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最果ての地に追放されて七年、そこが神々の聖域だったと都の人間たちが気づいた時、私はもう帰る気はなかった  作者: 空乃ゆきこ


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第43話: 庭の拒絶

 夜明け前、胸の奥が締めつけられて目が覚めた。


 痛みではなかった。何かが息を吸い込んで、止めているような感覚だった。


 庭が、今日という日に身構えている。番人になってからの感応が、そう教えていた。




 外へ出ると、霧がいつもより重く地を這っていた。


 水路の方角へ呼びかけると、光の粒がすぐに近づいてきた。シアだった。


「リナ、今日だよね」


「はい。今日、来ます」


「シア、こわくない」


 言った直後、光がわずかに揺れた。


「……こわいけど、こわくない。リナがいるから」


 その言い方に、束の間だけ肩の力が抜けた。




 畑の方から、ソルが土を踏む音が近づいてきた。しゃがみ込み、地面に手のひらを押し当てる。


「動いてる」


「土が、ですか」


「土だけじゃない。木も、風も。全部が一つみたいに動いてる」


 ソルは手を離さないまま、しばらく黙っていた。


「おれが土を読むのとは、違う。おれより大きい何かが、もう動き出してる」


 短い言葉の中に、ソル自身の戸惑いが混じっていた。




 少し離れた茂みで、赤い光が苛立たしげに瞬いた。カルだった。


「……おれの出番、なさそうだな」


 拗ねたような声だった。


「出番、ですか」


「庭がやるなら、おれが火を出す必要もねえってことだろ」


 言ってから、光がふいと横を向いた。


「別に、それでいい。お前が無事なら」


 最後の一言だけ、いつもよりわずかに柔らかかった。




 木立の奥から、声だけが届いた。エルだった。


「聞こえるか」


「はい。息を、詰めているみたいです」


「今日、庭は初めて本気で拒む」


 声に、いつもの余裕がなかった。


「わたしにできることは、何ですか」


「何もしなくていい。ただ、そこにいろ」


「それだけで、いいんですか」


「お前が離れずにいることが、庭が拒む理由そのものだ」


 地面が、遠くで一度沈んだ。


「覚えておけ。今日、動くのは庭であって、精霊たちではない。私たちも、何もかもを差配できるわけではない」


 その言葉が、いつもより重く胸に残った。




 日が高くなる前に、柵の外から足並みの音が届いた。


 昨日よりも近く、昨日よりも大きかった。


 霧の向こうに、金の縁取りの軍旗が現れた。先頭に、ガレス・ヴァンスの姿があった。


「約束は守る主義だ」


 馬上から、ヴァンスが言った。


「昨日言った通り、今日、接収に入る」


「今日、ですか」


 繰り返してから、答えた。


「わたしの答えは、変わりません」


「答えなど求めていない」


 ヴァンスが片手を上げると、兵たちが柵に向かって歩き出した。




 最初に異変が出たのは、霧だった。


「――どっちだ。来た道は、どっちだ」


 柵を越えたはずの兵の一人が、数歩進んだだけで振り返り、声を上げた。


「針が、止まりません!」


 方位を確かめる小さな磁針じしん盤を取り出した別の兵が、盤面を叩きながら叫んだ。ぐるぐると回り続け、北を示さない。


「霧が濃いだけだ。落ち着け」


 ヴァンスの声には、まだ余裕があった。


 だが霧は、風もないのに濃さを増し続けていた。柵の内側へ踏み込んだ兵の輪郭が、数歩先でもう滲んで見えた。




 胸の奥が、締めつけられた。


 息を止めているような感覚が、今度は喉の奥まで上がってきた。霧が濃くなるたび、自分の呼吸も浅くなる。庭の緊張が、そのまま体の内側に流れ込んでくる。


 ――これが、直に感じるということなのか。


 右手首の蔓の模様に、指先で触れた。疼きはない。かわりに、模様の下で細い脈がひとつ、強く打った。




 兵たちが方向を見失っている間に、足元でも異変が始まった。


 地を這っていた草の根が、誰かの足首に絡みついた。振り払おうとした兵が体勢を崩し、悲鳴に近い声を上げた。


「根だ、根が動いてる!」


 別の兵が叫んだ。剣で切り払っても、切った端からまた別の根が伸びてくる。傷つける動きではなかった。ただ、進ませない動きだった。


「地形が悪いだけだ。落ち着いて足元を見ろ!」


 ヴァンスが怒鳴った。声に、初めてわずかなとげが混じっていた。




 柵の脇に控えていたダグラスが、帳面を抱えたまま口を開いた。


「将軍。これは、ただの地形の問題では――」


「黙っていろと、言ったはずだ」


 昨日と同じ言葉だったが、今日は語気が硬かった。


「……記録には、残します」


 ダグラスは小さくそう言って、それ以上は言わず、視線だけを霧の奥へ向けていた。




 昨日、兵たちが踏み固めたはずの道が、もう見当たらなかった。


 かわりに、膝の高さまで伸びた蔓と若木が、道だったはずの筋を覆っていた。目に見える速さで葉が広がり、隙間を塞いでいく。


「昨日切り開いたはずだぞ、これは!」


 斧を持った兵が、目の前で伸びる若木に声を裏返らせた。切っても切っても、切り口からまた芽が伸びる。


「火が、つかない……!」


 松明たいまつに火をつけようとした兵が、湿った火口を何度も擦りながら叫んだ。


「帯が、勝手に――」


 別の兵の革の帯が、触れてもいないのに緩んで解け、荷が地面に転がり落ちた。道具という道具が、次々に用をなさなくなっていく。




 柵の内側から見ているだけで、こちらの肩にも力が入った。


 根が締まる感覚が、自分の指先にも伝わってくる。若木が伸びる時の張りが、自分の背筋にも伝わってくる。庭がこらえている力の分だけ、体の奥が引き絞られていくようだった。


