第41話: 番人の契約
鍬の音が止んだ瞬間に、答えが降りてきた。
三日、迷った。迷いはずっと同じ場所を回っていた。麦のこと。二百年前の人のこと。まだ震えていた自分の声のこと。
夜、寝床で右手首の古傷に触れるたび、同じ問いに戻った。守り切れなかったら、自分もあの人のように名を忘れられるのか。答えは出ないまま、朝が来ることを三度繰り返した。
――二日目の夜、水路の音を聞きながら、麦の墓を掘った夜のことを思い出した。木の板きれで凍った土を掘った、あの手応え。誰にも見つからないようにと急いだ夜明け前の寒さ。あの時も、守れるかどうかなんて分からないまま、ただ名前を刻みたい一心で手を動かしていた。
――思い出は、板きれの感触が指先に戻ってくるところで途切れた。今の自分の手には、鍬の柄の硬さがある。
畑の畝の間で、ソルが顔を上げた。
「まだ迷ってるのか」
「はい」
「怖いのか」
率直な問いだった。誤魔化す気になれなかった。
「怖いです。守り切れなかった人がいたと聞きました」
「それで」
「それでも、行きます」
答えると、ソルは頷いただけだった。土だらけの手で額の汗を拭った。
「土は持ったな」
もらった一握りの土は、まだ胸元の布に包んだままだった。
「はい。持っています」
「なら、いい。怖いまま行けばいい」
それだけで、また鍬を振り上げた。話はそこで終わりだった。何も言わない背中に、かえって背を押された気がした。
霧の森の入口で、エルが待っていた。姿は見えない。声だけが、いつもの木立の奥から届いた。
「決めたか」
ソルと同じ問いだった。
「はい。番人になります」
「そう、か」
声に、安堵とも寂しさともつかない響きが混じった。
「怖くはないのか」
「怖いです。でも、怖くなくなるまで待っていたら、一生決められない気がしました」
「あなたらしい答えだ」
珍しく、笑いに近い響きが混じった。
「今日は送るだけだ。石の向こうは前と同じで、私には行けない」
「知っています」
「一つだけ、聞いていいか」
「はい」
「もし迷ったら、名を呼べ。私の名でも、シアの名でも、ソルの名でも。届くとは約束できないが、呼ぶことはできる」
霧の中を、二人で歩いた。会話はそれきりだった。足音は自分のものしか聞こえなかったが、隣にいる気配だけは最後まで消えなかった。
境界の石は、前に見た時と同じ姿で、苔の匂いをまとって佇んでいた。
「行ってきます」
「――待っている」
エルの声が、珍しく揺れた。
石をまたぐと、白い光が視界を包んだ。
地面が、迎えるように一度沈んだ。
「来たか」
「はい。決めました」
迷いのない声で、そう答えた。
「番人になります」
光が、ゆっくりと膨らんだ。
「なら、契約の形を伝える」
声が、静かに続いた。
「言葉と、誓いと、名を刻む場所。三つで番人は結ばれる」
「言葉と誓いは、違うんですか」
「言葉は、あなたが今ここで話す分だ。誓いは、これから先ずっと守る分だ」
「今と、この先ということですか」
「そうだ。両方を差し出せというのが、この契約だ」
「怖いです。それでも、決めました」
「怖いまま来る者を、私たちは望んでいる。怖さのない誓いは、軽い」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
「まず、言葉を」
「わたしは――」
喉が、一瞬詰まった。それでも、続けた。
「わたしは嘘をつきません。名前をつけたものは最後まで守ります。この庭を離れません」
「それだけか」
聞かれて、もう一言だけ足した。
「守り切れなかった時は、逃げずに名を呼びます。二百年前の人みたいに、黙って外へは出ません」
声にした途端、胸の奥にあった迷いが、少しだけ軽くなった気がした。
「誓いは、それでいい。あとは形だけだ」
光が、しばらく動かなかった。ただ、地の底の震えだけが、遠く、遠く続いていた。
「――名を」
足元の石が、輪郭を持ち始めた。膝の高さほどの、平らな石だった。表面に、細い光の筋が滲むように浮かんだ。
筋は迷わず、まっすぐに動いた。
り。な。
二文字が、光の線で刻まれていくのを、瞬きも忘れて見ていた。
