第44話: 初めての力
右手首の脈が、また一段強くなっていた。
夜明け前の畑に立って、それに気づいた。
庭の息が浅い。まだ何も起きていないのに、体の奥がもうそれを知っていた。
畑の土に、ソルがしゃがみ込んでいた。
手のひらを地面に押し当てたまま、長く動かない。
「――昨日と、違いますか」
「戻りが遅い」
短く、ソルが答えた。
「戻りが」
「削った分の力が、まだ土に戻ってきてない。畑の隅、まだ何も芽が出ない」
棘の垣根が噴き出した場所だと、すぐに分かった。
あの日から数えて、まだ十日と経っていない。
水路の方から、光の粒が近づいてきた。シアだった。
「リナ、庭、疲れてる」
「疲れて、いますか」
「うん。前より、水の音が小さい」
言われて耳を澄ますと、確かに水路の水音がいつもより細かった。
「今日また来たら、庭、大丈夫かな」
問いに、すぐには答えられなかった。
少し離れた茂みで、赤い光が低く揺れていた。カルだった。
「……今日は、様子が違う」
「様子が」
「土の下の動き、遅い。前ほど、勢いがない」
珍しく苛立ちのない声だった。
「庭が弱ってるって、言いたいのか」
「はい」
「言うなよ、そんなこと」
光が一度沈み、また戻った。
木立の奥から、エルの声が届いた。
「聞こえるか」
「はい」
「今日、軍がまた来る。前より、数を増やして」
驚きはなかった。予兆は右手首がずっと告げていた。
「庭は、もう一度拒めますか」
しばらく答えがなかった。
「拒める。だが、前と同じ大きさでは拒めない」
その言葉に、胸の奥が冷えた。
「削れた分は、まだ戻っていない」
エルが続けた。
「今日また同じ力を出せば、庭はもっと深く削れる。何年かかって戻るかも、私には分からない」
「庭任せには、できないということですか」
自分の口から出た言葉に、少し驚いた。
「――そうか」
エルの声に、初めて安堵に近い響きが混じった。
「気づいたか。今日は、お前の番だ」
「わたしに、何ができるんですか」
「まだ、私にも分からない」
「分からない、というのは」
「持っていない力の形は、誰にも見えない。使う時に、初めて見える」
エルの声は、それでも落ち着いていた。
「怖いか」
「怖いです」
すぐにそう答えた。
「でも、庭が任せてくれるなら、やってみます」
庭の外から、足並みの音が届いたのは、日が高くなる前だった。
昨日までより明らかに数が多い。土の底から伝わる震えの重さで、それが分かった。
柵の外に、霧を割って軍旗が現れた。金の縁取りの奥に、ガレス・ヴァンスの姿があった。
その後ろに、以前は見なかった荷車が数台続いていた。
「荷車を並べろ。前へは出すな、後方に固定しておけ」
ヴァンスの指示に、兵たちが素早く動いた。
荷車には、太い綱と滑車のようなものが積まれている。木を無理に引き倒すための道具だと、すぐに分かった。
「今日は、備えてきた」
ヴァンスが、こちらを見て言った。
「霧には松明を増やした。根には、油を撒く。棘には、鎖の盾だ」
「備えを、増やしたんですね」
繰り返してから、その意味を考えた。前回の異変ひとつひとつに、対策を用意してきたということだ。
「今日こそ、道を通す」
ヴァンスが、こちらを見据えて言った。
「昨日までのようにはいかん」
「それは、こちらの台詞です」
「王命だ」
ヴァンスが、懐から一枚の書状を取り出し、掲げた。
「陛下の御名で、正式に軍令書が下った。これでもう、手続きがどうのという話はできん」
初めて見る紙だった。金の封蝋が、遠目にも重く見えた。
「後ろに控えるダグラス、今日はもう口を挟むな。挟む余地もない」
「……はい」
ダグラスは、それだけ答えて帳面を抱え直した。
右手首の蔓の模様が、じわりと熱を持った。
庭の疲れが、脈の重さとしてそのまま流れ込んでくる。前回よりも、明らかに底が浅かった。
――このまま庭に任せたら、削れすぎる。
その予感は、確信に近い重さで胸に沈んだ。
「今日は、庭に頼りません」
自分でも思っていなかった言葉が、口から出た。
「頼るのは、わたし自身です」
「頼らない、だと」
ヴァンスが、片眉を上げた。
「なら、貴様が何をする」
「わかりません」
正直に答えた。
「でも、今日はわたしがやります」
言い切ってから、右手首に指先を当てた。脈が、待っていたように強く跳ねた。
「前へ! 霧に怯むな!」
ヴァンスの号令に、兵たちが動き出した。松明を掲げ、油の壺を提げ、鎖の盾を先頭に構えている。
霧が濃くなり始めた。だが、油断のない足取りは、昨日までより明らかに崩れにくかった。
柵の内側の草が、それでも低く鳴った。根が動く気配が、地の底から伝わってくる。
――庭が、また一人で応えようとしている。
止めなければならないと、体より先に心が動いた。
「――待ってください」
声に出して、庭へ呼びかけた。
これまで庭に何かを頼んだことはあっても、庭の動きそのものに割って入ったことはなかった。
目を閉じ、右手首の脈に意識を合わせる。
