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最果ての地に追放されて七年、そこが神々の聖域だったと都の人間たちが気づいた時、私はもう帰る気はなかった  作者: 空乃ゆきこ


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第39話: 神々の声

 名前を呼ばれた気がした瞬間、地面がひとつ、大きく息をついたように沈んだ。


 膝から崩れそうになるのを、かろうじて堪えた。


 足の裏に伝わる重みは、これまで庭で感じたどの震えとも違った。獣の足音でも、風の唸りでもない。もっと大きな何かが、今、身じろぎをしている――そう思うしかない揺れだった。




 エルの気配を、探した。


「エル」


 声に出してみたが、返事はなかった。境界の石の内側には、エルの声も届かないのだと、今になって思い知った。頼れる気配が一つもないまま、光の中に立っている。




 白い光が、脈打つように強くなった。強くなるたび、耳の奥で低い音が響いた。声というより、遠くで鐘を一度だけ打ったときの、あの長い余韻に近かった。


 風がどこからともなく吹き抜けた。頬に触れる空気に、匂いが混じっていた――焦げた匂いでも、土の匂いでもない。初めて嗅ぐはずの匂いなのに、なぜか懐かしさを覚えた。七年前、この庭に流れ着いた最初の夜に感じた気配と、どこか重なる気がした。あの時よりも、もっと深く、もっと重たい匂いだった。


 光の奥で動いていた輪郭が、少しずつ近づいてくる。人の形でも、獣の形でもなかった。輪郭という言葉すら、当てはまらない気がした。ただ、そこに「在る」ということだけが、はっきりと伝わってきた。


 息を止めたまま、頭の隅で、二百年前に名を消された者のことを思った。エルの声が、耳の奥によみがえる。「招かれて、そして名前を忘れられた」――今、目の前で起きていることが、それと同じ道の始まりなのかもしれないと思うと、うなじの毛が逆立った。


 それでも、後ずさる足はなかった。この庭を知らないままでいることの方が、今のわたしには、よほど恐ろしかった。




 届いた響きは、声というより震えだった。


 母音の並びだけが、かろうじて聞き取れた。舌に乗せたことのない音だった。呼びかけられているのだとわかったが、自分の名前ではないことも、同じくらいはっきりわかった。


 麻布の内側に畳んだままの、あの紙切れの一文が、頭の隅をよぎった。二百年前、名前を消された誰かの記録に綴られていた一文。塗り潰された名前の持ち主も、最初はきっと、こんなふうに別の名前で呼ばれたのかもしれない。


 答えようとして、喉が動かなかった。


「――違います」


 やっとのことで、それだけ声にした。


「わたしは、リナです」


 言った瞬間、地面の震えがふっと止まった。風も、匂いも、一拍分だけ止まった気がした。


 静けさの中で、光がゆっくりと色を変えた。白から、淡い緑がかった光へ。庭の若葉の色に、どこか似ていた。なぜ緑なのか、理由はわからなかった。それでも、色が変わるたびに、何かが伝わろうとしている気がしてならなかった。


「――リナ」


 今度ははっきりと、自分の名前が届いた。声は一つではなかった。幾つも重なっていながら、一つの声のようにも聞こえた。木の軋みと、水のせせらぎと、地の底から伝わる震えが、ひとつに束ねられたような響きだった。


 庭そのものが、話しかけてきているとしか思えなかった。


「間違えた。すまない」


 その一言に、少しだけ体の力が抜けた。詫びる、という行為が、こんな存在にもできるということが、なぜだか意外だった。




 風が、また吹いた。今度は撫でるような、優しい風だった。


「あなたの、名前」


 声にならない声が、そう続けた。


「呼び慣れた、別の名前と混ざった。長く、呼んでいなかった名前だ」


「二百年前の人、ですか」


 尋ねると、光がわずかに揺らいだ。答えるまでに、間があった。


「その名は、まだ返っていない」


 それだけだった。それ以上は、続かなかった。


「……そうですか」


 それだけ言った。問い詰める気にはなれなかった。今は、それよりも先に聞かなければならないことがある――そう感じていた。




 あの冬の記憶が、不意によみがえった。二年目、薪が尽きて水路の水も凍りついた夜だった。


 指の感覚がなくなるまで体を丸めて、「朝なんて、来ない」――誰にともなく、そうつぶやいた。声にした途端、それが本当になる気がして、すぐに口をつぐんだ。頬を伝った涙が、途中で凍って重くなったのを覚えている。誰にも見つからず、誰にも呼ばれず、ただ独りで凍え死ぬのだと、あの時は信じていた。


