第38話: 庭の中心へ
森の奥に灯った光は、三日経っても消えなかった。
夜になっても昼になっても同じ強さで灯り続ける、青白い光だった。
庭で七年過ごして、こんな光を見たことは一度もなかった。
最後の兵が霧の中へ消えてから、庭は驚くほど静かに元へ戻っていった。水路の水嵩は七年見慣れた高さのまま揺れず、柵の外に残された杭と縄だけが、誰にも片付けられないまま朝露に濡れていた。
それでも、何かが以前と同じではなかった。
朝の見回りに出ても、ソルは畑の縁に立ったまま、いつもより長く土を見下ろしていた。声をかけても、短い相槌しか返ってこなかった。カルは水路のそばに寄りつかず、遠くの茂みで赤い光を時折瞬かせるだけだった。人懐こいはずのシアでさえ、朝の挨拶のあとは水面から半分だけ顔を出したまま、じっとこちらを見ていることが増えた。
庭全体が、何かを待っている。
その落ち着かない気配は、風向きが変わる直前の、あの妙な静けさによく似ていた。言葉にされたわけではなかったが、そう感じるだけの理由はあった。
畑の畝を数えるふりをして、実際は時間を数えていた。エルが「終わった」と告げたあの夜から、まだ何も終わっていない気がしていた。調査局の娘ミラが去り際に手渡していった紙切れは、麻布の内側に畳み直したまま、読み返さずに持ち歩いていた。開いた夜に目で追った一文だけが、頭の芯に貼りついたまま離れなかった。二百年前、名前を消された誰かの記録に綴られていたのと、同じ一文だった。折り目のところだけが、指の脂で少し柔らかくなっていた。
二百年前、同じ光を宿した誰かがいた。名前は塗り潰され、記録はそこで途切れていた。その先を、まだ誰にも聞けずにいた。
朝露が二度、草の先で凍る間があった。
三日目の朝、水を汲みに水路へ下りる道すがら、森の奥の光がひときわ強く、脈打つように一度だけ瞬いた。理由はわからなかったが、それを見た瞬間、今日なのだと、腑に落ちるものがあった。水路に下りたところで、木立の奥から低い声が届いた。
「――支度は、できているか」
エルの声だった。振り返っても、姿は見えない。いつものことだった。
「支度、というのは」
「呼ばれる日が来た、ということだ」
桶を持つ手に、力が入った。水面が小さく揺れた。
「今日ということですか」
「今日だ」
それだけ言うと、木の軋む音が一度した。他には、何も付け加えなかった。
支度といっても、特別に用意するものはなかった。着替えを整え、水を飲み、いつも通りに髪を蔓で束ねただけだった。戻れないかもしれない場所に、荷物の心配をしても仕方がなかった。それでも念のため、干した木の実を一つだけ袋に入れた。麻布の袖に腕を通す動作の一つひとつが、いつもより重く感じられた。
水路のそばで、シアが待っていた。
「行くの」
「うん」
「シアも、行っていい」
少し迷ってから、答えた。
「――ここまでにしてください」
シアの顔が、水面の上でくしゃりと歪んだ。泣くというより、困っているような顔だった。
「わからないところに、行くから」
「わたしにも、わからないところです」
正直に答えると、シアはしばらく黙っていた。それから、小さな声で言った。
「戻ってきて」
水面に映った顔が、笑おうとして、うまくいかなかった。震える指先が一度だけ水面に触れて、輪を広げた。
「戻ります」
迷わず、そう答えた。約束できることが、他に見当たらなかった。
畑の方から、ソルが歩いてきた。何も言わず、乾いた土を一握り、こちらの手のひらに乗せた。七年前、初めて種の蒔き方を教わった時と同じ、ざらついた重みだった。
「――忘れるな」
短く、それだけ言った。何のためかは、聞かなかった。ただ、土を握り込んでおいた。
水路の少し先で、赤い光が一度だけ強く瞬いた。カルの気配だった。
「……無事に、戻ってきやがれ」
風に紛れるほど小さな声が、茂みの奥から届いた。近づいてはこなかった。それでも、素通りしていく気にはなれず、光の方角に軽く頭を下げた。
