前の顔なら、あの女も無下にはできまい」
値踏みするような響きだった。
「拒めば、その時点で答えは出る」
ヴァンスが、腕を組んだ。
「貴様がどちら側の人間か、今日ここで示せ」
周りの兵たちの視線が、一斉にアルヴィンへ集まった。
その沈黙の重さに、こちらの息も詰まった。
「将軍」
アルヴィンが、ようやく口を開いた。
「役目なら、他の者でも務まります」
「務まるかどうかを、聞いてはいない」
ヴァンスが、言葉を叩きつけるように返した。
「行けるか行けないか、それだけを聞いている」
「――行きます」
短く答えると、アルヴィンは柵の方へ体を向けた。
アルヴィンが、柵の方へ足を踏み出した。
一歩、また一歩。歩き方に乱れはなかった。剣は帯びていない。両手は、体の脇に力なく下がっていた。
柵まで、あと十歩。
その足が、不意に鈍った。
躓いたわけではなかった。地面に何かがあったわけでもない。庭の側は、何も起こしていなかった。霧も動かず、根も伸びず、草も鳴らなかった。ただ、彼の足そのものが、進むことを拒み始めていた。
あと五歩のところで、完全に止まった。
右手が、胸の前で止まる。懐へ伸びかけて、途中で止まった。何かに触れる手前で、指先だけが震えていた。
それが何なのか、遠目にはわからなかった。ただ、七年前に見た仕草と、どこか同じ形をしていた。
「何をしている、進め」
ヴァンスの声が飛んだ。
アルヴィンは、動かなかった。
「聞こえないのか」
声が、いっそう鋭くなった。
それでも、足は根が生えたように動かなかった。
膝が、ふいに崩れた。
誰に押されたわけでもない。自分の重さを、自分で支えきれなくなったような崩れ方だった。片膝が土につき、そのまま上体だけが柵の方を向いて止まった。
立ち上がろうとする気配だけは、あった。
肩が一度、震えるように持ち上がった。だが、それだけだった。膝は地面から離れなかった。
柵の内側から見ていて、それが「動けない」のではなく「立てない」のだと、初めてわかった。
「立て」
ヴァンスが、大股でそばまで歩み寄った。
「軍人が、命令一つで立てぬはずがあるか」
声を荒げても、アルヴィンは答えなかった。
答えの代わりに、深く息を吐いた。それだけが、彼にできる精一杯の返事のように見えた。
ヴァンスの拳が、自分の胸当てを一度強く叩いた。
苛立ちを外へ向ける先を、探しあぐねているような仕草だった。
「使えぬ駒は要らん」
吐き捨てるように言うと、踵を返した。
この光景を見ながら、胸の中で何かが、静かに位置を変えていくのを感じた。
怒りではなかった。ざまあみろという気持ちも、湧かなかった。
ただ、七年前は勇者パーティの盾として並び立っていた男が、今は一人で立てずにいる。その落差だけが、天気の変わり目のように胸へ押し寄せてきた。
「――アルヴィン」
声が、自分でも思っていなかった強さで出た。
名前を呼ぶのは、七年ぶりだった。
アルヴィンの目が、初めてこちらへ動いた。
「投降はしません」
いつもの答えを、そのまま告げた。
「でも」
言葉を継ぐ前に、一拍だけ間を置いた。
「立てないのは、罰ではないと思います」
自分の声とは思えないほど、静かに響いた。
アルヴィンの喉が、一度大きく動いた。
何か言おうとして、結局、言葉にはならなかった。
ヴァンスが、こちらを一瞥した。
「情けをかけているつもりか」
「情けではありません」
「では、何のつもりだ」
「見たままを言っただけです」
「見たままが、何の役に立つ」
「役に、立てるつもりで言ったわけではありません」
その答えに、ヴァンスが鼻を鳴らした。
「相変わらず、食えない女だ」
吐き捨てるように言うと、視線をアルヴィンへ戻した。
「兵を二人、寄越せ。連れて戻る」
ヴァンスが、後方へ短く命じた。
兵二人がかりで、アルヴィンの両脇を支えて立たせた。足は、他人の力を借りてようやく地面から離れた。
「今日はこれで退く」
ヴァンスが、こちらへ向き直った。
「だが忘れるな。忠誠のない者を、軍はいつまでも置いておかん」
その目の奥に、これまでとは違う色があった。負けを認める色ではなく、切り捨てる支度をする色だった。
隊列が、霧の中へ引き返していく。
支えられたアルヴィンの足取りだけが、他の誰よりも重かった。振り返ることはなかった。振り返る力すら、残っていないように見えた。
水路の光が、そっと近づいてきた。シアだった。
「リナ、大丈夫」
「大丈夫です」
「怒ってる顔、してない」
「怒っていません」
「じゃあ、どんな顔」
問われて、答えに詰まった。
「わかりません」
正直に、そう答えた。
いつもなら、隊列はそのまま霧の奥へ完全に消えていく。
だが今日は、柵から数百歩ほど離れた場所で、隊列の足音がぴたりと止まった。
退いたのではなく、留まったのだと、遠くの気配だけでわかった。
「エル」
呼びかけると、木立の奥から声が返った。
「聞こえていた」
「あの人たち、留まっています」
「そうだな」
声に、これまでとは違う静けさがあった。
「今日は退いたのではない。構えを、変えただけだ」
「変えた、というのは」
「わからない。だが、退く時の足音ではなかった」
曖昧なその答えが、かえって耳の奥に長く残った。
その言葉に、指先が冷たくなった。
霧の向こうで動きを止めた気配は、これまでの怒声とも違う、もっと乾いた緊張をまとっていた。
嵐の前の凪に、似ていた。
何かが、静かに始まろうとしている。そんな気配だけが、いつまでも柵の内側に居座っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第45話、アルヴィンが庭の前で「立てなくなる」話をお届けしました。今回いちばん気をつけたのは、彼の内側で何が起きているのかを、地の文で一切説明しないことです。リナの視点はあくまで外側からの観察にとどめ、足の鈍り方、懐へ伸びかけて止まる手、地面から離れない片膝——行動と沈黙だけで、七年越しの何かが噛み合った瞬間を伝えたいと思いました。
今回、庭も精霊も何もしていません。霧は動かず、根も伸びません。アルヴィンを立てなくしたのは魔法でも罰でもなく、彼自身の内側にあるものだと明確にするために、あえて庭側の描写をゼロにしました。ヴァンスの「使えぬ駒は要らん」という一言は、彼にとってアルヴィンがすでに味方ではなく駒でしかないことを示す境界線のつもりです。
リナの「立てないのは、罰ではないと思います」という一言は、この話のために早くから決めていた台詞でした。赦しではありません。ただ、七年前はパーティの盾として並び立っていた男が、今は誰の力も借りずには立てずにいる——その落差を、彼女はただ見つめただけです。赦すかどうかは、まだ彼女自身にもわからないのだと思います。
隊列が霧の奥へ消えずに留まったところで、この話は終わります。次話「静かな戦場」では、退いたはずの軍がなぜ留まったのか、その構えの正体が少しずつ見え始める予定です。ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
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