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最果ての地に追放されて七年、そこが神々の聖域だったと都の人間たちが気づいた時、私はもう帰る気はなかった  作者: 空乃ゆきこ


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第37話: 神々が呼んでいる

 角笛が、もう一度鳴った。


 今度は、長く尾を引いた。


 柵の外に整列した兵たちの影が、朝でも夕でもない灰色の光の中で、初めて隙間なく並んだ。




 昨夜からの静けさが、いよいよ重みを増していた。嵐の前の凪に、似ていた。


 風はないのに、天幕の端がひとりでにはためいた。馬の一頭が、また棹立ちになりかけて、御者に抑えられた。柵の内側に立ったまま、その光景を見ていた。刻限が来るというだけのことに、これほどの気配が伴うとは思っていなかった。


 息を吸うと、湿った土の匂いに、微かな焦げ臭さが混じっていた。どこかで、また火が萎んでいるのかもしれなかった。


 兵の列の間から、押し殺した声が漏れてくる。「早く終わらせよう」「終わるのか、これで」——不安の色を隠しきれない囁きが、次々と足元に落ちては消えていった。誰も声を荒らげなかった。荒らげるだけの余力が、もう誰にも残っていないようだった。




 列の先頭に、隊長格の男が進み出た。


 手には、封のない紙束——五日前から、ずっと同じものを持ち歩いていた。読み上げる気配で、紙を開いた。


「達しにより、これより――」


 その先が、続かなかった。




 風が、不意に強く吹いた。


 紙が男の手を離れ、宙に舞った。追おうとした指先は空を切り、紙は霧の中へ攫われるように消えていった。誰も、それを追わなかった。追えば何かが取り返しのつかない形になる——そんな予感が、兵たちの足を止めさせていた。


 隊長格の男は、空になった両手を、しばらくじっと見つめていた。




「――必ず戻る」


 隊長格の男が、初めて声を張った。


「国家の力を使ってでも、戻ってくる」


 その声だけが兵たちの列に届き、静かに反響してから、風の中へ消えていった。誰も、賛同の声を上げなかった。かといって、止める者もいなかった。




 ダグラスが、静かに歩いてきた。


「――終わりだ」


 短い一言だった。


「終わり、というのは」


「撤退する。命令書はなくても、命令の中身は誰もが覚えている。それで十分だと、隊長は言った」




「調査は」


「未完了のまま、持ち帰る。……そう書くしかない」


 帳面を開いたまま、ダグラスは何も書かなかった。ページの白さだけが、しばらく風に震えていた。


「規則以外に、拠り所がないと言ったな」


 覚えていた、と伝えるつもりで、そう返した。


「今日だけは、規則にも答えが書いてなかった」


 ダグラスは、そう言って帳面を閉じた。




 列の奥から、ミラが駆けてきた。


 紙は抱えていなかった。


「リナさん」


「――行くんですね」


「はい。……あの、これ」


 差し出されたのは、小さく折られた紙切れだった。


「二百年前の記録、写しの写しですけど。……持っていてください。あなたのものだと思うので」




 受け取った紙は、ひどく軽かった。


 軽さの割に、指先に残る重みがあった。


「ありがとうございます」


「――こちらこそ。色々、失礼しました」


 ミラは深く頭を下げると、列の方へ駆け戻っていった。その背中に、紙を抱えていた頃と同じ好奇心が、まだ残っている気がした。




 最後に、アルヴィンが柵の前まで来た。


 言葉は、なかった。


 昨日交わした約束を、もう一度繰り返すつもりはないようだった。ただ一度だけ深く頭を下げると、背を向けた。


 その背に応える言葉を探したが、見つからなかった。だから、何も言わなかった。何も言わないことが、今は一番近い返事のような気がした。




 列が、動き出した。


 足音が、少しずつ遠ざかっていく。馬の蹄の音、鎧の擦れる音、それらすべてが、森の奥へ吸い込まれるように小さくなっていった。


 霧が、隊列の後ろ姿を少しずつ隠していった。旗印も、天幕を畳んだ荷も、輪郭がぼやけ、やがて灰色の中に溶けて見えなくなった。五日間、当たり前のように立っていた杭と縄の列だけが、主を失ったまま柵の外に残された。


 水路の方から、久しぶりに、はっきりとした水音が届いた。




 柵の内側に、一人残った。


 振り返ると、水路の水嵩が、七年見慣れた高さまで戻っていた。石の隙間を、迷いなく水が跳ねている。


 右手首に、指先を当てた。


 疼いていなかった。




 水路のそばに、シアが顔を出した。


「みんな、行った」


「うん」


「怖くなかった?」


「――少しだけ」


 正直に、答えた。シアは、それ以上聞かず、水面に映る夕暮れの色をじっと見ていた。




 ――あれは、まだ雪の残る夜のこと。


 庭全体が光ったあの晩、シアは「わからない」と繰り返した。わからないのに、怖くないとも言った。知っている気がするから、と。


 あの光の正体を、今日まで一度も確かめられずにいた。




 ――あの数日後、古木の根元でエルに尋ねた。


 あなたは守られている――それだけを告げられ、続きは「聞く用意ができた時」まで持ち越された。七年、その続きを待っていたわけではない。ただ、あの一言だけが、ずっと胸の奥に住み着いていた。




