第40話: 七年前から
頬をかすめた温もりが、指先に変わった。
触れられたのだと、遅れて気づいた。境界の石を越えてから、もう何度目かもわからない、そんな感触だった。
名前も呼ばれないまま、光はまだ、続きを言おうとしていた。
金色に染まった光の縁が、ゆっくりと白へ戻っていく。
「あなたが、本当はいつから見られていたのか」
声が、そこでもう一度、同じ言葉をなぞった。急かす響きはなかった。ただ、待つ側の重みだけは、はっきりと伝わってきた。
「七年前より前、ということですか」
尋ねる声が、自分でも驚くほど掠れていた。
「そうだ」
迷いのない答えだった。
地面が、深く一度沈んだ。
沈んだきり、しばらく戻らなかった。何かを思い出そうとしている――そんな沈黙だった。
「孤児院に、痩せた犬がいた」
言われて、息が止まった。
誰にも話したことのない話だった。麻布の継ぎ接ぎの服よりも前、まだ院の灰色の壁の中にいた頃の話。
「覚えて、いるか」
覚えていないはずがなかった。
麦色の毛をした、片耳の折れた犬だった。院の裏庭に迷い込んできて、誰も名前を呼ばなかった。餌をやれば無駄になる、と院長に言われた。構わず、こっそりパンの欠片を運んだ。
「名前は――つけませんでした」
喉まで出かかった言葉を、何度も呑み込んだ。名前をつければ、失うことも決まってしまう気がした。だから麦色の毛のことだけを、心の中でそう呼んだ。声には、一度も出さなかった。
「誰にも言いませんでした。言えば、取り上げられると思ったから」
「知っている」
短い答えだった。
「あなたは、あの犬が死んだ夜も誰にも言わなかった」
冬の終わり、麦色の犬は裏庭の隅で冷たくなっていた。埋める場所も道具もなく、木の板きれで土を掘った。掌に血豆ができるまで掘った。誰にも見つからないよう、夜明け前に済ませた。
泣いたのは、そのときだけだった。誰にも見られていないと、そう思っていたから。
「あの夜から――」
声が、間を置いて続いた。
「あなたを、見ていた」
膝の力が、抜けそうになった。
「見ていただけ、ですか」
声が震えた。
「あの後もずっと――パーティにいた間も、ですか」
喉の奥から、抑えていたものがせり上がってきた。
「補欠だと言われて、荷物持ちをさせられて。誰も、わたしの名前をまともに呼ばなかった。あの七年間も、見ていたんですか」
声が、大きくなっていた。自分でも止められなかった。
「隊長の前で、荷物を放り出されて笑われた日も。回復薬を人数分持たされて、自分の分だけ余分だと言われた日も」
言いながら、指先が冷たくなっていくのがわかった。忘れたつもりでいた日々が、次々と喉元にせり上がってきた。
「あの時――何か、思ったんですか。見ていて、何も感じなかったんですか」
「感じていた」
声の調子が、初めて沈んだ。
「独りで荷を担いで歩く夜を、何度も見ていた。声をかけられなかったことを、軽んじたことは一度もない」
「なら、なぜ」
言葉が、喉に絡んだ。
「見ていて――何も、しなかったんですか」
拳を握った。爪が、掌に食い込んだ。
「できなかった」
光が、沈むように翳った。詫びるような響きではなく、事実を告げる響きだった。
「あの頃のあなたは、都の世界にいた。私たちの手が届くのは、この庭の内側だけだ」
「見ることは、できた。届くことは、できなかった」
声が、続けた。
「あなたが追放され、この庭の境に足を踏み入れたあの瞬間――初めて手が届いた」
「だから、七年前からと言ったんですか」
「そうだ。見ていたのは、もっと前から。守れたのは、あの日からだ」
喉の奥に、言葉がひとつも降りてこなかった。沈黙だけが、重たく肩にのしかかった。
怒りが、消えたわけではなかった。ただ、その行き場を、どこに求めればいいのかも、わからなくなっていた。
見ていたのに、届かなかった。届かないまま、七年前のあの日を待つしかなかった――そう言われて、余計に苦しくなる自分がいた。
「――ずるいです」
やっとのことで、それだけ言った。
「そんなの、ずるいです」
声にした途端、涙が一筋、頬を伝った。指で拭う前に、風がそれを乾かした。
「そうかもしれない」
声は、否定しなかった。
「それでも、名前をつけられなかった、あの夜からあなたはずっと庭の望むものと同じものを持っていた」
「名前をつけなくても、見捨てない――そういうことですか」
「そうだ。あなたは誰にも命じられる前から、それを知っていた」
光が、ふわりと膨らんだ。
「私たちが選んだのではない。あなたが、ずっと前から選ばれる形をしていた」
風が凪いだ。
光の奥、輪郭の定まらない何かが、ほんの少しだけ形を変えた気がした。名前のつけようのない何かであることに、変わりはなかった。
「まだ、聞きたいことがあります」
「言うといい」
「二百年前の人は――今も、庭のどこかにいるんですか」
地面が、かすかに震えた。
長い間があった。
「いない」
短い答えだった。
「その者は、招かれた。庭の番人になる約束で」
番人、という言葉が、耳に残った。
「その者も、名前をつけたものを最後まで守ると誓った。だが――」
声が、そこで一度、途切れた。
「守り切れなかった」
声が、低く沈んだ。
「一つだけ、手放した。誰にも気づかれないと思って、嘘をついた」
「嘘――」
「その者は、庭の外へ出た。名づけたものを置いたまま。戻ると言って、戻らなかった」
息を呑んだ。
「それで、名前を――」
「消したのではない。忘れられたのだ。誓いを破った者の名は、庭がゆっくりと思い出せなくなっていく」
「エルだけが、まだ覚えているんですね」
声だけの姿のまま、いつも一歩下がった場所から庭を見守ってきた、あの精霊の名だった。