 それでも、朝は来た。凍りついた指先に、ふっと微かな温もりが触れた。震えが、少しずつ止まっていった感触だけは、今も鮮明だった。あの時は、風のいたずらだろうと思って、深くは考えなかった。




 地面がまた一度、静かに沈んだ。今度は震えというより、深く息を吸うような動きだった――光が周囲の空気ごと、大きく膨らんでいく。


「あなたに、伝えることがある」


 声の重みが変わった。今までのどの一言より深く、揺るがなかった。


「七年前から」


 息を止めた。


「あなたを、選んでいた」




「――え」


 声にならないような、小さな声が漏れた。


 言葉の意味が、すぐには繋がらなかった。


 選んでいた――七年前から。七年前といえば、あの日しかない。荷物を放り出され、行き先も知らされないままだった。霧の中を歩かされた、あの日だ。


「追放された、日からですか」


 声が震えないよう、腹に力を入れて聞いた。


「そうだ」


 迷いのない答えだった。


「あの日から、あなたを守っていた」


 右手首の古傷が、疼いた。思わず、視線を落とした。


 印を消された跡。使い道がないと言い渡され、列の外に置き去りにされた。あの日の感触が、皮膚の内側からよみがえった。守られていた――その言葉と、あの日の記憶が、うまく重ならなかった。