 ――そして、五日前。


 ミラが持ってきた記録には、目に光を宿した者の話があった。二百年前、同じ光を宿した誰かがいた、とも。名前は塗り潰され、記録はそこで途切れていた。


 指先が、折られた紙切れに触れた。ミラが渡していったものだった。開かなかった。今は、まだ。




 水路の音を聞きながら、右手首の古傷に、もう一度そっと触れた。


 あの夜の熱さも、今日までの疼きも、遠いものになっていた。代わりに残っているのは、名前をつけたものは渡さない、というだけの、単純な芯だった。




 木立の奥から、低い声が届いた。


「――終わったな」


 エルの声だった。姿は、いつも通り見えなかった。




「終わった、と思っていいの」


「人間たちのことは、終わった」


 木が、一度だけ軋んだ。


「だが、庭のことは、まだこれからだ」




「まだこれから、というのは」


 問うと、しばらく答えが返らなかった。風もないのに、上の方の枝が一度揺れた。


「あなたは守られている――七年前、そう言った」


「覚えてます」


「その続きを、話す時が来た」




 喉の奥が、急に重たくなった。


「神々が」


 エルの声は、いつもより低かった。


「あなたに、会いたがっている」




 言葉が、すぐには入ってこなかった。


 守られている、その先にあるものが、人でも精霊でもなく、神々そのものだという事実が、耳から入って胸の底に落ちるまで、少し時間がかかった。


 会いたい、という言葉の裏に何があるのか、考えずにはいられなかった。七年前、役に立たないと判断されて、荷物ごと道の外へ押し出された。あの時の物差しが、もし神々にもあるのだとしたら——会うということは、また値踏みされるということかもしれなかった。喉の奥に、古い恐れが小さく戻ってきた。


「会うって、どこで」


「庭の、まだ足を踏み入れていない場所で」


「それは」


「あなたが、まだ知らない庭だ」




「二百年前」


 紙切れを握ったまま、尋ねた。


「同じ光を宿した人がいたと、聞きました。その人も、会ったんですか」


 しばらく、木の軋みだけが続いた。


「会った」


「今は」


「その者の名は、もう誰も呼ばない」




 その一言に、指先が冷たくなった。


 答えになっていないようで、答えそのものだった。何かを言いかけて、やめた。エルは、いつもそうだ。核心の輪郭だけを見せて、中身は渡さない。


 それでも、今回だけは、退く気になれなかった。




「怖がる必要は、あるんですか」


 静かに、尋ねた。


「ない、とは言わない」


 エルの声に、初めて、迷いに似た響きが混じった気がした。


「あなたが恐れているものと、あなたを守っているものは同じではない――七年前、そう言ったはずだ」


「言いました」


「それは、今も変わらない」




 しばらく、沈黙が降りた。


 水路の音だけが、静けさの底で規則正しく続いていた。


「支度をしておくといい」


 エルの声が、森の奥へ引いていくのがわかった。


「呼ばれる日は、そう遠くない」




 気配が、木立の奥へ完全に消えた。


 一人残された柵の内側で、握っていた紙切れを、ようやく開いた。滲んだ文字の隅に、見覚えのある一文があった。「庭に迎え入れられた者は、目に光の残滓を宿す」——ミラが読み上げたのと、同じ言葉だった。




 紙を、そっと畳み直した。


 名前を消された誰かと、自分との間にある違いは、まだわからない。それでも、この庭に名前をつけられてしまった以上、渡すつもりはなかった。


「――名前をつけたものは、渡しません」


 誰に言うともなく、声に出した。


「人も庭も、もう同じです」




 言い終えた声が、静かな空気に溶けて消えた。


 シアが、水面から半分だけ顔を出したまま、じっと見ていた。何も言わなかったが、寄り添うように、すぐ傍まで近づいてきた。




 森の奥、木立の隙間に、小さな光が一つ、灯った。


 七年前、初めてこの庭に迷い込んだ夜には、なかった光だった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第37話をお届けしました。第3アークの最終話です。プロットを立てた時から、この話は「人間側の決着」と「精霊側の始まり」を一つの話の中で継ぎ目なく渡すことだけを考えていました。撤退の場面をあえて戦闘的な決着にせず、隊長の手から命令書が風に攫われるという小さな出来事で終わらせたのは、庭がずっと「奪わず、ただ押し返す」だけの存在だったことを最後まで守りたかったからです。


ダグラスが帳面に何も書かずに閉じる場面は、彼が積み上げてきた「規則」という拠り所が、この日だけ役に立たなかったことの静かな敗北として書きました。彼なりの誠実さのつもりです。


そして、エルの「神々が、あなたに会いたがっている」——これはEP17で「あなたは守られている」と告げたあの時から、ずっと温めてきた一言です。EP16の光る庭、EP33の二百年前の記録、そのすべてがここでようやく一本の糸としてつながります。「その者の名は、もう誰も呼ばない」というエルの返答は、次のアークへの一番大きな引きのつもりで置きました。


第4アーク「ここが、私の世界」では、いよいよ神々の正体と、七年間の加護の真相が明かされます。ここまで読んでくださって、ありがとうございました。


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