エル、シア、ソル、カル。名前をひとつずつ、胸の内で呼んだ。
声が、返ってきた。ひとつではなく、四つが重なって。
「――呼んだか」
「リナ?」
「……何をする気だ」
「おい」
戸惑いの混じった声だった。誰も、まだ何が起きるのか分かっていなかった。
「みんなの拒む気持ちを、わたしに預けてください」
言葉にしながら、自分でもその意味を探っていた。
「霧も、根も、棘も。ばらばらに出さなくていい。わたしが、束ねます」
「束ねる、というのは」
エルの声に、初めて戸惑いに近いものが混じった。
「一人ひとりが別々に押し出そうとしなくていい。わたしを通して、ひとつの促しにしてください」
「――できるのか、お前に」
エルが、静かに問うた。
「わかりません」
短く答え、拳を握った。
「でも、今それを試さなかったら、みんながまた別々に削れます」
沈黙が落ちた。長くはなかった。
「――いいだろう」
地面が、大きく一度沈んだ。
体の内側に、何かが流れ込んできた。
水の冷たさ、土の重さ、火の熱、木の軋み。ばらばらの感触が、右手首の一点に集まってくる。
痛みではなかった。抱えきれないほどの水を、両手ですくい止めているような感覚だった。
――これが、庭の意志の全部。
足の裏の感覚が、遠のいていく。それでも、意識だけは失わなかった。
集まった力を、押し出す先を決める。
攻撃ではない。傷つける形は、体のどこにも見当たらなかった。
ただ、押し広げる。境界そのものを、外へ向けて一時押し出す。
柵の内側にあった空気の重さが、柵の外側へとゆっくり広がっていくのを感じた。
「――出ていってください」
声を張らず、そのまま言った。
言葉にした瞬間、境界の線が体の奥でぐわりと動いた。柵から数十歩先まで、霧が壁のように立ち上がった。
だが今日の霧は迷わせるためではなかった。ただ、進む先を「ここではない」と示すように、兵たちの足元を押し返していく。
根は誰の足も絡めなかった。かわりに地面がわずかに盛り上がり、踏み出す足を自然と後ろへ滑らせた。
棘は伸びなかった。かわりに柵の周りの空気そのものが、押し返す壁のように重くなった。
「進めない……足が、前に出ない」
鎖の盾を持った兵が、うわ言のように呟いた。
誰も傷つかない。誰も転ばない。ただ、前に進めない。
――これが、促すということ。
「なんだ、これは……」
兵の一人が、後ろへ押し流されるように数歩下がった。
誰かに突き飛ばされたわけではない。足が、勝手に後ろへ動いていた。
松明の火が、ふっと弱まった。油の壺を提げた兵も、同じように後ずさっていく。
鎖の盾を構えた兵だけが踏みとどまろうとしたが、その盾ごと、体が一歩、また一歩と押し戻された。
ヴァンスの馬が、大きく後ずさった。
手綱を握る腕に、力がこもっている。だが馬は止まらず、蹄が地面を蹴って後退を続けた。
「――止まれ! 止まれと言っている!」
怒鳴っても、馬は言うことを聞かなかった。他の馬も、同じように後ろへ後ろへと下がっていく。
「将軍、馬が……馬が言うことを!」
兵の一人が、悲鳴に近い声を上げた。
喉の奥が、悲鳴を上げていた。
棘の時とは違う痛みだった。押し広げた境界の分だけ、自分の輪郭がどこまでも薄く引き延ばされていくような感覚だった。
息を吸うたび、体の芯が軋んだ。それでも、意識を保ったまま押し続けた。
――これが、代償。
庭ではなく、自分の番。
ヴァンスが、ようやく馬を降りた。
鎧の下の顔から、血の気が引いていた。剣の柄に手をかけたまま、それでも抜こうとはしなかった。
「貴様が、これをやっているのか」
声に、これまでで一番大きな動揺があった。
「はい」
声を落とさず、そう答えた。
「わたしが、やっています」
「一人の人間に、こんなことができるはずがない……」
呟くようなヴァンスの声には、いつもの余裕がなかった。
「王命を、押し返す気か」
「押し返してはいません」
「軍を丸ごと押し返すなど、そんな力が――」
「攻撃は、していません」
静かに、遮った。
「これは、庭から出ていってくださいと、頼んでいるだけです」
「頼んでいる、だと」
ヴァンスの声が、震えを帯びた。
「これが、頼むということか」
「はい」
息を整えてから、続けた。
「わたしには、あなたを傷つける力はありません。今もこの先も」
言い切った瞬間、体の奥で何かが軋んだ。指先の力が、すっと抜けていった。
「だから、離れてくださいと頼んでいます」
声を絞り出した。これが、リナの記憶にいつまでも残ることになる一言だった。
押し出す力が、最後にもう一段強くなった。霧の壁が、隊列の後方まで一気に広がっていく。
鎖の盾も、油の壺も、松明も、押し返される足の重さの前ではもう意味を持たなかった。
「――全軍、後退!」
ヴァンスの声が、上ずっていた。
昨日までの怒声とは違う響きだった。命令というより、追い立てられる者の声だった。
「置いていけ! 命が先だ!」
