第42話: 軍が来る
夜半、土の奥で何かが軋んだ気がした。
眠りの底から引き戻されるように、目が覚めた。
胸の奥に、鈍い痛みがあった。古傷ではなかった。庭そのものの痛みが、そのまま流れ込んできたようだった。
寝床の上で、しばらく動けなかった。
番人になってから、眠りが浅くなると言われていた。今夜、それを初めて思い知った。
庭の喜びも痛みも、直に届くようになる――そう告げられた時は、言葉としてしか受け取れなかった。今はもう違う。畑の土も、水路の水も、遠くの木立も、みんな自分の肌の続きのように痛んでいた。
近いうちに、外から大勢の足並みの音が届く。あの予兆が、こんな形で戻ってくるとは思わなかった。
右手首の蔓の模様に、指先で触れてみる。疼きはない。模様の下で、細い脈のようなものが一度だけ強く打った気がした。
外へ出ると、夜気が思ったより冷たかった。霧が、いつもより低く這っている。木々の梢も、息を潜めるように静まっていた。
「――シア」
水路の方角へ呼びかけると、光の粒が水面に震えるように浮かんだ。
「リナ、こわい」
いつもより硬い声だった。
「怖い、というのは」
「わかんない。でも、こわい。地面が、へん」
シアの言葉に、迷いがなかった。迷いのなさが、かえって不安を煽った。
畑の方から、足音が近づいてきた。ソルだった。
「気づいたか」
「はい。何か――土が、震えています」
「震えてる」
ソルは短く答えると、しゃがみ込んで土に手のひらを押し当てた。しばらく黙ったまま、動かなかった。
「遠い」
やがて、そう言った。
「遠いが、近づいてる」
「足音、ですか」
「まだ、足音とは言えない。でも――同じ方向から、同じ数だけ来てる」
ソルの声は変わらず平らだった。それでも、言葉数の多さが逆に緊張を伝えてきた。
少し離れた茂みで、赤い光が一度強く瞬いた。カルだった。
「……うるさいんだよ、さっきから」
姿は見せないまま、声だけが尖っていた。
「土の下が、ずっとざわついてる。眠れやしねえ」
「怖いんですか」
「怖くねえ」
即座に、強い声が返ってきた。
「怖くはねえけど――気に食わねえ。近づいてくるものが、な」
言い切った後、赤い光がいつもより長く燃えた。誰かを威嚇するような光り方だった。
木立の奥から、声だけが届いた。エルだった。
「聞こえたか」
「はい。予兆の――」
「足音だ」
迷いのない声だった。
「昨夜より、確かに近い」
「今日、来るんですか」
問いに、しばらく答えがなかった。
「今日か、明日か。それは、私にもわからない」
声が、いつもより低く沈んでいた。
「ただ、来ることだけは、もう疑いようがない」
地面が、遠くで一度だけ沈んだ。
朝が来ても、霧は晴れなかった。
柵の方角から聞き慣れない音が届き始めたのは、日が高くなる前だった。
最初は、風の音かと思った。次第に、規則正しい響きだとわかった。
――大勢の、足並みの音だ。
神々の予兆が、そのまま音になって届いていた。
柵の外に立つと、霧の向こうから旗が現れた。
王国の紋章を染め抜いた旗だった。調査局の簡素な標識とは違う、金の縁取りが施された軍旗だった。
その下に、鎧を連ねた隊列が続いていた。三日前まで村を歩いていた測量係の姿とは、明らかに違う集団だった。
隊列の後方に、見覚えのある小さな影があった。帳面を抱え、うつむき気味に歩くダグラスだった。前へは出ず、隊列の端に押しやられるように歩いている。
調査局の役目はもう終わったのだと、その背中だけでわかった。
兵の数は、覚えている限りの調査団の何倍もあった。甲冑の擦れる音、革の軋み、統率された足並みが、霧の底まで震わせていた。これが、あの予兆の正体だった。
先頭に立つ男が、片手を上げて隊を止めた。
鎧の意匠が、他の兵とは違っていた。肩に、階級を示す金の房が三つ下がっている。
「――ここが、噂の楽園か」
男が、口を開いた。低く、よく通る声だった。
「王国正規軍第三方面、ガレス・ヴァンスだ」
名乗る声に、迷いも遠慮もなかった。
「調査局の報告は読んだ。だが、あれは調査でしかない」
「調査の、続きですか」
尋ねると、ヴァンスの目が細くなった。
「続きではない。決着だ」
後方で、ダグラスが何か言いかけて、口を開いた。
「将軍、手続きの上では――」
「黙っていろ」
振り返りもせず、ヴァンスが遮った。ダグラスは、それきり帳面に目を落とした。
「この土地は、国家が接収する」
言葉を切らずに、ヴァンスは続けた。
「書類も、許可も要らん。示せば済むことだ――力が、どちらにあるかを」
その言い方に、ダグラスの帳面を持つ手がわずかに強張るのが見えた。
「お前が、噂の女か」
ヴァンスの視線が、初めてこちらに向いた。
「小娘一人が、七年もこの土地を独り占めしていたと聞いた」
「独り占め、というのは」
繰り返してから、答えた。
「ここは、誰のものでもありません。わたしは、ただ――離れなかっただけです」