水路を振り返ろうとして、一瞬だけ迷った。振り返れば、足が止まる――そう思って、振り返らずに、森へ足を向けた。
エルの気配は、水路を離れ、森の奥へと動き出した。ついていく他に、道はなかった。
最初のうちは、見慣れた小道だった。何度も薬草を摘みに通った道で、迷うはずのない道だった。だが、歩くごとに、足元の感触が少しずつ変わっていった。
踏みしめる土が、次第に柔らかくなった。苔が厚く重なり、足音を吸い込むように消していった。自分の足音が、自分の耳に届かなくなっていく。それだけで、うなじの産毛が細かく逆立った。
「エル」
思わず、声が出た。
「――なんだ」
「足音が、消えます」
「この先は、そういう場所だ」
短い答えが、木の間を抜けて届いた。それだけで、少しだけ息がしやすくなった。
霧が、いつもより濃かった。木々の輪郭が滲み、進む先が白く塗りつぶされていく。振り返ると、来た道さえ、もう白い膜の向こうだった。
――あれは、七年前、この庭に流れ着いた最初の夜のこと。
荷物を放り出され、行き先も知らされないまま、霧の中を歩かされた。道はなく、目印もなく、ただ足が沈む感触だけを頼りに進んだ。あの夜も、こんなふうに自分の足音が聞こえなくなっていった。何もかもが白く塗りつぶされて、生きて朝を迎えられるとは思っていなかった。
――今、また同じ白さの中を歩いている。
違うのは、後ろに誰もいないことと、進む先に、名付けようのない何かが待っていることだった。
白い霧の中を歩きながら、七年間のことが、順序もなく浮かんでは消えていった。
三年目の冬、水路の陰から初めて名前を教えてくれたシアの声。「うん、いつもしてる」——あの日、拙く繰り返された一言が、なぜだか一番はっきりと耳の奥に残っていた。四年目の夏、意地を張って近づいてこなかったくせに、雨の日だけ軒先まで来ていたカルの赤い光。ソルに手を取られて教わった、種を蒔く深さと間隔。四季が一巡するごとに、都に帰るという言葉が、少しずつ形を失っていったこと。
誰かに認められたくて始まったはずの毎日が、いつの間にか、認められることそのものを忘れていた。名前をつけ、名前を呼ばれ、それだけで足りる日々があった。
その積み重ねの果てに、この霧がある。都合よく理由を求めるほど、地に足がつかなくなっていった。
鳥の声が、いつからか聞こえなくなっていた。
水音も、風の音もなかった。空気そのものが重たく、一歩ごとに肩へのしかかってくるようだった。まるで、深く積もった雪の下を歩いているような、そんな圧迫感だった。
それでも、足は止まらなかった。エルの気配だけが、変わらず前を導いていた。
「エル」
霧の中に、声をかけた。
「二百年前の人のことを、また聞いていいですか」
「聞くのは自由だ」
「名前を呼ばれなくなった、その人は――どうなったんですか」
しばらく、答えがなかった。木の軋む音さえ、この場所には届かなかった。
「その問いに答える資格は、私にはない」
「じゃあ、誰に」
「――もうすぐ、わかる」
答えになっていないことは、わかっていた。それでも、それ以上は聞けなかった。
指先が、冷たくなっていく気がした。使い道がないと言い渡され、列の外に置き去りにされた、あの日の感触が、掌の内側によみがえった。名前を失うというのは、少しずつ透明になっていくことだと、身体の方が先に覚えていた。名前を呼ばれなくなるということが、どれほどの意味を持つのか、七年前の自分が一番よく知っていた。
それでも、足を止める気にはなれなかった。
「――行きます」
静かに、言った。
言ってから、少しの間、言葉を選んだ。今は、はぐらかさずに言う。そう決めてから、続けた。
「わたしの庭のことを知らないままでいるのは、嫌です」
その言葉に、エルは何も返さなかった。ただ、気配が、わずかに近づいたのがわかった。
しばらく歩いて、思い出したように尋ねた。
「エルは、怖くなかったんですか。二百年前」
「私は、あの時まだ若かった」
珍しく、すぐに答えが返ってきた。
「今の私よりも、ずっと」
「精霊にも、若い時があるんですか」