 指先で、古傷にそっと触れた。膝が震えていた。寒さのせいではないと、自分でもわかっていた。


 しばらく、声が出なかった。光だけが、変わらずゆっくりと脈打っていた。急かされている感じは、しなかった。むしろ、待たれている――そんな気配だった。




 ようやく、言葉が出た。


「なぜ」


 声が、思ったよりも掠れていた。


「なぜ、追放される前に――教えてくれなかったんですか」


 喉の奥から、堰を切ったように続いた。


「あの七年間、独りだと思っていました。誰にも必要とされていないと。守られているなんて、知らなかった。知っていたら――」


 そこで、言葉が途切れた。知っていたら、何が変わったのか。自分でもわからなかった。


 それでも、聞かずにはいられないことが、もう一つあった。


「二年目の冬、凍える夜がありました。あれも、見ていたんですか」


 声が、思ったより硬くなった。


「見ていた」


 迷いのない答えだった。


「あの夜、火の欠片を運んだ精霊がいたはずだ。あなたの元へ、届けさせた」


 言われて、思い出した。凍りついた指先に触れた、あの微かな温もり。風のいたずらだと思って、深くは考えなかったものだった。


「それも――あなたたちが」


「導いただけだ。その温もりを受け取ったのは、あなただ。朝まで抱き続けたのも、あなただった」


 答えになっていて、答えになっていない気がした。それでも、噓ではないことだけは、はっきりわかった。




 風が、答えを待つように凪いだ。


 光の揺らぎだけが、規則正しく続いていた。


「知っていたら、あなたはここへ来なかった」


 静かな声だった。責めるでも、慰めるでもなかった。


「あなたが、自分で選ぶ必要があった」


「自分で……選ぶ」


 声に出して、確かめるように繰り返した。それは、この七年間、誰にも教わらずにやってきたことの名前だった。


「守られていると知っていれば、あなたは追放を耐えるべき試練として受け止めただろう。誰かの用意した道として」


 声が、続けた。


「だが、あなたはここに残った。自分の足で。誰にも言われず、誰の加護も知らずに」


「四季を数え、名前をつけた。この庭を、自分の庭だと決めた」


「それが――」


「それが、あなただった。私たちが守っていたのは、あなたが選んだという事実だ」


 それでも、聞かずにはいられないことが、まだ残っていた。胸の奥が、きつく締めつけられた。


「もし――わたしが、この庭を選ばなかったら」


 声が、掠れた。


「都へ帰ると言っていたら、見捨てるつもりだったんですか」


 役に立たないと判断されれば、また置き去りにされる。その恐れは、七年経った今も、消えていなかった。


 少しの間があった。長い間だった。


「見捨てはしない。あなたが都を選んでいたなら、それでいい。私たちは、それを見届けただけだ」


 声に、迷いはなかった。


「私たちが望んだのは、あなたが従うことではない。あなたが、選ぶことだった」




 息が、詰まった。


 泣くような場面ではないと、頭のどこかでわかっていた。それでも、目の奥が熱くなるのを止められなかった。


 まず、シアの顔が浮かんだ。水面でくしゃりと歪んだ、あの顔。震える指先が水面に触れて、輪を広げていく――「戻ってきて」。声が、そこで一度、詰まっていた。今にも泣きそうな、その一瞬の間まで、はっきりと思い出せた。


 ソルの、乾いた土を渡してくれた手のひらの重みも思い出した――「忘れるな」。


 カルの声も、耳の奥で鳴った――「無事に、戻ってきやがれ」。


 三人の、たった一言ずつ。それが、誰にも知られないまま守られていた七年間の、ただの日常だったのだと思った。嗚咽が、奥歯の隙間から漏れた。


「わたしは、ただ――」


 声が、また途切れた。


「ただ、生きていただけです。役に立ちたくて。それだけでした」


 しばらく、返事がなかった。息を止めて、答えを待った。


 声が、水のせせらぎのように和らいだのは、それからだった。


「それでいい。それで、良かった」


 地面が、優しく震えた。まるで、頷くような動きだった。


「あなたは、噓をつかない。名前をつけたものを、最後まで守る。それは、この庭が最初に望んだものと同じだった」


「わたしが、選ばれた理由――それ、ですか」


「一つだ」


 声の重みが、そこで少し変わった。光が、ふわりと膨らんだ。今までで一番、大きな揺らぎだった。


「まだ、話していないことがある」




 まだ、ある。


 指先に、力がこもった。何が来るのか、見当もつかなかった。ただ、これで全部ではないということだけは、はっきりと伝わってきた。


 光が、一度だけ大きく脈打った。地面の震えが、遠くまで広がっていくのがわかった。庭全体が、次の言葉を用意しているような、そんな気配だった。


 風が止まり、匂いも薄れ、光だけがそこに残った。あの、覚えのあるはずのない匂いが、最後にもう一度だけ濃く香って、それきり消えた。


 声が、また届いた。今度は、これまでよりも低く、深いところから響いてくる声だった。


「二百年前のこと――そして、あなたが本当はいつから見られていたのか」


 その先を、光はまだ、言おうとしなかった。ただ、白い光の奥で、輪郭の定まらない何かが、ゆっくりとこちらへ手を伸ばすように――いや、そう見えただけかもしれない――動いた。


 光の縁が、白から、ほんの一瞬だけ淡い金色に染まった。さっきの、あの若葉に似た緑とも違う色だった。この光は、色を変えるたびに、何かを教えようとしているのかもしれない。


 触れられる直前のような、かすかな温かさが頬をかすめた気がした。それは、二年目の冬に感じた、あの温もりによく似ていた。


 次の言葉を待つ間だけが、やけに長く感じられた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第39話をお届けしました。ずっと書きたかった「神々の声」の回です。今回、神様を人の姿にしないというのは最初から決めていました。姿を描いてしまうと、途端に人間くさい存在になってしまう気がして、それだけは避けたかったんです。光の脈打ち方、地面の震え、風に混じる匂い――庭そのものが喋っている、という感覚を出すのに苦労しましたが、書いていて一番楽しい回でもありました。


「七年前からあなたを選んでいた」という一言は、実はプロットを立てた最初の段階からずっと温めていた台詞です。守られていたと知って喜ぶだけでは終わらせたくなくて、リナには「なぜ先に教えてくれなかったのか」ときちんと怒ってもらいました。そこに対する答えも、リナというキャラクターの芯——自分の意思で選ぶこと——にちゃんと繋がるように書いたつもりです。


とはいえ、今回明かされたのはまだ真相の一部です。二百年前のこと、そしてリナがいつから見られていたのか、その核心は次話に持ち越しになりました。


次話「七年前から」で、いよいよ核心に触れます。ここまで読んでくださって、ありがとうございました。


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