誰かの叫びに押されるように、兵たちが我先にと後ろへ引いていく。荷車も、綱も、置き去りにされたものが霧の中に取り残された。
柵の内側から見ているだけで、視界が何度も揺れた。
押し広げた境界を、体の内側へ引き戻す。水を吐き出すように、力が体の外へ流れ出ていった。
その後に残ったのは、骨の芯まで冷えるような疲労だった。
――立っていられない。
膝が、地面に崩れ落ちた。
「リナ!」
シアの声が、すぐそばで震えた。
「大丈夫、です」
答えた声が、自分でも驚くほど掠れていた。
「リナ、しっかり」
ソルの手が、崩れかけた体を支えた。土の匂いのする、大きな手だった。
「立てるか」
「もう少し、待ってください」
「……無事なんだろうな」
カルの声にも、いつもの尖りはなかった。
「無事、です」
「――よくやった」
エルの声が、静かに落ちてきた。
「だが、二度目はまだできんぞ、その体では」
「わかって、います」
息が上がったまま、答えた。
「今日だけで、良かったです」
指先の感覚が、じわりと遠のいていた。まだ立っていられる。それだけが、今のすべてだった。
霧の向こうで、隊列が乱れながら退いていくのが見えた。
ダグラスが、帳面を抱えたまま最後尾についていた。
「……こんなもの、規則の欄には書けない」
震える手で何かを書きつけようとして、結局帳面を閉じた。
その隊列の中ほどで、一人だけ足を止めている影があった。
アルヴィンだった。
周りの兵が我先にと引いていく中、彼だけがその場に立ち尽くしていた。霧越しでも分かるくらい、柵の内側――崩れ落ちたリナの姿へ向いたまま、目が動かなかった。
やがて誰かに肩を押され、アルヴィンの足がのろのろと動き出した。
それでも、視線だけは最後まで柵の内側に残っていた。
遠目にも、その表情は恐怖にも怒りにも見えなかった。
――何かを、思い出そうとしているような、そんな立ち姿だった。
霧に隠れる直前、彼の足がもつれるように一度、大きくよろめいた。
膝をついたまま、遠ざかる足音を聞いていた。
目の奥がちかちかして、視界の端から色が抜けていく。
右手首の蔓の模様が、燃え尽きた後の炭のように熱を失っていく。
代わりに、体の芯に鈍い痛みが居座った。これまで感じたことのない種類の疲労だった。
――庭だけじゃない。わたしも、削れた。
そのことを、今はもう他人事のようには思えなかった。
「エル」
声を絞り出すと、木立の奥から答えがあった。
「聞いている」
「これから、何回でもできますか」
しばらく、沈黙があった。
「分からない。だが、今日ので分かったこともある」
「何が、ですか」
「庭の意志は、お前を通せば一つになる。それは、庭だけでは持てなかった力だ」
その言葉を、胸の中で繰り返した。
庭だけでは足りない時が来ると、エルは言っていた。
その意味が、今日ようやく形を持った。
けれど、代償も同じだけの形を持って、体の奥に残った。
シアの光が、そっと寄り添うように揺れた。
「リナ、痛い?」
「少しだけ、痛いです」
正直に答えると、光が困ったように瞬いた。
「でも、大丈夫です」
言ってから、遠ざかっていった足音の方角に、もう一度目を向けた。
霧の向こうに消えていく背中の中に、一度もこちらを振り返らなかった影と、最後まで振り返り続けていた影があった。
その差が、なぜか胸の奥に小さな棘のように残った。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第44話、リナが初めて自分の意志で神々の力を使う話をお届けしました。今回いちばん気をつけたのは「攻撃にしない」ことです。リナは能動的な攻撃魔法を使えないという世界観のルールがある以上、力の見せ場を作るなら「傷つけずに退かせる」形しかありません。今回は、これまで精霊たちがばらばらに示していた拒絶の意志を、番人であるリナが自分の身体を通して束ね、境界そのものを押し広げて「出ていってください」という促しに変換する、という設計にしました。
代償も必ず描きたいところでした。庭の代償(土がしばらく育たなくなる)と対になる形で、リナ自身の消耗——膝が崩れ、意識が霞み、体の芯に鈍い痛みが残る——を用意しています。力を得ることは、いつも何かと引き換えになる。この作品全体を貫くルールを、リナ自身の体にも及ぼしたかった場面です。
ヴァンスは今回、これまで以上に大きく動揺しますが、まだ完全に心が折れる段階ではありません。王命という後ろ盾を得てなお通用しなかったことへの戸惑いを、剣を抜けずにいる姿に込めました。そしてアルヴィン——彼の中で何かが強く揺さぶられ始めています。次話「立てない男」では、いよいよ彼が庭の前で立ち尽くすことになります。ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
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