「エルは、その者を近くで見ていた。近くにいた者の記憶は、庭よりも長く残る」
「名前を、教えてもらえますか」
尋ねると、光が少しだけ縮んだ。
「その名は、まだ返っていない」
前にも聞いた答えだった。
「返る、日が来るんですか」
「来るかもしれない。今は、まだだ」
それ以上は、聞いても無駄だと分かる沈黙だった。
声の重みが、また変わった。
「あなたにこれを話したのは、脅すためではない」
「番人になれ、ということですか」
自分の声が、思ったよりも硬くなっているのに気づいた。
光が、ゆっくりと膨らんだ。
「あなたに、この庭の番人になってほしい」
はっきりと、そう告げられた。
「今すぐに答えは求めない。それも、あなたが選ぶことだ」
「選ばなかったら」
「そのときは、これまでと同じだ。あなたは、ただこの庭に暮らす者として変わらず在る」
脅しではないと、そう言ったばかりの声だった。信じていいのか、まだわからなかった。
「番人になったら、何が変わるんですか」
尋ねると、光がわずかに揺れた。
「あなたは、庭そのものに近づく。庭の喜びも痛みも、今よりずっと直に受け取ることになる」
「それは――重い、ということですか」
「軽くはない。だが、独りで背負わせはしない」
答えになっているようで、まだ何かが足りない気がした。だが、今はそれ以上、聞く言葉が見つからなかった。
光が消える前の静けさの中、いつも傍にいてくれる精霊たちの顔が、代わる代わる浮かんだ。
シアの、水面に映った泣きそうな顔。
ソルの、乾いた土の重みを渡してくれた手のひら。
カルの、ぶっきらぼうな一言。
番人になるということが、あの三人と交わした約束の続きのように思えてきた。都合よく思おうとしているだけかもしれない。分かっていて、なお、そう思わずにはいられなかった。
「二百年前の人みたいに――なれなかったら」
声が、思ったより小さく漏れた。
「わたしも名前を、忘れられるんですか」
怖くて、聞かずにはいられなかった。
「あなたは七年間、名づけたものを一つも手放さなかった」
迷いのない答えだった。
「それが答えの一つだと、私は思う」
「まだ、迷っています」
正直に言った。今のわたしに、それ以上取り繕う余裕はなかった。
「怒っています。少しだけ、安堵しています。それから――」
言葉が続かなかった。七年間の孤独が、報われたのかどうかも、まだわからなかった。
「それでいい」
声が、答えた。
「迷ったまま、来るといい。答えは、急がなくていい」
光が、少しずつ薄くなっていく。
地面の震えも、遠ざかっていくのがわかった。
「番人の契約には、形がいる。言葉と誓いと、名を刻む場所が」
「それは――」
「次にこの石を越えるとき、伝える」
声の名残が、最後にもう一度だけ、頬を撫でた。二年目の冬に触れた、あの温もりによく似ていた。
光が消えた後も、しばらく立ち尽くしていた。
境界の石を戻り越えると、霧の隙間から、水の匂いがかすかに漂ってきた。
「――シア」
姿は見えなかった。水路の続く方角から、確かに近づいてくる気配があった。七年前、初めて言葉を交わした、あの気配だった。
「戻ってきて、くれた」
声だけが、先に届いた。泣きそうな、それでいて笑っているような声だった。
「戻る、約束をしましたから」
言った途端、目の奥がまた熱くなった。今度は、悲しみとは違う熱さだった。
霧の向こうから、足音がもう一つ近づいてきた。
「――エル」
霧の森を、迷わず歩かせてくれた声だった。
「戻ったか」
声だけの気配が、いつもより、わずかに揺れていた。
「番人に、なってほしいと言われました」
エルの声が、すぐには返ってこなかった。かわりに、木々のざわめきだけが長く続いた。
「そう、来たか」
エルの声に、初めて聞く響きが混じっていた。安堵とも、緊張とも取れる響きだった。
「今度は、わたしが選ぶ番です」
答える声は、まだ震えていた。それでも、迷いだけは、確かに自分のものだった。
自分の手のひらを、見下ろした。
木の板きれで、凍った土を掘った手。
つけられなかった名前を、それでもずっと抱えていた手。
迷いを抱えたまま、次を選ぼうとしている、今の手。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第40話、第4アーク「起」の最終話をお届けしました。今回は「いつから見られていたか」という、EP39から持ち越した問いに正面から答える回でした。答えを、孤児院時代の名もない犬のエピソードに落とし込んだのは、リナというキャラクターの信念(名前をつけたものは最後まで守る)が、実は勇者パーティに入るよりずっと前、誰にも見せていない場所で既に固まっていたことを描きたかったからです。
「見ていたのに、届かなかった」という神々の答えは、都合のいい救済にしたくなくて、あえて限界を持たせました。見守られていたことは救いであると同時に、七年間の孤独がまるごと消えるわけではない——その両方をリナに抱えさせたまま次に進みたかったんです。
二百年前に名を消された者の顛末も、今回で一つの区切りをつけました。誓いを破った者の末路を知ってなお、番人になるかどうかをリナ自身に選ばせる形にしたのは、このシリーズを通して大事にしてきた「選ぶのはいつも自分」というテーマの総仕上げのつもりです。
次話からは第4アーク「承」、いよいよ番人の契約と、都からの正規軍の再来が始まります。ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
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