消えていく光ではなく、残っていく光だった。それだけで、喉の奥が熱くなった。
院の裏庭で、木の板きれに麦の名を刻もうとして、うまく刻めなかったことを思い出した。あの時できなかったことが、今、目の前で叶えられていた。
光が消えた瞬間、右手首が熱くなった。
古い傷痕――印を消された跡――の上に、細い蔓のような影が浮かび上がった。触れても、痛みはなかった。消えていたはずの模様が、初めて動いたように見えた。
傷だった。印だった。約束だった。
しばらく、それだけを見つめていた。
「その名は、もう忘れられない」
声が、静かに言った。
「二百年前とは、違う」
言葉の意味を、遅れて理解した。忘れられないということは、消えないということだった。
「わたしの名前が、庭の一部になった。そういうことですか」
「そうだ。あなたはもう、外から与えられた印だけの者ではない」
「番人になった、ということは」
「庭の喜びも痛みも、これからは直に届く」
声が、そう繰り返した。前に聞いた言葉と同じだった。
「今すぐ、変わることはあるんですか」
「今夜から、庭の眠りが浅くなる。何かが起きれば、眠りの中でも気づくだろう」
「番人は、何をすればいいんですか。戦うことも、できないのに」
「戦うためではない。あなたが今まで通り、名前をつけたものを守り続ける。それだけでいい」
「それだけで、足りるんですか」
「足りる。庭が欲しかったのは、力ではなく、離れない者だった」
その一言が、七年間ここに留まってきた日々をそのまま肯定された気がした。
「もう一つ、伝えておく。近いうちに、外から音が届く」
地面の震えが、わずかに硬くなった。
「音、ですか」
「大勢の、足並みの音だ」
「それは――誰の足音ですか」
それ以上は、答えなかった。答えを急かすには、まだ早い沈黙だった。
「今は、名を持ち帰るといい」
光が薄くなっていく。地面の震えも、遠ざかっていった。
石を戻り越えると、エルが待っていた。
「――終わったか」
「はい」
差し出した右手首を、エルは見なかった。それでも、何かを感じ取ったように、声が一段低くなった。
「その手首、大事にしろ」
「はい」
水路の方から、光の粒がいくつも近づいてきた。シアだった。
「リナ、手――光ってる」
「もう消えたと思う」
「ううん、まだちょっとだけ」
シアの声は、いつも通り軽かった。それだけで、強張っていた肩から力が抜けた。
少し離れた茂みで、赤い光が一度だけ強く瞬いた。カルだった。近づいてはこなかったが、それでも見に来たのだとわかった。
右手首に、そっと触れた。
傷は、もう疼かなかった。かわりに、蔓の模様が、月明かりの下でかすかに光っていた。
遠くから届くという足音を、まだ聞いていない。
けれど、その音を待つ自分がいることに、気づいていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第41話、第4アーク「承」の開幕、番人契約の話をお届けしました。契約の形を「言葉・誓い・名を刻む場所」の三つに分けたのは、リナが今まさに口にする言葉と、これから先ずっと背負う誓いを、はっきり別のものとして提示したかったからです。今の自分と、この先の自分に、両方本気で向き合わせたい場面でした。
右手首の古傷を書き換えるアイデアは、この作品を書き始めた頃からずっと温めていました。追放の日に刻まれた印消しの跡が、七年かけて別の意味を持つ模様に変わる——傷そのものは消えずに、意味だけが変わる。それがこのキャラクターにとって一番自然な救い方だと思ったんです。院の裏庭で麦の名を板きれに刻めなかった過去を、石に刻まれる自分の名と重ねられたのも、書いていて嬉しい発見でした。
二百年前の人の名前が忘れられていったのに対して、リナの名は「もう忘れられない」と告げられる対比も、今回でようやく形にできました。
次話からはいよいよ、都からの正規軍が動き始めます。ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
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