 ――苦しい。


 けれど、離れる気にはならなかった。ここに立つことが、エルの言った「拒む理由」だと分かっていたから。




 混乱の中、旅装の男が兵の一人に駆け寄り、絡んだ根から足を引き抜く手伝いをしていた。


 アルヴィンだった。


「動くな。そっちに足を出すと、もっと絡まる」


 昔取った案内役の勘なのか、根の緩む向きを見極めて、無駄のない動きで兵を引っ張り出していた。作業を終えると、一瞬だけ柵の内側へ視線を向けた。


 目が合う前に、その視線はもう別の兵の方へ移っていた。何も言わず、また次の兵の元へ駆けていった。




「隊列を組み直せ! 慌てるな、ただの茂みだ!」


 ヴァンスの声が、霧の中に響いた。


 だが、隊列は既に霧の中で三つに割れていた。誰がどこにいるのか、怒鳴り合う声だけが頼りだった。


 馬が、また嘶いた。昨日よりも多くの馬が、脚を踏み替え、後ずさろうとしていた。手綱を握る兵の顔に、はっきりとした怯えが浮かんでいた。




 ヴァンスが馬を降り、柵の際まで歩いてきた。


 鎧の下の顔に、昨日にはなかった苛立ちがあった。


「貴様が、これをやっているのか」


 問いに、繰り返してから答えた。


「わたしが、やっているのか」


「そうだ。仕掛けがあるなら今すぐ言え」


「仕掛けは、ありません」


「精霊とやらの、まやかしか」


「まやかしでは、ありません」


 声を張らず、そのまま続けた。


「これは、庭がやっていることです。わたしにも、止める力はありません」


「馬鹿を言うな」


 ヴァンスの声が、初めて低く割れた。


「土が意志を持つなど、ある訳がない」


 言いながらも、その目は霧の奥で伸び続ける若木から、離れていなかった。




「なら、貴様が命じて止めさせろ」


 ヴァンスが、剣の柄に手をかけたまま言った。


「わたしに、命じる力はありません」


 繰り返してから、続けた。


「わたしにできるのは、ただ離れないことだけです」


 その一言に、ヴァンスの眉間が険しくなった。


「離れないことが、何の力になる」


「わかりません」


 正直に、答えた。


「でも、庭はそれを望みました。だから、わたしはここにいます」


 風が止まった。霧の動きさえ、一瞬だけ静まった。




 その静けさを破るように、地面が大きく沈んだ。


 柵の内側一帯の草が、一斉に頭を垂れるように傾いだ。次の瞬間、地を割るようにして、無数の棘のある枝が地表へ噴き出した。


 膝ほどの高さまで、あっという間に垣根のように連なっていく。人の背丈近くまで伸びた場所もあった。


「うわああ!」「なんだ、これは!」


 兵たちの間から、悲鳴とも歓声ともつかない声が次々に上がった。




 棘の垣根は、誰も傷つけなかった。


 だが、通り道の全てを塞いだ。剣で切ろうとした兵の刃が、触れた瞬間に鈍く曇り、切れ味を失った。


「刃が、なまってる……こんな馬鹿な話が」


 斧の柄が、握った手の中で軋んで割れた兵が、呆然とつぶやいた。


 これが、エルの言っていた「本気」の形だった。




 胸の内側が、悲鳴を上げるようだった。


 棘が噴き出すたび、自分の肋骨の内側を何かが押し広げるような痛みが走った。息を吸うことさえ、一拍遅れた。


 膝が、震えそうになった。それでも、その場から動かなかった。


 ――離れない。それだけが、わたしの役目。


 右手首の蔓の模様が、じわりと熱を持った。




 ヴァンスが、剣を抜こうとして止まった。


 刃を向ける相手が、目の前にいなかったからだった。棘の壁も霧も、人ではない何かだった。斬りかかる形すら、与えられていなかった。


 その手が、剣の柄を握ったまま、わずかに震えていた。


「……馬鹿な」