「離れなかった、か」
ヴァンスの口の端が、皮肉げに上がった。
「聞こえのいい言葉だ。だが、この国には離れなかった者に土地を渡す法などない」
「お前一人の意地で、国家の資源を眠らせておくつもりか」
声に、初めて棘が混じった。
「上に立つ者は、そういう甘えを許さん。俺の言葉が、そのまま国の言葉だと思え」
言い放つと、ヴァンスは背後の隊列を一瞥した。
「明日、正式に接収に入る。抵抗するというなら、それも構わん」
「抵抗、というのは」
「言葉通りだ」
ヴァンスは表情を変えなかった。
「退け、と命じているに等しい」
隊列の中ほどに、見覚えのある背格好があった。
軍装ではなく、旅装だった。地図らしきものを小脇に抱え、目を伏せがちに歩いている。
――アルヴィンだった。
土地に詳しい案内役として駆り出されたのだろうと、すぐに察しがついた。かつての勇者としての名は、こんな形でも使い道があるらしかった。
右手首に、意識が向いた。以前なら、疼いたはずの場所だった。
疼かなかった。蔓の模様が、静かに落ち着いているだけだった。
切り株に置いてきた鉄環のことを、ふと思い出した。あの日、受け取らなかった重みは、まだアルヴィンの手に残っているのだろうか。今はもう、それを確かめたいとも思わなかった。
目が合いかけて、アルヴィンの方が先に逸らした。何か言おうとする素振りも、なかった。隊列の中のただの一人として、彼はそこにいるだけだった。
「一人の問題では済まない、と言うんですね」
ヴァンスの言葉を一度なぞってから、続けた。
「……そうかもしれません。でも、わたしは一人じゃないので」
「一人ではない――」
ヴァンスが、鼻で笑った。
「精霊とやらの、戯言か」
「戯言では、ありません」
静かに、言い切った。
「名前をつけたものを、渡すつもりはありません。ここは、わたしが守ると誓った場所です」
風もないのに、柵の内側の草が一斉に低く鳴った。
ヴァンスの後ろで、馬が一頭急に嘶いた。
手綱を握る兵の顔に、戸惑いが浮かんだ。他の馬も、次々と足を踏み替え始めている。
霧が、より低く這い出した。まるで、柵の内側から押し返すように。
「――今日のところは、これで引く」
ヴァンスが、馬を落ち着かせようとする兵たちを一瞥して言った。
「だが、明日は違う」
背を向け、隊列に合図を送った。足並みの音が、再び揃い始める。
その中に、アルヴィンの足音も混じっていた。振り返ることは、なかった。
隊列が霧の向こうへ消えてからも、しばらく柵の前を離れられなかった。
「――エル」
「聞いていた」
声が、木立の奥から答えた。
「明日、来ると言っています」
「そうだろうな」
エルの声に、いつもと違う硬さがあった。
「馬が怯えた。草が鳴った。あれは、庭がまだ何もしていないという意味だ」
「まだ、何も――」
「本気で拒めば、あんなものでは済まない」
地面が、遠くでもう一度低く沈んだ。
「今日はまだ、序章に過ぎない」
「拒む、というのは――誰が、決めるんですか」
尋ねると、しばらく答えがなかった。
「庭が決める。お前ではなく、私でもない」
声の重みが、初めて怖いと感じるものに変わった。
その言葉だけを残し、気配が森の奥へ引いていった。
右手首の蔓の模様に、そっと触れた。疼きはない。それでも、明日という言葉の重みだけがそこに残っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第42話、第4アーク「承」の続き、正規軍の到来をお届けしました。前話の予兆——「大勢の、足並みの音」——を、そのまま音として現実に響かせることが、今回一番やりたかったことです。予兆と現実がずれずに繋がった瞬間を、リナ自身の新しい感応(庭の痛みを直に感じる、眠りが浅くなる)を通して描けたのは、番人契約を書いた甲斐がありました。
ガレス・ヴァンスという新キャラクターは、これまでの調査局のダグラスとあえて対照的に作りました。ダグラスは規則にすがる人間でしたが、ヴァンスは規則そのものを不要と言い切る人間です。「書類も、許可も要らん。示せば済むことだ」という台詞が出てきた瞬間、この人物の輪郭が一気に定まりました。
アルヴィンを軍列の中にひっそり混ぜたのも、今回意識した演出です。かつて疼いたはずの右手首が、今日は静かなままだった——この一文だけで、彼女がもう違う場所に立っていることを示したかったんです。彼の大きな見せ場はもう少し先に取ってあります。今回はまだ、隊列の中の一つの足音に過ぎません。
次話「庭の拒絶」では、いよいよ精霊たちが軍を拒む出来事が動き出します。今日の馬の怯えと草のざわめきは、まだほんの前触れに過ぎません。ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
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