思わず、尋ねた。
「――ある。老いる、とは違う形でだが」
「今のエルは」
「若くはない。だが、忘れてもいない」
それきり、口を閉ざした。木の軋みだけが、遠くでかすかに響いた。精霊にも若い時があるということが、なぜだか、少しだけ意外だった。
霧が、不意に薄くなった。
代わりに、光が変わった。木漏れ日でも朝日でもない、どこか青みを帯びた光が、足元の苔をうっすらと照らしていた。空気の重さは変わらないまま、肌に触れる温度だけが、少しずつ低くなっていった。
前方に、苔むした古い石の並びが見えた。門というには小さく、境界というには大きい、そんな石だった。表面には、かつて彫られていたはずの線の名残が、風雨に削られて微かに残っていた。人の手によるものか、それすら判然としないほど古かった。それより先には、木も草も見当たらなかった。ただ、白い光が満ちているだけだった。
握っていた土が、いつのまにか手のひらの汗で湿っていた。ソルが渡してくれた土だった。捨てる気にはなれず、麻布の袋にそっと移した。何の役に立つのかはわからない。それでも、七年分の重みが、その一握りに詰まっているのがわかった。
「――ここまでだ」
エルの声が、初めて足を止めさせた。
「エルは、一緒に行かないんですか」
「私は、この石より先には入れない」
声に、隠しきれない重みがあった。今まで聞いたどの声とも違う、揺らぎに似た響きだった。
「なぜ」
「私も、招かれた側ではないからだ」
「二百年前の人も、招かれたんですか」
少しの沈黙があった。
「招かれて、そして――名前を忘れられた」
「名前は、消えたら戻らないんですか」
「消えても、忘れられなければ消えない。私はまだ、覚えている」
それだけ言うと、しばらく何も続かなかった。木の軋む音さえ、遠く途切れがちに引いていく。頼れる者が、初めて頼れなくなる――その心細さだけが、確かにそこに残った。
石の手前で、足が一度、止まった。
指先で石の表面に触れた。苔の下から伝わる冷たさは、季節のものではなかった。
踏み出せば、後戻りができない。それでも、ここで引き返す理由も見当たらなかった。息を大きく吸い、麻布の袋を握りしめる。爪先が段差にかかった瞬間、頬を撫でる空気が、ふっと変わった。境界の石をまたいだ。
石の向こうに、一人で立つことになった。
白い光の奥で、何かが動いた。人の形にも、獣の形にも見えない、輪郭の定まらない何かだった。
心臓が、耳の奥で鳴っているのがわかった。呼吸が、浅く速くなっていく。
息を吸うと、これまで嗅いだことのない匂いがした。焦げた匂いでも土の匂いでもない、もっと古い、何かの匂いだった。
声とも音ともつかない何かが、光の奥からこちらへ近づいてくる気配がした。
名前を、呼ばれた気がした。
自分の名前ではない、誰か別の――もっと古い名前を。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第38話をお届けしました。第4アーク「ここが、私の世界」の第1話です。今回はあえて神々を登場させず、歩くことだけに丸ごと一話を使いました。プロットを立てた時、この一話でどれだけ焦らせられるかで次話の衝撃が決まると思い、境界の石の手前で止める形に決めました。
エルが「この石より先には入れない」と言う場面は、ずっと謎めいた案内役だった彼女にも、庭の中で越えられない一線があることを初めて見せたくて書きました。頼れる存在が急に頼れなくなる心細さを、リナと一緒に感じてもらえたら嬉しいです。
うなじの産毛が逆立つ感覚や、雪の下を歩くような重さは、七年間慣れ親しんだはずの庭が、まったく知らない場所に変わっていく違和感を書きたくて選びました。
次話、ついに神々の声が届きます。ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
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