 誰にも聞かせるつもりのなかった呟きが、震える声のまま漏れていた。




「――全軍、後退!」


 ヴァンスの声が、霧の中に響いた。


「今日のところは、退く。だが、これで終わりだと思うな!」


 声の強さは、昨日と変わらなかった。それでも、隊列を戻す足取りは、昨日よりも速かった。


 ダグラスが、無言のまま隊列の最後尾についた。アルヴィンの姿も、霧の向こうへ消えていった。振り返ることは、なかった。




 棘の垣根が、兵たちの姿が完全に見えなくなるのを待つように、静かに地の中へ沈んでいった。


 霧も、少しずつ薄くなっていく。


 その分だけ、体の中の締めつけも緩んでいった。けれど、緩んだ後に残ったのは、心地よさではなく、深い疲れだった。




「――エル」


 呼びかけると、木立の奥から声が返った。声にも、いつもより重さがあった。


「聞こえていた」


「庭は、無事ですか」


「無事、とは言い切れない」


 その答えに、息が詰まった。


「これだけの力を出せば、庭も削れる。棘を出した場所の土は、しばらく何も育たないだろう」


「守るために、庭が傷ついたということですか」


「そうだ」


 声が、一段低くなった。


「今日は、退けた。だが、いつまでもこの形で退け続けられるとは思うな」


「次は――」


 言いかけて、続きを待った。


「次は、庭だけでは足りないかもしれない」


 地面が、遠くでもう一度沈んだ。


「その時は、お前の番になる」


「わたしの番、というのは」


「まだ、話せない」


「話せない、ということですか」


「今は、まだ何も持っていないからだ。持っていないものは、渡しようがない」


 その答えに、かえって落ち着かない気持ちが残った。




 右手首の蔓の模様に、そっと触れた。


 疼きはない。かわりに、模様の下の脈が、さっきよりも強く、はっきりと打っていた。


 自分の中に眠っている何かが、初めて呼び覚まされるのを待っているような、そんな熱だった。


 まだ、それが何なのかは分からない。


 けれど、遠くない日にそれを使う日が来ると、体の奥がもう知っているようだった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第43話、正規軍による接収の実行と、それに対する庭の拒絶をお届けしました。今回一番こだわったのは「精霊が戦わない戦い」を書くことです。霧に迷わせる、根で足を止める、道具を利かなくする、棘の垣根で道を塞ぐ——どれも人を傷つける攻撃ではなく、環境そのものが「通さない」という意志を持って動く形にしました。リナが攻撃魔法を使えないという世界観のルールを守りながら、それでも軍を退かせる方法を探した結果、この形にたどり着きました。


ガレス・ヴァンスというキャラクターは、実力主義で人知を超えたものを鼻で笑うタイプです。今回はまだ心が折れる段階ではなく、あくまで「予想外の抵抗に苛立ち、それでも認めたくない」という段階に留めました。剣を抜こうとして止まる場面、震える手を誰にも見せまいとする一瞬——ここに彼のプライドと戸惑いの両方を込めたつもりです。


リナの役割を「戦う者」ではなく「離れない者」として描けたのも、今回書けてよかった点です。番人契約で誓った言葉がそのまま今日の行動になっている——エルの「お前が離れずにいることが、庭が拒む理由そのものだ」という台詞は、この話の核だったと思います。


そして最後、庭自身が「削れる」ことが明かされました。次に来る時は庭だけでは足りないかもしれない——次話「初めての力」では、いよいよリナ自身が神々の力を意図的に使う場面に踏み込みます。ここまで読んでくださって、ありがとうございました。


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